矢印レンズ

兎ワンコ

第1話

 矢印って便利だよな。

 俺たちがどこに出かけてもそいつはある。街のあちこちにはあるし、駅の路線を探す時だってトイレの場所を探すのに絶対に見るよな。

 矢印の概念ってのは十七世紀から十八世紀ごろのヨーロッパから始まったらしい。学術から始まり、いまでは俺たちの生活にはかけがえのないもので、間違いがないように色んなことを指標してくれる。

 もちろん俺もバイクで走っている時、『この先↑直進のみ』って看板には助かるし、『👈今月のオススメ』というポップが貼られた商品には目を向けちゃうからな。

 

 そこでだ、眼鏡を愛用している諸君に言う。

 あんたが掛けている眼鏡に神様の気まぐれな魔法が掛かって、レンズの向こうに映る誰かの頭に二つの矢印が浮かぶんだ。

 太目のボールペンを走らせたような細い線の矢印が二本。ひとつは黒、もうひとつは白。それは人によって様々な方向に向かっているのだ。

 黒い矢印はそいつが嫌ってる誰かを示していて、白い矢印はそいつが恋してる相手を差している。

 ラブとヘイトの羅針盤が見える眼鏡っていえばわかるかな? ドラえもんにでもありそうな道具。そんな奇妙奇天烈な眼鏡があったら、どうする?

 誰かが誰かを好いたり、嫌ったりするのが可視化できる眼鏡。奇妙な話だよな。でもさ、実際にそいつを持った奴が今回の主役。


 こいつもちょっとした昔話なんだ。手短に話すから聞いてくれよ。

 大した話じゃあない。矢印どおりに生きてきた女の子が、初めて案内看板もないケモノ道を歩くお話だからさ。



 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



「彼の気持ちは知りたいけど、彼の矢印が見えないんです……」


 長い説明のあとに、そいつが語った本音がそれだ。

 ブレザー姿の大人しそうな女の子は、すぐ目の前でいじらしく俯いてしまう。店の大きなブラインドから差す春半ばの力強い夕日が、微かに緊張と恥ずかしさで頬を紅潮させているのを映してくれる。

 ボブカットに綺麗にそろえた前髪。毎日きちんと手入れしてるであろう綺麗な薄っすらと白い肌に比べ、対照的に際立つ赤い口紅。最近流行った韓流アイドル系の化粧だ。


浅宮あさみやさんは、こんな不思議な話……信じないですよね?」


 弱弱しく呟き、俯けた顔から上目遣いでこちらを見遣る。まるで、叱られた後に正当な弁明をした時のガキみたい。

 そりゃあそうだ。誰だってそんな話は妄想だと笑い飛ばしてしまう。だが、俺は非科学的なものが大好きだ。特にノスタルジックなやつとか。小さく頷いてやる。


「まあ、普通なら信じないよな」


 甘いアイスココアを一口啜る。たまに来るタリーズコーヒーだが、この味はいつまでも変わらないから好きだ。


 読者の諸君は俺が二年前に本好きの同級生とデートした話を知っているだろうか。知らないならそれでいい。オチは至ってその辺に転がっているような話だ。そんなゆかりのあるTSUTAYAの隣のタリーズコーヒーでまた女子高生と二人きりだ。


 でも今回は色々と違う。高校を卒業した俺は、今では町の小さな製材屋に勤めているということ。乗ってたバイクも原付きからCBR250RR(こいつも先輩からのおさがり。元々弄られてるから中々気に入ってる)になった。

 そして目の前にいる志倉しくら那奈ななは俺の中学校の頃の二個下の後輩だ。残念だけど、俺はナナのことなんか一ミリも覚えちゃいないけど。ナナの方は微かに覚えていたそうだ。


 それと、ちぐはぐな関係の俺たちをセッティングしたのはまた別の人間。そいつは一言でいえば、迷える子羊を助ける勝気で強い女神さま。俺のひとつ年下の女神さまは自分の後輩であるナナの悩みを聞き、電話でこの相談を俺に持ちかけてきた。

 甘くてとろみのあるココアが口の中から消え去ったのを感じて、俺は続けていう。


「信じるも信じないも俺にはどうでもいい。ただ、その魔法の眼鏡っていうのは、今も掛けているおもちゃみたいな眼鏡なんだな」


 自分の秘密を打ち明けて意気消沈気味のナナに言ってやる。ナナは小さく頷いたあと、掛けていた眼鏡を俺に差し出す。

 手に取ってみると、子供向けのプラスチック製の縁が太いワインレッド色の眼鏡で、少し前のサブカル系の女の子がファッションで掛けそうなやつだ。大人しそうなナナが掛けていると内気な性格だと前面に出ている。


 俺はレンズ越しに周囲にいる人間を覗いてみる。残念だが、ナナの言う矢印は俺には見えなかった。


「それ、小学三年生から中学二年生の時まで使ってた眼鏡なんです。途中で度が合わなくなってしまって……。一応、新しい眼鏡があるんですが……。その眼鏡じゃないと矢印が見えなくて……」


 ひとしきり眼鏡を覗き込んだあと、そっと返してやる。

 色んな相談事は受けてきたが、こんな奇妙な依頼者は初めてだ。ま、もっともそれまでの依頼はロクなものじゃなかったが。

 ナナは受け取った眼鏡をすぐにかけ直し、また顔を伏せるように下を向いてしまう。


「信じてもらえなくてけっこうですが……。どうしても、私は彼のことが知りたいんです」


 恥じらいを浮かべる乙女は頬を染めて懇願する。

 気が滅入る部分は多いが、依頼された以上は解決できるように取り組むしかない。俺は納得したとわかるように深く頷いてみせる。


「とりあえず、その眼鏡のことはわかった。でも、ナナの悩みは矢印が表示されない相手の真意を知りたいってわけだな?」


 コクリと小さく頷くナナ。こういうの、あんまり好きじゃないんだよな。年下で、それも大人しい女の子の恋の悩みを掘りだすってのは。特にナナは恐らく傷付かないように波をたてないように生活してきたタイプの人間だ。下手なことを言えば、すぐにふさぎ込んで自分を責めるガラス細工のハートの持ち主だ。

 十八歳の女の子に気を使う二十歳の男。いつだって、男に求められるのはバランスのいい野心と紳士さだ。


「それで……その彼ってのは同じ高校の同級生で、しかも俺と同じ剣道部だったマサノリだったな?」


 恋する相手は先程聞いた。俺と同じ中学校に通っていた二個下の後輩・小島こじま正則まさのり。俺の記憶にあるマサノリは掘りの深い顔つきに、パッと明るい男の子。キリッとした顔をクシャクシャにし、人懐っこい笑顔で、「浅宮先輩、オハヨウゴザイマァス!」と煩わしいくらい元気な挨拶する姿だ。


「小島君とは別のクラスなのですが……二年生の時に同じ委員会になってから、ずっと気になっていました。明るくて、スポーツも出来て……何より、頼りがいのある雰囲気で……」


 そう語るナナの目はどこか力が溢れていた。それだけでもマサノリが如何に良い男か想像できる。ただ、女の子に言われたい言葉をすべて使われるマサノリに嫉妬しない俺じゃあない。

 言われてみれば、中学の時のマサノリは一年生ながら同級生連中を上手くまとめていたっけ。俺にもあれくらい底抜けに明るい性格ならば、そこらじゅうの女の子の矢印を独り占めできたのかもしれない。

 

 両者ともかつての後輩だからこそ、女神さまはナナの相談役に俺をバッティングしたのだ。内心、気乗りしない案件だが。

 なるほど、と納得した素振りを見せて俺は切り出す。


「それで、マサノリは毎週水曜日のこの時間に来るって?」


 ナナは小さく頭を縦に振る。


「確実……というわけじゃあありませんが。でも、この時間に見かけることが多いです。でも、声を掛ける勇気がなくって……」


 耳まで真っ赤にしながら視線を泳がす。人見知りじゃあない俺にはわからないところ。

 俺はふと、二年前の自分を思い出した。

 ここの本屋で声を掛けられて、このタリーズの席に座り、一人の本好きの女の子と半年繰り返したデート。あの時、俺の頭上の赤い矢印は間違いなくその子に向いていたんだろうなぁ。女神さまには知られたくない過去だ。


「別に難しいことじゃあない。恋愛の第一歩は、まず“親しくなる”こと。前に委員会に所属していたんだし、接点はあるんだろ? なら、全然平気だろ?」


「そうですが……。矢印が見えないのは……怖いんです」


 話は振り出しに戻る。ナナは続けた。


「黒い矢印は、近くに嫌いな人がいないと伸びないので、きっと嫌われてないんだとわかります。でも、白い矢印は絶対に見えるはずなんです。その両方が見えない人間って、私が見てきた中ではいないんです。もしかしたら、好きな人には機能しないんじゃないかって、考えたくらいです」


 ナナの口調が震える。相槌を打つ俺のことなんて見えないのか、ナナの語りはゆっくりだが加速する。


「怖くて怖くて、たまらないんです。ずっと、矢印だけが頼りでした。小さい頃から、はっきり喋るのが苦手で……。だから、人の邪魔にならないように生きてきました。言われたことはきちんとやって、笑わなきゃいけないところでは笑って。白い矢印が私に向いたことはありませんが……黒い矢印がこっちに向かないように必死でした。だから、白い矢印なんて自分にはあまり関係ないものだと思ってました」


 ようやくナナのことが理解出来た。自分に自信のないナナにとって、魔法の眼鏡はこの世界を生きるための聖具なのだ。今までずっと頼っていたのに、突然機能しなくなったら誰だって不安になる。諸君だって、突然スマホのナビゲートアプリが使えなくなったら困るよな。


「でも、マサノリくんのこと、好きになって……初めて白い矢印が気になりました。でも、その時になって……私、自分に何にもないって気付いたんです。この眼鏡を外したら……空っぽの自分しかいないんです」


 言い終えたナナは眼鏡を持ち上げ、手の甲で目を拭った。話しているうちに感情が高ぶったのだろう。だが、その涙こそが、変わりたいという気持ちの強さの証拠だ。


 俺は「わかったよ、ナナ」と諭し、「それだけ聞けば、俺がなんとかしてやる」と息巻く。

 言い終えて高ぶりが収まったのか、大きく息を吸いながら「すいません」と謝るナナ。俺はナナが落ち着くのを待ってからいう。


「ナナ、大したことじゃない。矢印が見えない俺たち一般人が、人の気持ちを知るってのはいつだって古典的な方法なんだ」

「古典的な……方法ですか……」

「あぁ。そこに関しては単純だ。そして、ナナがこれからやることも、至って単純だ。俺の指示通りに動いてくれればいい」

「はぁ……」


 腑に落ちない顔をするナナだが、俺は払拭させるように目に力を入れる。ナナとのやりとりの間に、すでに一つの作戦が思い浮かんでいた。

 難しく考えることはない。なぜなら、ナナの悩みは誰だって通る道だ。そうなれば、俺のやることは決まってる。

 時計を見て、まだナナがいうマサノリの到着時間を確認する。少しだけ、雑談する時間はある。


「なぁ、ナナ。ちなみに俺の白い矢印はどっちに向いてる?」

「……あっちですね」


 ナナはゆっくりと指さす。差した方向は南。

「俺はなるほど」と頷いて、それ以上は言わなかった。俺の好きな女の子の話はここで語るのは勘弁だ。特に、女神さまには伝わるようなことは勘弁だ。

 俺はグラスの底ですっかり薄まったアイスココアを一気に飲み干した。


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 俺たちはタリーズを出て、店の奥にある旅行雑誌が並ぶ棚の前に立った。そこでナナにテーブルを立つ前に渡しておいたBluetoothリミッターを接続させた有線式のイヤホンを耳にはめて貰う。高校時代からずっと世話になってるモンスター・ケーブル社のごついカナル型。


「こいつなら遠目から見ても音楽を聴いてるようにしか見えない。マサノリが来るまではスマホで喋ってくれ。俺が入り口側を見るから、マサノリが来たらすぐにスマホをしまうんだぞ」

「わ、わかりました」


 Bluetoothとスマホを連動させ、イヤホンを耳にはめるナナ。まるで映画の捜査官みたいだ。俺はスマホを操作し、さきほど教えて貰ったナナの番号に通話をかける。着信を受け取ったのを確認すると、俺はマイクに向かって話かけた。

 

「ナナ、聞こえるか?」

『は、はい。大丈夫みたいです』


 目の前のナナとスマホから同時に音声が飛び出す。


「大丈夫みたいだな。まずは漫画コーナーで待機してくれ」


 そう告げるとナナはすんなりと漫画コーナーに歩いていった。

 ナナの姿が離れていくと、俺は店の入り口の前にある『新作・おすすめ』のコーナーに立つ。

 俺は新作を出すという奥田英朗の『空中ブランコ』(伊良部シリーズ!)を手に取る。内容はよく知ってる。俺は何度か見た背表紙を見つめ、スマホを耳に当てたまま話す。


「ナナ。ぶっつけ本番だが、マサノリと喋って貰う。偶然を装うが、バッタリ会うくらいがちょうどいい」

『わかりました。頑張ってみます』


 二年前のことを思い出す。俺もここではそんな感じに再会した友人がいた。ナナが上手く出来るかどうかはわからない。だが、拙い言葉でも伝わるもんだってある。それに、何か対処しきれない時は俺が出てってやればいい。

 俺はバイク用に購入したマイク付きのBluetoothカナル型イヤホンを起動し、スマホと連携させる。連動出来たのが確認すると、すぐにカナル型イヤホンを耳に装着する。


「ナナ、しばらくこのまま通話状態にする。電池が持たなくなったらいってくれ」

『わかりました』


 しばらくナナの声は聞こえなかった。俺は立読みしながら、入り口に何度か視線を向ける。

 マサノリが来る気配はない。自動扉のガラスの窓の向こうにはまだオレンジ色の夕日が駐車場を照らしている。

 本当にマサノリは来るのだろうか? 手に持つページが進み、第一話の半分ほどまで進んだところでイヤホンからナナの息遣いが聞こえた。


『……話しているうちに黒い矢印が自分に向いたらどうしよう。それが、すっごく怖い』


 それはひとり言のような呟きだった。


「どうした?」

『……やっぱり、私には無理だったんです。ホント、なんでこんな相談しちゃったんだろ……』

「ナナ?」


 黙ってナナの話を聞き続ける。

 

『……矢印なんて、本当は見えない方が良かったんです。何も知らない方が、何も見えない方が、幸せだったんです。誰がどんなことを考えてるかなんて、知らなければよかった。いざ自分が誰かを好きになったら、誰かと深く繋がろうとすることがこんなにも怖いなんて……』


 矢印だけが頼り。ナナにとって、矢印だけが自分のすべてだったんだ。こんなご時世だ。親切な人間がランプを片手に安全な道を示してくれるなら、誰だってそれについていく。特に、ナナのように不器用で自信のない人間ならなおさらだ。

 弱々しく『ホント、ごめんなさい』と吐き終えたあと、俺はしばらくすぐに返事せずに逡巡する。


 矢印だけを頼りにして空気のような存在となったナナと、太陽のようにずっと明るく頼りにされるマサノリ。まさしく正反対の二人。

 俺はどうにかしてマサノリという太陽の日差しの元にナナを連れて行ってやりたい。触れても、火傷しない熱い男の元に。


「ナナ、聞け。その矢印がどれくらい完璧なのかは俺にはわからない。でも、お前がそんなにビビるほどだから、きっと完璧なものなんだろうな」


 最後の方はほぼ達観的であった。一般人には、神様に愛された眼鏡を持つ少女の悩みは決してわからない。でも俺は声音に力を入れていってやる。


「だけどさ、ナナがいう矢印は何年もずっと同じ方向に向いているか? きっと、いつの間にかどっちかに向いてないか? ナナの矢印だって、いつの間にか向き始めたんだろ?」


 ナナから返事は返ってこない。ここぞとばかりに畳みかける。


「人ってのはなんかの拍子で変わっちまうことがあるんだ。ナナが矢印が見えなくなったことで不安になるように、たった小さな一言や二言でも幸せになったりするもんなんだ」

『小さな……ことで』


 頷いてやりたいが、この位置からでは見せられない。少し間を開けてから続ける。


「ナナ、お前は優しい奴だ。上手く喋れなくても、マサノリはきっと気付いてくれる。あいつのことはよく知ってるから、間違いない」


 マサノリのことに関しては正直にいえばウソに近い。でも、自信のない女の子を勇気づけるための嘘だから、許してほしい。

 二秒ほどして『わかりました』という返事が来た時、俺は声をひそめていう。


「……ナナ。眼鏡をはずせ」

『え……?』

「いいから。予備の眼鏡はかけるなよ」


 イヤホンの向こうでカチャリと眼鏡のツルが畳まれる音が聞こえた。どうやら指示通りに従ってくれたらしい。


 俺は店の入り口を注意深く見つめる。


『浅宮さん、言われたとおりにしました。あの……次の指示は……』

「ポケットにその眼鏡をしまえ」


 ガサゴソと衣擦れの音が響く。どうやら眼鏡をしまってくれているようだ。

 俺は周囲を確認し、持っていた本を棚に戻して足を動かす。


『それで……次は?』

「そのままレンタルCDコーナーに行け」

『え、でもそうすると視界が……』

「いいから指示どおりにしてくれ。もうすぐマサノリが来る。あいつに見られる前にCDコーナーに行け」


 俺はナナの姿が見える位置に移動し、その動向を伺った。

 おぼつかない足取りでナナは書籍コーナーからCDコーナーへと歩く。両手を斜め下に降ろし、揺らしながら歩く姿はまるで墓から出たばかりのゾンビみたい。すれ違う客もそのナナの動きに不審に思って振り返る始末。


 滑稽かつ不審な姿のナナには悪いと思ったが、俺は次の指示を出す。


「次の棚を左に曲がって入れ。店員が脚立に上がって作業してるからぶつかるなよ」


 ナナは指示通りに棚に入った。すぐ目の前で脚立に上がって、返却されたCDをケースに詰め込んでいるのに気付き、その横をゆっくりと通り抜けようとした。

 次の瞬間、ナナは足元に置いてあったレンタルCDが山のように入った籠につま先をぶつけ、床に半透明なディスクとぶちまけた。CDケースは柔らかいクッションフロアの上で扇状に滑って散らばる。


「ご、ごめんなさい……! あ、足元見てませんでした!」


 ナナは慌ててしゃがみ込み、散らばったケースをかき集める。作業していた店員だけじゃなく、通りがかった客もそれに手を貸した。その辺りで俺は近くの棚に身を隠す。

 近くにいた客の手もあって、すぐにCDの山を元通りに戻すことが出来た。ナナは店員に頭を下げたあと、手を貸した客にもペコペコと頭を下げ始めた。その声がマイクを通ってこちらにも聞こえる。


『す、すいません! 助かりました……!』

「いや、大丈夫だよ! あ、あのさ……」

『え……?』


 聞き覚えのある声に気づいたのだろう、ナナはポケットから眼鏡を取り出し、正面に立つ男の顔を見た。


 散らばったCDの回収を手伝ったのが、来店してきたばかりのマサノリだと気付いた瞬間、ナナの顔が冬に熟れたリンゴのように真っ赤になっていくのが遠目でもわかった。


 五年ぶりに会うマサノリはたくましく、日焼けした肌に短髪を切り揃えており、その顔つきは生意気そうなガキから、まるで肉体派俳優のようないかつさに変わっていた。


「え、えーとさ……四組の志倉さんだよね?」

「あ、は、はいっ! 志倉ナナですっ!」


 まるで幼稚園児の挨拶のように背筋を正して挨拶する。馬鹿正直を直立不動っていう言葉を彷彿させるナナを、ちょっと可愛いと思ってしまった。


「い、いや、偶然だね。まさか志倉さんとこんなとこで会うなんて」


 照れくさそうに白々しい台詞を吐くマサノリ。どうして白々しいと思ったのかは、マサノリが入店した時から観察していてすぐにわかった。


 ナナに眼鏡を外すように促す直前、俺は来店してきたマサノリに気付いた。店内に入ってすぐにキョロキョロと頭を動かし、店内を伺うその仕草。そして俺の指示通りに書籍コーナーからビデオコーナーに移動するナナを視界にした時、ゆっくりと後を追うその姿。そこで直感した。


 ナナはいってた、「決まって水曜日には来る」と。恐らく、マサノリは外に停めてあるナナの自転車を見てきているのに気付いたのだろう。まさかとは思ったが、この展開こそが俺の予想の答えになった。


 マサノリははなっからナナに気があったのだろう。どっちが先に好きになったのかは知らないが、マサノリもまた、声をかけられるのを待っていたのだ。

 両想いならばあとは簡単。おかげで古典的な方法で二人に会話させるきっかけが作れた。

 “気付いてほしい恋” 言葉にすると綺麗だが、なんの進展もないやつ。あんな怖いもの知らずのようなマサノリが恋に臆病だと思うと、指をさして笑い飛ばしてやりたいくらいだ。


「志倉さんも、音楽とか好き? あ、も、もしよかったらさ、そ、その……なんかオススメとかないかなー?」


 硬派を気取っているが、若干上擦った声のマサノリ。別にマサノリに対抗したいわけじゃないが、その年の時には俺の方が上手く演技出来ていたと思う。もちろん、教授させるわけにはいかない。


『え、あ、あの……わ、わたし』


 すっかり挙動不審になったナナは、マサノリのやや後ろにいる俺に目をチラリと目を向ける。幸いにもマサノリは緊張を隠すためにか、ナナの顔から視線を逸らしたので勘付かれなかった。


「ナナ、自信もってやれ。あとは、眼鏡がなくても上手くいくから」


 マイクにぼそりと告げて俺はスマホの通話終了ボタンを押した。ナナと目が合うと、力強い目を一瞬見せて小さく頷いて見せた。

 その後、マサノリに何か話しかけていたナナ。その会話はもう聞こえないが、なんとなく想像は出来る。これで俺がやるべきことはなくなった。


 俺は背を向け、後ろ手で親指を立ててやる。俺なりのエールの送り方だ。


 出口に向けて進める足に、落ち着かない心臓の音。胸がこそばゆいという表現をすれば正しいだろうか?

 他人の初々しい恋なんて、生で見るとこっちまで火傷しそうなくらいに暖かいよな。俺は肩がゾワゾワする感覚を纏いながら二人の姿を背にし、店の外を出た。


 ナナに渡したワイヤレスイヤホンは取りに行くわけにもいかず、くれてやることにした。五,五〇〇円もしたが、ひとりの女の子の門出祝いみたいなもんだと思えば、痛くもない。

 バイクに跨り、ハンドルに掛けていた半キャップヘルメット帽を被って、エンジンを始動した。アクセルを吹かし、俺はTSUTAYAの駐車場を抜けて、国道へと駆けていく。



 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 国道をしばらく走り、家から少し離れたコンビニに停車した。エンジンを切ると俺はポケットからスマホを取り出し、履歴から番号を選択する。もちろん相手は悩める子羊を俺に導いた女神さま。

 電波はここから南に百二十六キロも離れた女神さまにあっと言う間に飛び、ニコール目で「はい、もしもし?」と声が届いた。


「もしもし、俺だけど。約束通り、ナナの悩みは解決してやったよ」

「そうですか」

「なんだかんだで両想いっぽいから問題なさそうだ。なんかさ、正直俺がいなくても大丈夫そうだったよ」

「わかりました。それはお疲れ様です」


 淡々とした口調で返ってくる。まるで機械と会話してるみたい。急にイタズラ心が湧いた俺はいう。


「それで、謝礼とかなんかあるのかな?」


 一瞬だけ、間が空く。スゥっと小さく息を吸い込む音が聞こえた。


「……私の『ありがとうございます』ではダメですか、先輩?」


 少し前にナナに放った言葉を思い出した。小さな一言。それも悪くない。当然、俺は調子に乗った。


「大した言葉だと思う。渡辺さんからそんな言葉は、なかなか聞けないからね。でもいつか、こっちに戻ってきたら、その言葉を目の前で言ってもらい―――」


 言いかけている途中で電話は切れた。迷える子羊には優しいが、やさぐれた野良犬には厳しい女神さま。

 強いていえば、ナナの眼鏡で彼女を見て貰いたいもんだ。その時は、女神さまも天から引きずり降ろしてやるのにな。


 すっかりと落ちかけた夕日を眺め、さっきまでのことを思い浮かべる。

 気弱だけど、矢印が見える不思議な眼鏡を持ったナナ。いまはいかつくて王子様に見惚れているだろう。不器用な二人は、きっとぎこちなく矢印のない道を行くだろう。


 矢印。それにしても、ナナはマサノリの矢印が見えないっていっていた。本当に魔法の眼鏡の故障なのだろうか? バイクに腰掛けて少し考えてみる。


「あぁ、そうか」


 独り言ちて、俺は思い出した。ナナは言ってたっけ。“細い線の矢印が見える”って。


 サイドバックからメモ帳を取り出し、一緒に挟んでいるボールペンを走らせる。

 コンビニの看板が照らす微かな灯りの中、書き終えたそれを見て、納得した。

 そりゃあそうだ。最初からあいつに向いていれば、こんな細い←、目の悪いナナには見えないもんな。

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