第2話 青嵐歌劇場

 劇場はかなり混雑していた。開演まであと30分。

「変わらないね、ここは」

 研一がドレスアップした結希を眩しく見ながら言う。研一もまたスーツ姿だ。2人とも着ていく物を相談したわけではなかった。

「うん。なんだかドキドキしてきた」

結希が答えたが、それは素直な感想だった。

 ロビーは赤い絨毯が敷き詰められ、吹き抜けの天井からは大きなシャンデリアが下がっている。キラキラした光がスマホの画面に反射して不思議な模様を作っていた。

「スマホオフっと」

 結希はスマホの電源を切った。研一もそれに倣う。

「じゃあ、ちょっとトイレ行ってくるから。席にいて」

 研一は結希にそう言うと階段の方へ歩いて行く。残された結希はパンフレットを売る売店や様々なグッズ売り場を眺めていく。久し振りの劇場に高揚している自分があった。

 初めてこの劇場へ来たときのことは覚えていない。2歳か3歳かそのくらいの時だったと母から聞いたことがある。結希はその頃から母と二人きりだった。父親のことはよく分からない。記憶の中に全く存在しないのだ。

 目指す座席を見つけると、既に研一は座っていた。

「早いなあ」

「何見てたの?」

「パンフレットとか・・・」

「買う?」

「いいよ。高いし。別に私、ファンじゃないしさ」

「おいおい、ここでそんなこと言うと、ぶっ飛ばされるぞ」

「そうね。危ない、危ない」

それから2人は黙って開演を待った。研一が横を向くと、結希の横顔がある。場内の照明が乱反射して、緞帳を見詰める瞳がキラキラ輝いていた。

 気付かれないうちに研一は前を向く。まだ中学生の結希が眩しく見えた。

 結希が研一の家に遊びに来るようになり・・・、長い年月が過ぎた。

 宮島結希は中学3年生、冬月ふゆづき研一が高校2年生である。

 開演のブザー。緞帳がゆっくりと上がっていく。眩い光が舞台上から溢れ、観客は夢の世界へ誘われる。

 結希は舞台に集中していた。軽く手を動かし、まるで自分がそこ(舞台)にいるかのように口を動かしている。歌の場面では指先で拍子を取りながら頭を振った。

 研一は劇に集中出来ずにいた。それは、今自分の左隣に座って舞台に集中している宮島結希のせいだった。

『結希って、こんなにきれいだったっけ?』

 研一は心の中で問い掛けていた。いつの間に・・・、この前までは妹だったのに。研一は劇場の中で息苦しさを覚えた。

 駅近くのファミレスで遅い昼食を摂った。

さっきから結希は今日の舞台のあそこが良かったとか、あの人の歌がうまかったとか、盛んに話している。だが研一には何一つ入って来ない。

「ねえ、研兄ぃ、聞いてる?」

結希に言われて研一は我に返る。

「あ、ああ」

「面白かったよねえ」

「そうだね」

「それにしても三日月さんの歌、最高だったなあ。研兄ぃもそう思うでしょ?」

 三日月さんというのは今日の舞台の主演女優だ。

「♬バラの香りより深く、あなたを愛していま〜す♬・・・」

 突然結希が小声で歌い出した。

「お、おい」

研一が言っても結希の歌声は段々大きくなる。

「だめだって」

研一は周囲を見廻しながら結希を制止するのに必死だった。

「止めてくれよ。こんな所で歌うなって」

言われた結希はペロッと舌を出す。

「私って研兄ぃに似てるんだよね」

「俺に?」

「だって、私の身体の血液の1/3は研兄ぃのなんだよ。そりゃ、似ちゃうでしょ」

「ったく。いつのこと言ってんだよ。それにもうとっくに俺の血なんか無くなってるよ」

 研一は歌劇場からずっと引きずっていた感覚から現実に戻った気がした。

「そんなことないよお。研兄ぃの血は私の身体の中で今も流れてる」

 結希はそう言って左胸を叩いた。ジャケットのコサージュが潰れた。

「ああ、潰れたじゃないか」

研一が造花の花を直そうと手を伸ばす。すると結希は自分の胸を研一の方に突き出した。慌てて手を引っ込める研一。また変な感覚が蘇る。

「なあにい? 研兄ぃ」

結希が悪戯っぽい顔で研一に微笑みかける。

「もう忘れたよ」

「私は忘れてない。忘れらんないよ。いきなりトラックにここのところぶつけられたんだよ」

 結希はそう言うと今度は脇腹をさすってみせた。この怪我のため研一の血液が結希に輸血された。結希はそのことを言っているのである。様々な不運が重なってその時は相当量の血液が輸血されたことも事実だった。だけどその血液が結希の身体の中に今でも残っているはずはない。

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