出た場所は、所謂一般道だった。

 優成達から見て道路は左右に伸びており、優成達がいる路地裏を無視すれば一本道である。車道が真ん中を通り、左右に歩道がある。昼間であれば大勢の人が行き交っていたのだろうが、夜中では人も車も通っていない。

 一般人がいないのは良い。餓鬼こと人喰い殺人鬼の巻き添えを気にしないで済むのだから。しかし環境的には極めて不味い。


「っ……これは、流石にヤバいか」


 思わず、優成の口からは悪態が漏れ出るほどに。

 路地裏のように狭い空間であれば、足止めを仕掛けるのは容易だった。相手が何処を通るかなんて考えなくて良いし、適当に設置すれば確実に相手は踏み付けていく。難なら罠が見え見えでも問題はない。足止めが目的なのだから、時間が稼げればそれで良いのだ。

 しかし道幅が広く、視界が開けていてはそうもいかない。餓鬼は正面だけでなく左右にも動けるため、仕掛けた罠を躱す事が簡単に出来てしまう。何処かの細い横道に入ればこれらの問題は解決するが、目の前の『一本道』に、自分達がいる路地裏以外の横道はないのは今し方確認したばかり。

 いや、それよりも最悪なのは。


「(餓鬼の奴が、俺達の追跡を諦める事……!)」


 公園まで誘導出来れば、神楽が呼んだ応援と協力して逮捕までいける筈。しかしそれは、餓鬼が最後まで自分達を追うという前提の上での話だ。

 ここまでの行動から考えるに、あの餓鬼に理性と呼べるものがあるとは思えない。神楽が現れても逃げる事なく襲い掛かるぐらいなのだから、人目の付く場所で殺人を行う事そのものに心理的な抵抗なんてないだろう。だがもしも開けた場所を、なんとなくでも嫌がっていたら、追うのを止めてしまうかも知れない。さながら、野生動物が茂みから出てくるのを嫌がるように。

 それが一番困る状況だ。果たして餓鬼は追ってきているのか、それを確認すべく優成は後ろを振り返った。


「――――は?」


 その行動が、彼の身体を強張らせてしまう。

 優成は見てしまった。自分の方目掛け飛んでくる巨大な、長さ二メートルはありそうな白いパイプの姿を。

 そして飛んでくるパイプの向こう側に、明らかに物を投げた体勢の餓鬼がいた。


「ごぽ、ぽぼぉぉ……」


 餓鬼は虚ろな顔で優成を見ている。白濁した瞳に何かが写っているとは思えないが、間違いなく優成を見つめていた。

 パイプはビルの壁面(恐らく室外機に繋がっているもの)から剥ぎ取ったのか。そんな馬鹿な、と言いたいところだが、人体を引き裂く怪力があれば可能だろう。

 冷静に考えれば納得は出来る。しかし常識から逸脱した光景には違いない。そしてどれだけ理解したつもりになったところで、人間の思考の土台はあくまでも常識だ。そこから逸脱したものについて考えるのは、脳にとって小さくない負担となる。

 故に優成の身体は顔だけ振り向いた体勢のまま強張り、高速で迫りくるパイプを眺める事しか出来ず。

 見えた瞬間に躱せば避けられたかも知れないパイプが、優成の背中を直撃した。


「ぐぁっ!?」


「おやっさん!?」


 想像していたよりもずっと強力な打撃に、優成は呻きと共に転倒してしまった。ごろごろと道路を横断するように転がり、歩道と車道を区切る段差にぶち当たってようやく止まる。


「げほっ! ごふ、ぅ……ぐ……!」


 痛みから咽る。両手両足を使って立ち上がろうとする優成だが、背中から全身に広がる痛みの所為で身体が上手く動かない。

 恐らく、骨折などはしていない。精々打ち身程度だと優成の感覚では思う。だが、この状況ではむしろ、不幸にもと言うべきなのかも知れない。痛みがあまりにも酷いと、人間の身体は脳内麻薬を分泌してそれを和らげようとするという。その状態であれば、骨折しようが全身から血が出ようが、なんて事もないかのように動ける。

 勿論それは身体を無理やり動かしている状態であり、動かすほどに代償はどんどん蓄積していき、後々重大な問題が起きるだろう。しかし目の前に迫っている脅威から逃げられるのなら、安全な場所で悶え苦しむぐらい安い代償というものだ。

 なんにせよ今の自分は動けそうにないと、優成は判断。公園まで逃げるという作戦は、少なからず軌道修正が必要だろう。


「夏目……お前は、先に公園に、行って……応援を、呼んでこい……!」


「な、何言ってるんですか! 出来る訳ないですよ!」


 神楽はそう叫ぶと優成の前に陣取り、構えを取る。餓鬼を迎え撃つつもりのようだ。

 『市民』の命を守るのならば、これは正しい選択だ。応援を呼ぶためという理由で、市民を凶悪犯の前に置き去りにするなど言語道断である。

 しかし今、警察官として優成達が優先すべきは犯人逮捕だ。ここで餓鬼が優成と神楽を瞬く間に殺して、その後誰にも見付からず立ち去ったら、餓鬼の存在を仲間に伝える術はない。捜査は振り出しに戻り、新たな犠牲者が出てしまう。

 優成に構わず応援を呼ぶのが『正解』だ。尤も、人間とは合理性だけで生きてる存在ではない。最善の方法だと説明したところで、神楽は断固反対するだろう。そういう人間だから彼女は警察官になったのだ。


「(クソっ、どうすりゃ良い……!?)」


 現状で打てる手はないか。考えてみるが、優成の頭に名案が浮かぶ事はない。手負いな上に銃もない状況で、何をどうせれば人間離れした力の相手を逮捕倒せるというのか。

 そもそもこうして暢気に考え込んでいられるのも、餓鬼が中々距離を詰めてこないからに他ならない。それも餓鬼の表情を見るに、嫌がっていたり、困惑している訳でもなかった。

 奴はただ、じっと優成達を見ている。注意深く、疑わしいと言わんばかりに。


「(迂闊に近付いてこないのは、さっき痛い目に遭ったからか。そりゃあ警戒するよな、俺だって同じ立場ならそーする)」


 策がない現時点に限れば好都合だが、しかし後々面倒な事になるだろう。警戒されては、罠に嵌めようがないのだから……尤も、何一つ対策を考え付いていない状況でそれを言うのは、負け犬の遠吠えと大差ないだろうが。

 最早これまでか。

 追い詰められた優成と神楽。だが優成はまだ諦めるつもりなんてない。力強い構えを取り続ける神楽も同じ気持ちだろう。

 優成は痛む身体をどうにか立ち上がらせ、神楽と同じように構えを取る。跳び付いてきたなら、また背負投を喰らわせてやるつもりだ。持ち前の柔道技術で果たしてどれだけやれるのかは分からないが、やるだけやってやると意気込んだ

 直後、眩い光が優成達の目を刺激する。


「うっ……これは……」


 一体なんなのか。優成は構えていた腕で影を作りながら、光が差し込む方を見遣る。とはいえあまりに眩しくて、それを発するものの輪郭すら見えやしない。

 唯一正体を探るヒントがあるとすれば、五月蝿いぐらい鳴り響かせているエンジン音ぐらいなもの。

 しかしそれだけ聞ければ、現代人である優成は正体に見当が付いた。

 自動車だ。車種も大きさもよく分からないが、兎に角車が来ている。されど問題なのはそんな瑣末事ではない。

 光が、自動車が、猛然とこちらに突っ込んできている事だ。鳴らしている爆音も併せて考えれば、大幅に法定速度を違反した状態で。


「ま、不味い!」


「うわぁ!?」


 優成と神楽は大急ぎで道路の端に寄る。普通に考えれば、道のど真ん中に人がいれば車は止まるだろうが……エンジン音から二人は察した。あれはタイプだと。

 対して、餓鬼は立ち止まっていた。


「ごぽ――――」


 餓鬼は小首を傾げながら車の方を、眩しさで目を細める事もなく眺めるだけ。

 奴は知らないのだ。銃に撃たれたらどれだけ痛いのか、割れたガラスの上を歩くとどうなるのか、そして自動車に撥ねられたらどうなるのかを。

 分からないから様子を見てしまう。恐らくは、小さな子供が走っている車に触りたくなるように。子供であれば母親がそれを止めるだろうが、生憎餓鬼にそんな人物はいない。

 だから餓鬼と自動車は激突し、


「ぶぎっ!?」


 呻くような声を上げて、餓鬼は自動車に撥ねられた。

 空中でぐるぐると回転した餓鬼は、受け身も取れず道路に落下。ごろごろと転がり、やがてガードレールに激突して止まる。

 餓鬼はそのまま、起き上がる事はない。痙攣している様子もなく、まるで人形のように動かない。


「クソ! マジかよ――――」


 自動車からは髪を金色に染めた(所謂チャラチャラした身形の)三十代ぐらいの男が出てくる。余所見をしていたのか、居眠りでもしていたのか。いずれにせよ事故を引き起こしてしまった男は酷く狼狽していた。

 そんな彼の肩を、優成はぽんっと叩く。

 最悪の状況でいきなり肩を叩かれ、混乱しているであろう男は鋭い眼差しを優成に向けてくる。が、優成が警察手帳を見せると、顔を一気に青くした。ついでに、開いた口からは少し酒臭さも漂っていた。


「い、いや、あの、これは」


「あー、落ち着け。お前を今すぐ逮捕しようって訳じゃない。いやまぁ、法的に無罪放免にも出来ないし、同情するつもりは全くないが、とりあえず後回しだ……それと、アイツには近付くな。危険だから」


「き、危険?」


「神楽。とりあえずコイツが逃げないよう『護衛』しておけ」


「うっす」


 困惑する男を神楽に任せ、優成は餓鬼の下へと向かう。

 餓鬼はうつ伏せの状態だ。恐る恐るその身体に手を掛けた優成は、転がすように餓鬼を仰向けにしようとする。餓鬼の身体は抵抗も何もなく、ごろんと転がってその顔を優成に見せた。

 餓鬼が浮かべていたのは、大きく目を見開き、口をぽかんも開けた表情。

 少し間が抜けているようにも見える顔だ。自分の身に何が起きたのか、何が起ころうとしているのか……何も分かっていなかった事が窺い知れる。

 そして首筋に手を当てれば、最後まで知らないままだった事も分かった。


「……事故死、か」


 銃弾を受けても動いていた身体だが、重さ一トン超え、しかも暴走に近い速さの自動車との激突には耐えられなかったらしい。一点集中でダメージを与える銃弾よりも、面で打撃を与える車の方が(銃は優成がわざと急所を外していたのもあるが)致命的だったのもあるだろう。

 この結果を、めでたしめでたし、という気に優成はならない。例え事情聴取が出来そうにない相手だとしても、逮捕して事件の背景を調べ、裁判を受けさせる……そこまでが警察の職務だと考えているからだ。

 容疑者死亡で人喰い殺人事件は終わり。そんな『解決』、納得など出来る筈もない。そもそもこの餓鬼が本当に人喰い殺人鬼だったのか、まだ断言は出来ない状況だ。

 それでも優成は思った。とりあえずこれで、更なる犠牲者は出ない筈だと。残す仕事はその予感が正しい事を確かめるだけ。遺体から得られた数々の情報が、予感の正しさを裏付けてくれるだろう。

 そして、出来る事なら。


「お前は、一体何者なんだ……?」


 事件を起こした動機よりも何よりも、その正体を優成は知りたかった。

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