犬神弥太郎

第1話

終電も終わった時間。


 いつものようにビジネスホテルに電話をしたが、混雑。


 そういえば、今日は何かイベントが有ったなと思うも、それらを思い出す気力もない。


 サービス残業でこの時間。すでに2時を過ぎている。


 ブラック企業と言われ、歯車と言われながらも、生活の糧を稼ぐためにはと諦めている現実。


 古びたオフィスビルのカビ臭い空調にも慣れてきた。


 とりあえず、一人でも泊まれそうなブティックホテルかネカフェでも探すかと会社を出た。


 意外にも人通りの多い路上。


 昼間の様子とは一転し、夜の仕事の関係者と客がチラホラとうろついている。


 下手に客引きに捕まると、高価な店にでも連れて行かれて一文無しだ。


 客引きの派手な大通りではなく裏通りを通り、人混みを避ける。


 事務所を出た時間は2時半。どこか泊まれるところを探せれば、4,5時間は眠れるだろう。


 ふと、昼飯の時の事を思い出した。


 妙に気になったチラシ。


 弁当を買った時についてきたチラシはいつも見もせずに、弁当の下敷き代わりだ。


 しかし、今日のチラシだけは妙に気になった。何処にでも有るようなネカフェのチラシ。


 思い出しついでに行ってみるかと進むさきを変える。


 妙な違和感がある。


 なんであんなチラシを覚えていたのか。


 なんであんなチラシを弁当屋が配っていたのか。


 まあ、どうでもいい。泊まれて、眠れればいい。


 疲れ果ててる体に休息を与えられるなら、どうでも良かった。


 10分も歩けば、目的地。


 本当にここだろうかと疑問に思うほどの雑居ビル。捨て看板が入り口にあり、しかし、ほかの宣伝はない。


 チラシを配る程なのだから、もしかしたら混雑して居るのかと思ったが、入り口にひと気は無い。


 捨て看板はビルの入口に針金で固定されてる程度。まるでやる気が感じられない。


 軽い溜息と共にビルの中に踏み入れると、直ぐにエレベーターホールだ。そこも、何の装飾もない。


 エレベーターのところに、店の名前とフロアが書かれているだけ。


 割と大きいビルなので、1フロアを使った店なら眠ることくらいは出来るだろう。そう思いながらエレベーターのボタンを押す。


 エレベーターに乗ると、やはり簡素に4階の部分にネカフェの名前がある。


 僅かに諦めを感じながらもボタンを押し、エレベーターのドアを閉める。


 ふと、妙な感覚。1階から4階への移動なのに、上昇感がない。


 ボタンを見て確認しても、ちゃんと押してある。エレベーターの階表示も2,3とあがっていく。しかし、上昇感は無い。


 4階。


 扉は開くも、降りる気になれない。やめておこうと、そのまま1階を押す。


 エレベーターの扉は、しかし、閉まらない。


 1階のボタンも反応しない。


 古いビルだからな、と諦めつつもエレベーターから出た。


 故障でもしていて、いきなり閉じ込められるのはゴメンだ。


 エレベーターから出ても、店が見当たらない。降りる階は4階だったはずだ。エレベーターもその階で止まった。しかし、店は見当たらない。


 見渡しても、雑居ビルの空きテナントの扉が並んでいる。


 ため息を付きながらも、非常口を探す。


 エレベーターでは降りれそうもない。4階程度なら階段で降りれば良いだろう。


 意外にも入り組んだ通路で、そこからは非常口が見当たらない。


 こんな広いビルだったか? と疑問に思うも、階段や非常口がないのは考えられないと歩きまわる。


 広い。


 まるで迷路のように広い。


 流石に疲れよりも恐怖が勝ってきた。


 ここから出たい。


 とりあえずエレベーターホールに戻ろうと振り向くと、しかし、そこにはまったく見覚えない通路。


 天井には切れかけの蛍光灯と、非常口の方向が書かれた緑色の案内灯。


 どこが非常口だよ、なんなんだよここは、と愚痴りながらも歩を進める。


 エレベーターホールにも戻れず、ただ通路を進む。


 かばんが重い。背広が暑い。


 春も終わり、初夏を迎えようとしてる季節にスーツの上着は暑い。


 暑いが何故か脱ぐ気にはなれない。


 ふと何かを蹴った。


 転がるそれをに目を落とすと、それは腕時計だった。


 落し物かと手を伸ばすと、しかし、その手が止まった。


 銀色の腕時計。何処にでも有るような時計だ。しかし、そのバンドが包むもの。


 手だ。


 蹴飛ばしたのは手。薄ぼんやりとした中で時計だけが目に入った。


 悲鳴をあげようにも、声が出ない。自然に後ずさりする。


 なんなんだよここは。


 周りを見回しても、有るのは通路。そして、腕時計が無機質に時を刻む音。その腕時計をつけていただろう人の手。


 自分の血の気が引いていくのがわかる。


 これ以上進んじゃいけないと思いながら、しかし、後ずさりだけしただけで足はそれ以上動かない。


 怖い。


 ゴリッ…ゴリッ…


 手が僅かに動いていた。


 手、自体は見えづらいが、時計が視界の中で動く。


 しかし、手が動くような音じゃない。


 考えたくないが、それしか思えない音。


 体は動かない。恐怖に縛られ全くと言っていいほど言うことを聞かない。


 ゴリッ…


 時計のガラスが反射する光が目に入った瞬間、腰が抜けた。


 へたり込むが、まるで呪縛が溶けたかのように動く。


 抜けた腰のおかげで、逆に動くようになった体は、恐怖に震えている。


 逃げなきゃ。


 それだけが頭にあった。


 とにかく、ここを離れないとということしか頭になかった。


 這いずりながら腕時計が落ちていた場所から離れようとする。


 しかし、離れてる気がしない。


 直ぐ近くにある気がする。


 直ぐ近くにある気はするのに、怖くて振り向けない。


 這いずりながら、いつの間にか曲がり角についた。


 角のまでつくと、エレベーターホールが見えた。


 なんとか立ち上がろうとすると、抜けた腰も怖さが上回るのか歩けそうだ。


 エレベーターのボタンを連打する。


 動いてる音。


 僅かな安堵が、振り向く勇気を与えた。


 角にはなにもない。


 いや、違う。通路は直線だ。


 自分は何処を曲がったのか。


 しかし、どうでもいい。エレベーターの開いた扉に飛び込むと、すぐに1階を押し、閉じるボタンを連打した。


 すぐにでもここを出たい。


 エレベーターは普通に動いた。4階の表示が、3,2,1と変わり、そして扉が開く。


 普通にエレベーターホールだ。


 すぐに駆け出し、雑居ビルから飛び出した。


 なんだったんだろう。


 捨て看板もある。こわごわと振り返るも、普通のビルだ。


 安堵のためか、また腰が抜けた。


 電柱によりかかり、しゃがみ込む。


 疲れた。怖かった。思い出したくもないが、頭から離れない。


 路地越しに見える大通り。


 妙に安心できる光景。


 なんとか立ち上がり、壁をつたいながら大通りに向かう。


 ガクンとヒザをついた。


 腰が抜けたままかと見れば、しかし、そこには、足がない。


 悲鳴にならない悲鳴。激痛。


 まるで噛みちぎられたように、左足がない。


 噴き出る血。


 言葉にならない混乱。


 なんだこれ。なんなんだよこれ。


 目の前には大通り。行き交う人達は気づく様子もない。


 ゴリッ…。


 音がする。大通りの喧騒で聞こえそうもない小さな咀嚼音が、耳の奥に入ってくる。


 痛い、痛い、痛い。


 這いずろうとするも、しかし、進まない。


 右足に妙な感覚。


 嫌だ。嫌だ。


 右足を引き戻そうとしたが、動かない。


 手でズボンを引っ張っても、右足が動かない。


 右足が、地面にめり込む。いや、めり込むというよりも、沈んだ。


 痛い。


 沈んだ部分がまるでかじられているかの様な痛み。


 痛みが大きくなるほど、現実だと思い知らされる。


 なんでこんな目に。


 這いずって進んでるはずが、大通りまでが遠い。


 まるで離れていってる。


 地面についた手が、急に沈んだ。


 ヒッと声を上げられただけマシかもしれない。そのまま肘まで沈むと、潰されるような感覚。


 なんとか起き上がり引き抜こうと思って付いた手も、地面に沈む。


 地面から聞こえる咀嚼音。


 手も足も千切れ、しかし、なぜか意識だけははっきりしていた。


 失血死してもおかしくない血が路地の地面を染めている。


 意識だけは有る。


 怖い。怖い。帰りたい。帰りたい。助けて。助けて。


 もう頭と胴体しかない。


 暴れようにも、逃れようにも、どうにもならない。


 ずぶっと胴体が沈み始めた。


 嫌だ。嫌だ。


 胴体が地面に沈んでいく。


 頭も胴体にひきづられ、沈んで行く。


 助けて。


 助けて、助けて、助けて。


 誰も気づいてくれない。


 誰も気にしてくれない。


 誰も助けてくれない。


 誰も--。


 路地には、人の形をした影だけが残っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

犬神弥太郎 @zeruverioss

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ