最終話

 大坂城本丸北東部分に山里曲輪と呼ばれる一画があった。生前の秀吉が茶室や庭園をこしらえた区画である。追い詰められた豊臣の人々が最後に逃げ込んだのが、この山里曲輪であった。曲輪全体を広く竹林が覆い、その青々と茂った人工の竹林が、一晩中燃え続けてそこかしこに舞い狂う大坂城天守閣の火の粉から曲輪の建物を守った。

 曾ては日本全土を支配下に置きながら、いまはこの曲輪の保持すら思うに任せず、文禄慶長の役では十万を超える将卒を采配ひとつで動かした豊臣家が、秀頼以下たった二十八名まで数を減じ、息を潜めて狭い矢倉に身を寄せ合う姿はあわれというよりほかない。

 治長は憔悴しきった母子の姿を直視できなかった。 

 桜門外に出馬の時を待っていた昨日までの秀頼は、往古の名将にも似た覇気を満身に帯びて治長をほれぼれとさせたものであったが、いまはその覇気も陽炎の如く消え失せ、さながら咲くべき時を失ったつぼみの如くしぼんで見える。花はいずれ散るか枯れるものであったが、咲けばこそ散りもするし枯れもするのである。つぼみのまま終わって咲かなかった花ほど虚しいものはない。

 さながら廃人。

 茶々の説得を受け、出馬を諦めてから丸一日。秀頼はひと言すら発することなく、一廃人に身をやつした感さえ漂わせている。いまはただ、矢倉の片隅に身をかがめて項垂れる静かな巨人であった。

 よりいっそう憔悴甚だしいのが茶々であった。その責任は治長にある。

 真田大助に促されて桜門外から出馬しようという秀頼は、和睦への道筋を説く治長の理屈を解したうえで、それでもなお武名を後世に遺すべく出馬を決意したのである。理詰めで説得して駄目なら情に訴えるしかない。治長はその役割を茶々に期待した。

 治長が茶々に秀頼説得を依頼すると、もともと隠遁志向の強かった茶々はこれを渋った。初陣まで踏んだ秀頼の面倒をいつまで見なければならないのか、こうなったらもう好きなようにさせれば良いではないかというのである。

 それでも豊家存続を盾にとって迫る治長の説得に折れた茶々は、その引き受けた任をよく果たし、秀頼の前に立ちはだかって出馬阻止に成功してのであった。

 しかしそれは本当に正しかったのだろうか。

 和睦交渉の切り札ともいうべき千姫を徳川陣中に返したのは、千姫経由で赦免が下されることを期待してのことであったが、音沙汰は未だない。徳川にしてみれば人質同然だった千姫を取り戻したのだから、これ以上豊臣とまどろっこしい交渉を続ける意味を見出せなかったのだろう。どうやら家康には豊臣家を赦免する気などないらしい。

 その観測が支配的になるにつれ、茶々が治長に放った言葉が、治長の脳裏から離れない。

「これで妾は、いくさに口を差し挟み豊家を滅亡に追いやった希代の愚母として、後世に汚名を遺すことになるでしょう」

 と。

 秀頼の出馬を押し止めた行為は、秀頼免責という確固とした目的に基づいて行われた行為であった。豊家が存続すればこそ賢母の振るまいとして賞賛されようというものであったが、いまやその目的は失われつつあり、滅亡は免れがたいもののように思われる。

 豊家滅亡後の茶々に被せられるのは

「女がいくさに口出しして勝機を逸した」

 という汚名だけになることだろう。

 死後の汚名を思って、茶々は憔悴するのである。

 治長は自らの人生を振り返って、これを滑稽とすら思う。


 家康の勘気を解くべく企てた且元暗殺計画で、却って家康を激怒させてしまったこと。

 大坂城を守るために入れた牢人衆に主導権を握られ、徳川との戦いに突き進まざるを得なくなったこと。

 家名を存続させるべく秀頼出馬を阻止したのに、その結果後世に遺りそうなのは、家名どころか女だてらにいくさに口出ししたという茶々の悪評であること。

 重大な局面で下した決断のことごとくが裏目に出ているのである。これぞ終生つきまとって離れなかった己が宿運というべきものなのであろう。だとすればこれ以上あがいても良い結果にはつながるまい。


 負った傷が未だ癒えず、もはや戦う気力も萎え果てた治長の耳に、鉄炮の轟音が飛び込んできた。徳川の人々が放ったものだ。交渉無用を言外に告げ、自裁を促しているものと思われた。

「各々方、最期でござる」

 人々に自害やむなしを告げることで自らもその決意を固める治長。これぞ彼の下した人生最後の決断であった。

 二十八名は或いは腹を切り、或いは刃先を口に含んで突っ伏し、はたまた差し違えるなどして、めいめい自害していった。

 最後は茶々、秀頼母子の自裁とともに硝煙に着火して朱三矢倉は爆発四散、豊臣家はここに滅亡した。

 ときに慶長二十年(一六一五)五月八日のことであった。


 豊臣家に対する種々のいやらしい策謀の果てに旧主家を滅亡に追いやったと非難される家康であるが、秀頼切腹と聞いた際にはことのほか不機嫌になったと伝わる。手を打って喜んだのでもなく、わざとらしく悲しんでみせたのでもなく、ただただ不機嫌になったというのである。滅ぼそうとしていた相手が切腹したと聞いて示す反応とは思えない。

 大坂城を失い、ようやくにして牢人衆のくびきを解かれた秀頼を殺す必要は家康にはなく、命だけは助けようとした秀頼が、自分の意にそわず切腹してしまったため、立腹したようにも思われるのである。

 もしかしたら家康は、戦争に至った豊臣の内情も、絶好の勝機に臨んで秀頼が出馬しなかった理由も、全てお見通しだったのかもしれぬ。豊臣の人々がせめてあと半刻でも自害を思い止まっておれば、秀頼赦免の沙汰が下されていたかもしれないと思う所以である。

 

 そこまで思いを致したここらあたりが潮時であろう。私は語ることを止めなければならない。

 覚悟の自害ですら裏目に出たなどと書き連ね、死者の魂を悔恨とともに呼びさますことが、本作の執筆目的ではないからである。

 

 思うに大坂の役で最も割を食ったのは豊臣家の人々であった。

 家康は覇権を確立して文字どおり歴史の勝者となったし、牢人衆も後世まで武名を遺したという意味では本懐を遂げている。

 これらと比較すると、挙げた武名もそこそこに家名を失い、また滅亡に至るまでの時々の決断に未だにケチをつけられ続ける秀頼以下豊臣家の人々こそ真の敗者と呼ぶに相応しい。

 いまは往時に思いを馳せながら、敗者と呼ばれた人々が生き残るために重ねた必死の努力と決断に最大限の敬意を表して、本稿を締めくくりたい。


                (終)

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ついてない治長 @pip-erekiban

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