第十話

 大坂城を取り囲んだ家康は総掛かりを命じた。前田利常、井伊直孝、松平忠直、藤堂高虎等の徳川方諸隊は、城南は平野口に築かれた出丸「真田丸」に押し寄せたが、これに籠もる真田信繁隊、援護の長宗我部盛親隊の反撃によって一万四五千とも伝えられる死傷者を出し、夥しい出血のために攻勢の中断を余儀なくされる。

 敵の大攻勢を退けて沸き立つ城内であったが、ひとり治長は焦っていた。

 いま城内では、空前の大戦果を受けて、豊臣譜代家臣のうちからも公然と牢人衆に心を寄せる者が出始めていた。左門頼長や主馬治房がその代表であった。ほんらいは治長の手足として和睦工作に奔走しなければならないこれら譜代家臣が、あろうことか牢人衆と同心して、戦争継続を唱え始めたのである。これは、和睦を主導すべき豊臣家首脳部にまで牢人衆の徹底抗戦志向が浸透しはじめたことを意味しており、俄然治長を焦らせた。

 大戦果を機に治長は軍議を招集した。豊臣の衆議を和睦一本に絞り込むためであった。豊臣譜代家臣だけで固めたその席上、最も頑強に抗戦を主張したのは、やはりというべきか主馬治房であった。

 治房は言った。

「敵は公儀たるの面子にかけても再度総掛かりを仕掛けてこよう。しかし大坂城の鉄壁の防御に鑑みれば何度押し寄せてこようが結果は同じである。敵は更なる出血を強いられるだけである。そうなればもしかしたら、いまは徳川に靡く諸大名のうちから、亡き太閤殿下の御威光に思いを馳せ、当家に寝返る者が出始めるかもしれん。

 いま兄者がなさるべきは和睦交渉などではない。徹底抗戦を主導し、その上でこれら太閤恩顧大名に合力を募ることでござる」

 何者かは知らぬが、おそらくは牢人衆の誰かが治房に吹き込み、治房がよく考えもせず軍議に持ち込んだ意見であろう。いかにも牢人風情が唱えそうな素人意見である。

 治長は必要以上に牢人衆に肩入れしはじめた弟を翻意させねばならなかった。

「島津や福島に無視された経緯を知らぬそなたではあるまい」

 戦前、大坂方は、治長の副状そえじょうを付した秀頼書面を島津や福島等豊臣家恩顧大名に送付し入城を呼びかけたが、ことごとく無視されている。そんな連中が、多少の戦果を喧伝したところでいまさら味方に参じるとはとても思えない。

 これに対して治房はなおも反駁する。

「だからこそ、戦って武威を示し続ける必要があるのです」

 要は味方を募るに戦果が足らんだけだというわけである。

「武威など示してどうなる。打撃を与えれば与えるほど、我等への敵愾心を煽るだけではないか」

 治長は、行きすぎた戦果は却って和睦の妨げになるから、この戦勝を機に出来るだけ有利な和睦をしようと言った。

「ふんっ!」

 もはや議論に飽いたとでもいわんばかりに鼻息を荒くする治房。

「それでは兄者のいう和睦とやらも成りませんな! そういうことでよろしいですな!」

 兄の意見に対して治房は、戦果が和睦の妨げになるというのなら真田丸で挙げた戦果により既に和睦の機を逸したのだから、戦争を継続するしかないといいたいのである。

 戦果を材料に和睦交渉に乗り出すのは常套手段であり、このタイミングで治長が和睦を切り出したことは見識というべきである。対する治房の意見は、謂わば「反論のための反論」であり、このまま戦争を続けたいだけで、とても定見と呼べるものではなかった。

 かみ合わない議論のために、両者は次第に感情に傾いていった。

「これ以上そなたと話し合っても無駄だ。和睦の儀、秀頼公にはそれがしから言上する。それまでは下手に動いて敵を挑発するな。分かったか」

 強引に幕引きを図る治長に対し、治房の放った恫喝は、両者を決定的に決裂させた。

「そんなことをすれば牢人衆が黙ってはおらんぞ! どんなに恐ろしい目に遭っても俺は知らんぞ!」

「貴様それは一体どういう意味だ!」

 両者は激昂して取っ組み合いになった。

 弟と取っ組み合いながら治長は、自分とそっくりな切れ長の眦を吊り上げて迫る治房の表情に、どこか見覚えがあると思った。

 そうだ。

 且元に殺意を抱いたときの自分だ。きっといまの治房と同じ顔をしていたのだろう。殺意に勘付かれたのはそのためだったのだ。

 取っ組み合いの中で漠然とそのようなことを思う治長であった。

 軍議は、衆議の一本化とはほど遠いものとなった。

 周囲の人々に引き離された治長は、その足で本丸御座之間に向かった。秀頼に謁見し和睦を言上するためであった。

 古式ゆかしい式正しきしょうの大鎧を模した具足に身を包み、上座に座する秀頼。

 治長はその秀頼に言った。

「先の一戦で和睦の機は熟しました。大坂城の維持を前提に、あらゆる選択肢を見据えて和睦交渉に乗り出す所存でございます」

 これまで秀頼は、滅多なことで自分の意見を口にすることがなく、当然今回も、治長が和睦と言い出せば反対することはないだろうと見込んで言上したところに、思いがけない名とともに秀頼が言った言葉は、治長を酷く狼狽させた。

「いまになって和睦などと言い出すのなら、はじめから市正の言っていた三条件で交渉しておけば良かったのではないのか。あの時、現に母上は人質になっても良いと仰せだったではないか。市正の言うとおりにしておけば、今日このように関東と戦う必要もなかったのではないのか。和睦の機は熟したなどというが、干戈を交えたことで却って機を逸したのではないのか。どうなのか」

 ーー結局お前も牢人衆と同じではないか。勝手なことばかり言って……。

 秀頼は言外にそう言っているのである。秀頼が治長に対して向ける眼差しは、これまでになく厳しいものであった。

 治長はしどろもどろになりながら、やれ一戦も交えず御袋様を差し出せば武家の面目がどうとか、好条件で和睦するためには戦果がどうとかいった言い訳を口にしたが、曾ては殺意さえ抱いた且元の方針を後追いして、いまは自分が和睦を求めているのだから、これを矛盾といわずなんといおう。

 治長の言い訳に接して怒りの色が消えていった秀頼の瞳に残ったのは、諦めや悲しみ、無力感を湛えた眼差しであった。

 だからといって治長にはどうすることもできなかった。戦争継続は豊臣の滅亡に直結するのである。和睦以外に道はない。秀頼には納得してもらうしかなかった。

 こうして慶長十九年(一六一四)十二月下旬、豊臣と徳川の和議は成立した。講和は、大坂城惣濠埋立を前提として以下のような条件で整った。


 一、牢人衆の罪は問わない

 一、秀頼の知行は安堵する

 一、茶々を人質にすることは不要

 一、大坂城を明け渡すのであれば、希望の国を宛がう

 一、秀頼に対して不信を抱かない


 興味深いのは第一の条項だ。牢人衆にはなんとか穏便に退去してもらいたいという大坂方の苦心が垣間見える。自ら招き入れたと言い条、豊臣家は、ことほどさように牢人衆への対応に苦慮していたのである。

 また第三の条項は、大坂方が講和条件として茶々の差し出しを申し出ていたことを示唆している。自身が人質になるのだから、茶々は当然そのことを諒解していたと考えるべきである。こういった点からも、豊家滅亡の戦犯とされる彼女の人物像は見直される必要があるだろう。

 ともあれ大坂城の保有が引き続き認められたのたから、干戈を交えたことは無駄ではなかった。

 あとは簡単だ。講和を維持すればそれだけで良いのである。難しいことなどなにもないはずだった。

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