第九話

 城中の濠という濠に逆茂木が植えられ、土塁という土塁に乱杭が打ち込まれている。どこの馬の骨かも分からない牢人風情が多数集まっては気勢を上げて鑓の調練に励んでいるかと思えば、具足櫃を壊した壊してないで喧嘩に及ぶこれもまた牢人。多数の牢人が二人を取り囲んでは囃し立て、喧嘩を助長しているさまは、下賤の者の闊歩する城下の風景をそのまま城内に持ち込んだおもむきすらある。城中は俄に増えた人のために燃料に難渋しており、このために豊臣家に許可なく植樹を伐採し、煮炊きに用いる不届き者まで現れる始末である。

 まさに無秩序。

 且元がいたころの整然とした様子からは信じられないほど、大坂城内を無秩序が覆い尽くしていた。

 茶々などは斯くの如き無秩序を嫌い、自身のみならず女中衆にまで具足を装着させ、薙刀を手に、自ら城中の巡検に乗り出すほどであった。

 ほんらい豊臣家の正規兵は秀頼親衛隊ともいうべき七手組であり、その擁する兵力は一万五千とも二万とも伝わる。これが摂河泉三カ国を領する豊臣家の身の丈に合った動員兵力であったが、その本拠とする大坂城は極めて広大であり、これら正規兵力だけでは却って各所の防備が手薄になるという意外な弱点があった。広大な城中に抱える防御施設は、一旦奪われてしまえば敵に橋頭堡として利用されかねない諸刃の剣だったのである。

 広大な城域に防備を行き渡らせるため、治長は全国各地に散在する太閤恩顧の大名に大坂入城を促す手紙を送りはしたが、いずれも無視されている。やむを得ず募ったのが、関ヶ原以降天下に溢れる牢人どもであった。徳川のために長年不便な生活を強いられてきただけあって、その徳川とのいくさにかける彼等牢人衆の戦意は高い。

 しかし先述のとおり豊臣家正規兵一万五千から二万のところ、籠城兵は現下、正規兵牢人衆合算しておよそ十万にまで膨れあがっていた。自分たちより遥かに数の多い牢人衆相手に豊臣家の統制は及ばず、いまの大坂城は、さながら牢人衆に占拠されたならず者集団の巣窟と化していた。茶々自身が城中の巡検に乗り出さなければならなかったことが、この時の大坂城の状況を如実に物語っていよう。


 騒然とする城内の状況を見るにつけ、吐き気すら覚える治長。

 且元排除の談合をしたあの時、あの場所にいたはずの織田常真が、気がつけば城中から忽然と姿を消していた。且元が大坂城を退去したあと、大坂城中においては内大臣経験者である織田常真こそが次なる家老と目されていたものであったが、姿を消したところを見ると、もしかしたら常真は、こうなる未来を予期して大坂城を逐電したのかもしれぬ。だとすれば常真は、且元排除が徳川とのいくさを招くという点に考えが及んでいたのであろう。

 家康の勘気を解くために企てた且元暗殺計画が、却って家康を激怒させてしまったのだから皮肉なものだ。

 家康が大坂相手にいくさを仕掛ける大義があるとすれば、大坂を豊臣から奪うことで諸大名に利益を分配できるか、大坂から徳川に対して攻撃が加えられるかだ、と先述した。

 結局家康は、多少の粗相はあっても且元を徳川の家臣と見做していたということであろう。

 さきほど、方広寺鐘銘事件を豊臣による社内プロジェクトの失敗に喩えた。且元が三箇条を示した行為は、プロジェクト失敗の責任を、なんのクッションもかまさずいきなり会社代表(秀頼)に背負い込ませようとしたもので、他の役員がこれに反発したのは当然であったが、ころは現代ではなく残念ながら中世であった。

 且元を豊臣家家老に任じ、また且元の知行を加増したのは家康だったから、両者の間では主従関係が成立している。その且元に対して大坂方が暗殺を企てた行為が徳川に対する攻撃と解釈され、中世特有の軍事的安全保障体制に基づく動員が発令されたのである。

 常真は、こうなる危険性を治長に教え諭し、翻意を促すどころか、且元に暗殺計画を知らせることで謀議に加わった責任を免れ、茶々や有楽斎といった縁者さえも見捨てて退城したのである。

 誰を談合に加え、誰を排除するか。

 その点に考えを及ぼすことなく常真如き軽薄男児に計画を漏らしたのがそもそもの誤りであった。結局自分には人を見る目がなかったということなのだろう。ほぞを噛んでももう遅い。豊臣家は、やむにやまれず城中に招き入れたこれらならず者集団と、行くところまで行ってしまわねばならないのである。

 心理的重圧と先々への不安に苛まれ、よりいっそう強い吐き気に襲われる治長。

 治長を筆頭に、大坂城に入城を果たした長宗我部盛親、毛利勝永、明石全登、後藤又兵衛、真田信繁といった面々で軍議を開いてみて分かったことは、彼等牢人衆には豊臣家存続の方策がまるで見渡せていないという事実であった。そのことは、左衛門佐信繁や又兵衛基次が披露した戦策で明らかになった。彼等は一手を宇治、瀬田方面へ、また一手を伏見、京都方面へとそれぞれ差し向けて、関東に対し先手を取るべきであるなどと得意満面言いだしたのである。

 本戦役で豊臣が採るべき戦略は飽くまで持久戦、籠城戦であるべきだった。もし城から打って出て自ら敵を求め、多数を討ち取るようなことをすれば、関東方としても、いよいよ豊臣を討ち滅ぼさないではいられなくなってしまうであろう。後々の交渉のことも考えれば、徳川方に必要以上の打撃を与える行為は百害あって一利も見出せない愚策というべきであった。敵の領土を切り取るような真似は厳に慎むべきであり、城外戦に打って出ては好んで敵を求めるなど、先々を考えぬ暴論というべきである。一戦を限りに華々しく散ることだけを求める端武者なら兎も角、豊家を守るべき宿老が安易に採用して良い策では断じてない。

 つまりこれが、豊家存続よりも徳川への意趣返しを優先する彼等牢人衆の発想の限界だったのである。

(豊家存続のためとはいえ……)

 治長はこれら牢人衆との先々の関係を思うと、暗澹たる気持ちを禁じ得ない。

「いくさになっても豊臣家以外の者を城に入れるな」

 そのように呼ぶ且元の声が、治長の耳の奥でいつまでも響いたのであった。

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