第六話

 突拍子もない話を聞かされて呆気にとられる一同を尻目に、滔々と自説を展開する且元。

 曰く、方広寺鐘銘に対する徳川の言い分は難癖に過ぎないが、関東方が斯くの如き難癖をふっかけてきたのも、大坂城の明け渡しが家康の内意だからである。そうである以上、次の三箇条のうちいずれかを履行する以外に、豊臣と徳川の関係を修復するすべはないとしたうえで 

「豊臣家は大坂城を明け渡して大和か伊勢に国替えすること」

 または

「茶々を人質として江戸に差し出すこと」

 若しくは

「秀頼は江戸に参勤すること」

 三つのうちのどれかを選ベというのである。

 鐘銘の犯諱はんいによってこじれた両家の関係修復は確かに喫緊の課題であったが、関係修復のためだけに右三箇条のいずれかを履行せよなど、誰が聞いても飛躍した要求であった。常識的に考えれば、開眼供養、堂供養の中止または延期、銘文の撰者その他関係者に対する処罰あたりが通り相場といえる。

 何故国替えなのか。人質や参勤が、鐘銘問題の解決と何の関係があるというのだろうか。

 前述のとおり、このころの豊臣家では、秀頼の関白任官という戦略目標が失われ、代わって大坂城の維持が譲れない最後の一線と理解されていた。且元もそのことについてはよく分かっていたはずである。

 江戸期には「天下の台所」と称され、全国から廻米かいまいが集積された大坂は物流の要衝であった。それはなにも江戸時代にいきなりそうなったわけではなく、地理的条件が大坂に与えた必然的役割であった。

 豊臣家が、関東に対抗する目的で寺社修築造営という金のかかる事業を継続できたのは、太閤秀吉が貯め込んだ財力もさることながら、大坂を保持して実入りが確保できていたからだ。総奉行として幾多の寺社修築造営に携わってきた且元は、豊臣家の中でもその収支を的確に把握しているはずであった。

 よりにもよってその且元が、豊臣の力の源泉ともいえる大坂を手放せというのである。

 且元とは別に、家康と面会して直接鐘銘問題を釈明していた大蔵卿局は声を震わせながら

「それは大御所様(家康)がそのように仰せになったものか。わらわがお目通りかなった折には、鐘銘の犯諱などたいそうな問題ではないと仰せだったはずなのですが……」

 と且元に問うと、驚くべきことにこの老人は

「いかさま、先の三箇条は大御所様の仰せにあらず。年来の大坂と関東との関係に鑑み、それがしの腹案として申し上げております」

 いけしゃあしゃあとそのようなことを言ってのけるではないか。

 案の定、途端に紛糾を来す評定の場。

「恩知らずめ!」

「恥を知れ恥を!」

 と雑言が飛ぶ。

 三箇条の披露を契機として、永年豊家の家老として重きをなしてきた且元に対する鬱積した不満が、堰を切ったかのように溢れ出した感がある。

 そこへ

「妾はよい」

 茶々が唐突に口を開いた。よく通る、甲高い声であった。

「妾は江戸へ参る」

 茶々が自らの口で、はっきりと人質になってもいいという意思を表明したのである。騒然としていた評定が一瞬にして静まり返った。

 茶々は続けた。

「妾は二度までも落城の憂き目に遭った。焼け落ちる城を見るのは嫌。人や城の焼ける臭いが嫌。秀頼殿にそのような憂き目を見せるのはもっと嫌じゃ。

 この広くて大きな大坂城に入った折、太閤殿下は妾にこう仰せになった。この大坂城は小谷のお城とも北ノ庄のお城とも大きさがまったく違う。信長公が十年かかっても落とせなんだこの大坂のお城がある限り、そなたは二度と再び怖い思いをすることはない。安心せよと。そう仰せになった。

 妾は江戸へ参る。市正いちのかみ(且元)の言うとおりにしてこの大坂城を保つことが出来るのなら迷わずそうするべきである。お城が落ちることを思えば、妾ひとり人質になったとて如何ほどのことやあらん」

 茶々の言葉には力があった。

 つい数ヶ月前まで父母とともに何不自由なく暮らしていた小谷城が炎に包まれる様を尻目に、母お市の方や妹お初と手を携えながら下った暗く狭い山道のなんと恐ろしかったことか。

 賤ヶ岳において義父柴田勝家が羽柴秀吉に敗れたとの報を聞くや、城はあれよあれよと敵の重囲に陥り、二度までも落ち延びることを潔しとしなかった母が、義父と共に自害を選んだときの、なんと悲しかったことか。

 この時代、武家の女子供が担った主な役割のひとつが、人質になることであった。確かに茶々は、これまで人質に身をやつしたことがないままに天下人秀吉の後室に入った立場であり、いまになって江戸へ下向することに抵抗がなかったといえば嘘になる。

 しかし太閤秀吉在世中の栄華は既に遠い過去のものとなり、豊臣はいまや、徳川のお目こぼしなくんば立ちゆかない状況に至っていたのもまた事実であった。

 現存する茶々の手紙からも、彼女が豊臣を取り巻く現状を正確に認識していたことは疑いがない。

 極限ともいえる修羅場を二度もくぐり抜けてきた茶々ほどの女性が、この時代の女子供に宛がわれていた役割から、自分だけが無縁でいられるなどという甘い見通しを持っていたはずもない。

 もし自分が人質になることで、小谷城や北ノ庄城の辿った運命を避けられるというのなら、それはそれで良いではないかというのは、偽らざる茶々の心境だったことだろう。

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