第二話

 関ヶ原以降どことなく沈んだ空気に包まれていた大坂城が、年明けから浮き立って見える。何故というに、この広大な城に詰める諸侍、奉公人といった人々やその家族が、信憑性の高い「或る噂」のために浮き立つ気持ちを抑えきれないでいたからだ。そこに起居する数千の人々の意思こそが、さながら城郭という無機質な建造物に宿る精神そのもののようにさえ思われる。

 治長の目に、城はあたかも太閤秀吉在世中の如く輝いて見えた。

 秀吉が亡くなったのはいまから五年前の慶長三年(一五九八)のことであった。晩年の秀吉は日常生活のほとんどを政庁である伏見城で過ごしており、大坂城を根城にしていた期間は実は思ったより短いものであった。

 しかしスペインの探検家により


京都は日本の大都市であり、格段と商工業に依存するところが多い。他の都市ではこれに及ぶものはない。伏見までの間はずっと家屋が続き、両所を合わせると非常な大都市である。

      (『ビスカイノ金銀島探検報告書』)


 と評されたほどの京都ー伏見間の繁栄が、大坂城を起点とする淀川水系の流通路によってもたらされたことは間違いがない。伏見城を政庁とする秀吉政権の力の源泉は、間違いなく大坂城にあった。

 秀吉亡き後の大坂城に欠けていたものこそ、その城の規模や、領する地域の重要性に相応しい城主の存在、否、その城主に相応しい「格」であった。

 城主とはいうまでもなく太閤秀吉の一人息子秀頼である。

 格の話が出たので、ここで些か煩雑ながら今日ここに至るまでの秀頼の官歴を列挙しておこう。

 秀頼が初めて顕職に就いたのは慶長三年(一五九八)八月のことであり、従二位権中納言を嚆矢とする。秀頼このとき実に六歳であり、年端もいかぬ幼児の権中納言任官に、世の全ての人々が、秀頼がこれから歩むことになるであろう輝かしい官歴の始まりを予感したものであった。

 と同時に、この出来事は、秀吉の死(八月十八日)の直前だったから、既にその死が現実の危機として迫っていた豊臣政権へのダメージを、少しでも中和しようという苦肉の叙任だったことが自ずと覗われる。秀頼の権中納言任官は、秀吉の死という暗雲に覆われつつあった豊臣家に差し込む、一条ひとすじの光明だったのである。

 続いて関ヶ原合戦の翌年、慶長六年(一六〇一)三月、権大納言。更にその翌年正月には正二位右大臣に叙任されている。

 文字どおり太閤秀吉の後継者に相応しい、目も眩まんばかりの官歴といえたが、秀吉が就いた関白の職に比べれば、三公(左右大臣、内大臣)ですら高欄の上にしつらえられた擬宝珠ぎぼしのようなもので、単なる飾りに等しい。太閤秀吉の栄華を極めたるがまだまだ記憶に新しかった豊臣の人々にとっては、任権大納言や任右大臣などといっても言葉の上の話であり、関白以外の職が秀頼に相応しいなどとは到底いえなかったのである。

 世上の口さがない噂話では、やれ関ヶ原で西軍が敗れて豊臣は衰えただの、太閤恩顧の大名が押し並べて徳川に靡いただのと囁かれてはいるが、そんなものは秀頼の関白任官され果たされれば、手もなく吹き飛ぶ木の葉よりも軽い噂話に過ぎなかった。

 そして、これまでの秀頼の官歴を見渡せば、どうやらその関白任官も間もなく果たされそうである。

 現在関白の地位にあるのは九条兼孝であり、これは関ヶ原戦勝直後の家康の肝煎りで任じられたものであった。当時秀頼は八歳であり、周囲の補佐を得たとしてもさすがに関白職の遂行に当たっては無理のある年齢と言わざるを得ず、九条兼孝の関白任官を以て秀頼任官の道が断たれたとは単純にはいえなかった。秀頼が短期間のうちに歩んできた官歴に鑑みれば、九条兼孝の関白任官こそ一時的な措置に過ぎず、その職はいずれ遠からず秀頼に還されるべきものだと、治長をはじめ豊臣家の人々は考えていたのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る