ついてない治長

@pip-erekiban

第一話

 この老人を脇差で刺し貫いてやりたいと思う。そしてそれは、やろうと思えばいと易いことのように思われる。賤ヶ岳以来の古豪などと言い条、見下ろすことができるほどの体格差に鑑みれば、仕損じるおそれは万に一つもあるまい。

 実際やってしまわねば早晩豊臣は立ちゆかなくなってしまうだろう。関ヶ原合戦以来豊臣の家勢は衰えてゆくばかりであった。その責任を負うべきは、豊臣の家老たるこの男以外にない。

 そもそもこの老人ーー片桐且元が豊家家老の職にあること自体が不可解ではないか。

 というのは且元には、関ヶ原合戦の折に西軍に与し、家康に楯突いた「前科」があったからである。


 日本国中の大小名が東西に分かれて争った慶長五年(一六〇〇)当時、大津城に在城していたのは京極高次であった。

 高次は当初、西軍の有力大名大谷吉継に合流する手はずであったが、その約束を反故にして東軍への寝返りを表明する。自己の勢力圏内に突如出現した敵基地を西軍としても放置しておくことができず、毛利元康、立花宗茂といった西軍諸将が大津城を包囲攻撃し、片桐且元はその大津城攻めに弟貞隆を差し向けているのである。これにより関ヶ原本戦と同日の九月十五日、大津城は陥落した。

 且元の行為は、東軍即ち徳川に対する明白な敵対行為であった。

 このとき大野修理といえば、罪を得て下総に配流されている身であったが、いち早く家康の元に馳せ参じ、東軍として関ヶ原本戦で奮戦している。

 なお罪などというがこれなど濡れ衣もいいところだった。前田利長が浅野長政等と結託して家康暗殺を企てたというもので、大野修理はその実行者に指名されていたというのである。この事件は徳川が前田家を屈服させるために仕組んだ自作自演という噂は当時からあり、その説を裏付けるように、計画されていたという犯罪の重大性と比較して均衡を欠くと言わざるを得ない寛大処分が関係者に対して下されている。冤罪であればこそ、徳川としても関係者、就中なかんづく豊臣家家臣である大野治長に対して死罪を言い渡すほどの正当性を見出すことが出来なかったのである。

 ともあれ配流された事実は事実だ。

 治長は無実の罪を着せられながら腐りもせず、健気にも東軍に加わって家康に対する忠節を示し、戦後許されて帰坂することになった。

「豊家に対する敵意なし」

 家康からの伝言を携えた自分を大坂城で待ち受けているのは、冤罪の失点を補って余りある厚遇、より具体的にいうと、豊臣の家政一切を取り仕切る家老の地位か。

 治長は帰坂道中、馬の背に揺られながら、これから大坂城の諸事を忙しく取り仕切ることになるであろう己が栄達を夢想した。治長の夢想するその大坂城に、なにかと口うるさい老人ーー片桐且元の姿はもうない。

 そんな治長だったから、大坂城に入って、従前となんら変わることなく且元が大坂城を取り仕切っている姿には度肝を抜かれたものであった。

 あれだけ明確に徳川に敵対しておきながら、どのつら下げて大坂城を切り盛りしているのか。聞けば且元は、徳川の勝利が決するやそれまでの態度を豹変させ、娘を家康に差し出し、いち早く徳川への臣従を誓ったというではないか。

 豊臣家の武将として東軍に参陣し、武功を挙げた自分を差し置いて、このような変節漢が豊臣を取り仕切るなど呆れた話だ。

 このような想念がふつふつと沸き上がり、治長は且元への怒りを抑えるのに苦労するほどであった。


 さてここで、関ヶ原直後の家康の立場について説明しておきたい。

 このときの家康は、豊臣家に対して敵意がないことを諸大名に示さなければならなかった。東軍に参陣した太閤恩顧の諸大名は、単に石田三成憎しの一念で徳川に味方しただけであり、豊臣への敵対などそもそも望んではいなかったのである。

 且元は秀頼の傅役もりやくであった。謂わば秀頼の親代わりであり、その且元が有責となれば次の標的は秀頼か、という疑念を抱かせることになる。家康にとって且元を断罪する行為は、せっかく東軍になびいた太閤恩顧の大名連中との間で、無用の軍事的緊張を作り出しかねない愚行であった。

 且元の免責は、家康が豊臣家への敵意を抱いていないことを人々に示すための象徴的行為だった。謂わば政治判断の末の免責だったのであり、決して且元が命惜しさに徳川に臣従したわけではなかったことは、その名誉のためにもここで明らかにしておかねばなるまい。

 

 しかし治長にはそのような事情は関係がない。治長はただ、一度は西軍にくみしておきながら戦後早々家康に取り入った且元の変節を憎むばかりであった。

 治長が更に憎んだのは、関ヶ原合戦の翌年(慶長六年、一六〇一)二月、家康の命令により、且元が豊臣家の家老に指名されたことであった。これは、且元が豊臣の諸事を取り仕切っていた実質の追認に過ぎなかったが、ともあれこれにより且元は、単に秀頼の傅役という立場から、よりにもよって治長がその立場につくことを夢想した豊臣の家老という立場に正式に格上げされたのである。

ーー一度は家康に手向かいしておきながら、あろうことかその家康によって豊臣の家老に任じられるとは……。

 これぞ治長が、且元を指して豊家家老の職にあることを不可解と断じ、彼を憎む所以であった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る