第49話

 実のない無意味な想像だった。

 僕を殺してくれるような人間がいるならば僕はこうまで落ちていなかっただろう。明確な殺意を向けられるような、濃密な関係性の知人を作れていたら、きっと誰かが僕を助けてくれたに違いないのだから。けれど、僕はずっと、僕を殺してくれる人の事を考えていた。


 最初に木内の顔が浮かんだが掻き消える。次に中年女。次に佐野。次に女給。みんな掻き消える。誰も彼もが掻き消える。包丁が冷たいまま歪んだ銀色を反射させ僕の顔色を写すと、真っ白だった。何もない、汚れも染みもない様子は僕の人生のようだった。写し出すべくもののない、彩りのない半生があるだけだった。白ばかりが目に入り時が止まる。ずっと止まっていた時が白く塗られている。これまであった二十数年の月日が無慈悲に否定され、何処かに隔離されていたかのような錯覚に陥り、魂が抜けていった。

 悍ましいほどの空白の期間を思い知る。過去を否定し、今の自分を肯定しようとしてもできず、さりとて目を背ける事も叶わず、辛うじて目だと分かる黒い点を包丁の中に見つけた時、ようやく僕は今ここにいるのだと、少しずつ意識が働くようになった。しかし、意識が戻ればまた金の悩みも蘇り正気ではいられなかった。声も出ず身体も金縛りにあったように締め付けられているのに、僕は狂乱に取り憑かれるままに振る舞った。何がどうなっているか自分でも分からず狂っていた。



 だが、それも一瞬の間に停止する。電話がかかってきた。金貸だとすぐに分かった。


 受話器を持つ。だが、腕が上がらない。暑くもないのに汗が垂れ流しとなり、何も入っていないはずの胃から液体が飛び出して、そのまま倒れた。電話が止むと、今度は扉が叩かれた。怒鳴る声が聞こえた。何度も、何時も続いた。


 


 

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