第34話

 浮遊感に満ちた僕はふらふらと足取拙く屋外へ舞い戻り、夜の深さ、淫猥な灯、淀んだ臭気を五感で受けながらも、依然波潮に揺られるような夢想に心を委ねているのだったが、どぶの積もった側溝に吐き戻し意識を取り戻した。


 一と時の間、現実との乖離が酷く、受け入れ難く、背信的な快楽が思考を奪い僕を木偶にした。そればかりか、酩酊以上の愉悦によって骨抜きとなった。長く抑えられてきた衝動が刹那に弾け破裂し、理性と善性により培われていた自我がインモラルの泥を被ったのだ。それが意味するところはつまり破戒。より端的に述べれば穢悪あいあくである。

 汚泥に染まった僕は既に気品を損ね、生涯において消えようのない恥を残した。これ程恐ろしく、また後悔した事はかつてない。僕は快楽につられ、犯すべきでないイドを自らの手で穢したのだ。一線を超え生じた罪悪の念が自責を続けるも自罰の言葉は救いとはならず、滅々と溝に吐き出された吐瀉物を覗くと白濁と薄黄が混じっており、魂がそのまま流れ出たかに思え、ともすれば僕は既に人ではなく畜生か何かに変質してしまった気がして、ますますと悔恨に咽ぶ。濯ぎようのない身体から糞尿に浸かったような悪臭が立ち込めている気がして、僕は再び胃の中にある液体や、少しだけ残っている食べ物を吐き出した。




「やぁ。筆下ろし、どうだった」




 肩を掴んだのは木内だった。奴は上機嫌な様子で僕を見ると、鼻を鳴らして軽薄を謳った。



「酷い顔だ。どうした、ハズレを引いたかい」



 僕の情緒は歪だったが木内に恨みは抱かなかった。元はといえば奴が招いた災難なのに不思議なものだが、恐らく、掴みかかる勇気がなかっただけだろう。女を買う金を持ったという事実が引け目を感じさせたのと、打ちのめされ精神薄弱となっていた事が、気概を萎びさせたのだと思う。




「最後にもう一軒行こうか。なに、野暮な事は聞かないよ。ただの飲み直しさ」




 僕はそう言って連れ去ろうとする木内に対して「やめておく」とだけ伝えて離れた。木内は追ってこなかったが、最後に一言「いい夜を」と僕を揶揄った。

 互いに離れ、互いに闇夜に溶けていく。後ろを振り返ると既に木内の姿はなく、例の、女を抱いた建物が小さく見えて、僕は吐きながらも、肉への欲望を隠せずにいた。

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