第30話

 木内はその内の一件に目星を付け、「ここでいいかい?」振り返った。僕にしてみればどこも同じに見えるため、「ここでいいです」と返すしかない。



「あまりいい店じゃないんだがね。ま、あの婆のとこよりはいいだろうよ」



 冗談とは言い難い目の色をして独り言のように呟かれた非難に賛同しようとするも、言葉を選んでいる合間に木内は向き直って店へと入っていってしまった。卑屈そうな愛想笑いの声をあげる僕がどのように見えたかは知らないが、一瞬、「言うんじゃなかった」とでも言いたげな顔をしていたのが印象に残っている。僕伝てで中年女へ漏洩するのを恐れたのか、言い負かされた相手の陰口を叩くのを恥に感じたのか。それとも僕が想像する外の事を思ったのか定かではないが、木内は別に返答など求めていなかったように思う。誰に言うわけにもいかない内々の情を、委細承知している僕に吐き出し、一瞬でも憂さを晴らしてしまいたかったのだと解釈している。与えられた屈辱を自身の中だけで消化するというのは中々に難しく手に余るものであるから、ふいに口から出てしまうのも仕様がない。他人からすれば「馬鹿だね」の一言で済む問題であっても当人にとっては万事が承伏できない心持ちであるというような事が往々にある。木内にとってはあの日の夜、中年女に言われた事がそうであったという話だ。だからといって僕に奴の気持ちを汲む義理もなもないから無言でよかった。店に入る木内を見据え、追う。





 木内は店主に向かって手の平を見せると案内もなしに空いている卓に座った。僕は後に続き、対面に腰を下ろす。



「ビールを二つ。瓶で」



 この日はボトルではなかった。一瞬、今日は僕も持たなければならないかと不安になり、運ばれてきたビールを注ぐ事ができなかった。



「まぁ今晩は任せてくれよ。さ、乾杯しよう」



 その言葉に口角を上げる。

 空のグラスを向けてくる木内を前に固まり、しばらくして、酌が必要である事を理解した。


 

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