第5話 おもいだした

あつ子は親友と言える仲の幼馴染だ。


地元から電車に揺られて数時間、私の家に遊びに来てくれていた。


「こざっぱりした家ね」


ソファベッドとキャビネットくらいしか大型家具のないワンルームのアパート。折りたたみ机の脚をパキポキと鳴らしながら立たせ、座布団を並べているとあつ子はすぐに扇子を取り出し胸元を扇いだ。白地に朝顔の青い水彩画が薄く描かれた扇子だった。


「もうすぐ夏が来るね」


紅茶を入れようとして手を止めた私は、麦茶のペットボトルを冷蔵庫から取り出した。


あつ子の薬指をそっと見やる。なんだかその行為が後ろめたくなって、目を二、三回瞬いてから欠伸をした。彼女の薬指に指輪はない。


それは知っていたことの癖に、やけに羨ましく感じた。


私は勝太の指輪を外して、しっかりしたケースにしまっている。


でもそれが指にまだついている気がするほどだった。


昨夜、携帯の通知をオンにした途端、鳴り止まない通知に怯えた。


勝太は憤慨している。返信のない私に。


それが一等怖くて、おぞましかった。


昨夜の画面上に連なる通知のことを思い出していたことを悟られないように、


「旦那さん、元気? 」


私はできるだけ明るく訊いた。あつ子は不穏な表情を浮かべた。


「あいつ、最近、夜遅いんだよね」


え、と喉元が鳴るように驚いた。


あつ子の【旦那さん】は、気さくであつ子をとても深く愛しているイメージが強かった。


あつ子は物ぐさなので【旦那さん】はいちいちあつ子の後ろについてあつ子の投げ出したゴミやバナナの皮を拾って、ゴミ箱に捨てるような人だ。


「浮気かなと思って」


あつ子は薄暗い表情でそう言ったが、あつ子のいうように彼がどこかの女と逢瀬を交わし、接吻をし、体を重ね、それから家に帰って素知らぬふりをしている......そんな想像ができなかった。


「たとえば飲み会の用事とかが重なっているのではないの? 」


慎重に、且つ彼女を安心させるようにそういう言葉を並べると、あつ子は、


「証拠なんてないけど、本当に飲み会や残業だっていう証拠もないじゃない? 」


と言った。


「じゃあ、そういう証拠を頂戴って言えばいいのではないの? 」


思いつくあつ子が安心する結論を急いだが、


「そんな事言ったら、あいつを私が疑ってるって、分かっちゃうじゃない」


とあつ子はますます曇った表情になってしまった。


「それは分かっちゃったら、いけないの? 」


おずおずと私が訊く。まるで私が、その話の続きを知りたいような形になっている。あつ子は気にもとめない性格なので、頷いて説明を朗々とし出すのだ。




こういう風な形勢逆転をすることは、学生の頃からよくあった。あつ子は何に対しても物ぐさで、厚かましいほど図々しく、どこに居てもリラックスをする。自然体の女性、と言えば聞こえはいいけれど、度々私は唸るような何とも言えない虚しさを彼女に感じ、最終的には彼女のあっけらかんとした笑顔にほだされ、そしてなんとなく続いてきた積もり積もった友情を見つめ直し、全て許してしまうのだ。


中学生の頃に好きになった男の子の話を、あつ子がし出した時も形勢逆転が起きた。


「あのね、聞きたい? 」


聞きたくない、とも言えないウダウダした私は頷く他の選択肢を持っておらず、それなりに興味もあったので傾聴していたつもりが、「角田くんのこと好きなら告白したらいいじゃない」


という台詞を、まるで自分の意思ではなく何かに操られるようにして吐いていた時は驚いた。


「でも、でも」


とあつ子は恥ずかしそうに、それでも結局告白をするよ、という結論を作って、その後彼等は付き合って3ヶ月で終わった。


しかし私は、角田くんに振られてしまったあつ子の延々と続く愚痴を、やっぱり何かに操られたような、


「大丈夫、他にもたくさん良い人いるって」


なんていう励ましを延々と続けることになったのだ。




あつ子はそんな努力や労力を知りもせず痛くもかゆくもない風に、


「ありがとう」


と毎回お礼だけはきちりと言って、その度に良かったねと友人として幸せを願う私、という形に落ち着く。




いけない、このままでは、


「探偵を雇ったらいいじゃない」


なんていう台詞を引っ張り出されそうだ。と身構えたがしかし、朗々と説明された話の中には、どうやらあつ子の勘違いだろうとしか思えない【旦那さん】の存在があった。


羨ましいな。


率直に言えば、贅沢な悩みだな、と憤慨したって誰も怒り出したりしないだろうけれど、私がそれをそのままあつ子に吐き捨ててしまっては、これまでの積もり積もった友情が崩れ去る危険性を感じとり、


「大丈夫だよ、きっと」


と無難に締めくくった。




あつ子は扇子を扇ぎ、可愛いストラップを道端でもらった、だの、兎園という兎ばかりの動物園があるから一緒に行こう、だの、地元のクラスメイトの殆どが引っ越した、だの、難なく話せる類の話をあちらこちらからかき集めて、いつのまにか私もそれに振り回される形で夢中になった。


一緒にいたら楽しい人は、欠点もわかりやすいのかな。そういう風に考え事を背中のほうに隠しながらあれこれ話して笑っていたら、あつ子がふと思い出したように、


「そうそう、これね。好きじゃなかったっけ、こういうの? 私は興味ないから、あげるよ。彼氏とでも行ったらいい」


と言って展示会のチケットをテーブルの上に置いた。




勝太とその個展に行く様子を思い描いてみたが、それは難しく、しかし個展もとい【猫王子】のイラストは確かに私が高校生の頃から大好きなイラストレーターであった。


勝太がそういうのは好きじゃなさそうで、そして理解してもくれないだろう、というように思えてからは、猫王子については忘れるために実家に全て(画集もポスターもグッズもそして想いも)置いてきていた。


そうだっけ。


私は好きなものが確かにあったのだったっけ。


不思議なくらい忘れていた猫王子。


猫王子のチケットは二枚あったが、私は貰ってしまった。


「ありがとう」


深く、あつ子に礼をいうとあつ子は持ち前の明るい笑顔で、照れていた。

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