The Zipangu of the Dead

ふかしぎ 那由他

第1話 プロローグ ~地獄の釜の蓋が開く時~

 例年より半月ほど早い梅雨明け宣言がなされた七月四日の午前三時半


 ここは、琵琶湖北部にある大学の研究室にて現在執り行われているプロジェクト【細胞を活性化させ、身体能力における自己治癒は可能なのか?】そのバイオ大学で密かに研究されていたソレは、豚と猿を検体として実証試験の最終段階へと向かっていた。


 長浜駅に程近い特殊施設内で当直研究員はPCの前で独り言を溢していた。


 「ここまで来るのに7年、結構な時間が掛かってもうた…予定より半年遅れ…ほんでも、やっと成果が出せる。長かったぁ、えらい長かったゎぁ」


 午前1時、研究員:七里しちり 長政ながまさは、本日の予定の検体動物から血液を採取し終え、遠心分離機にサンプルをセットしパソコンから装置プログラムを立ち上げて、分離開始の実行アイコンをクリックしながらのボヤキだ。


 彼は眼鏡を外し、目頭を押さえる。


 「アカンなぁ、嬉しちゅーて興奮しとっても、流石に四徹は堪えるゎ。あ~しんどっ」


 助手の学生が胃腸風邪をこじらせ、さらに交代要員であった同僚も流行り風邪でダウンと云う人手不足に陥り、副主任である彼がその欠番を埋める為に連日駆り出されていた。


 ブツブツと文句を言いながらも、もう少しで研究の成果が発表出来る段階になった今、興奮冷めやらずで、眩暈と睡魔を誤魔化すかの様に眠気覚ましのコーヒーをすすってから、もうひと踏ん張りやと立ち上がり、伸びをする。

 パソコンの画面に表示されている過去のデータは、これまでの研究結果。それは莫大な量で、七里本人を含めたチーム皆の努力の賜物でもあるが故に、無理をしてでも早急に結果を出さずにはいられずにはいられないとばかりに彼の精神状態はかなり不安定だったと云えよう。


 「んー、後4時間で緩利ゆるりさんが来てくれはるから、それまでの辛抱やな……ふぅ」


 四日目の徹夜で心身ともに疲れ果てていた所為もあって、とうとう猛烈な眩暈を起こしてしまった七里。

 

 「うわ、アカン」


 倒れまいと右手で身体を支え様としたが、手を伸ばした先が最悪であった。そこには稼働中の遠心分離機があり、その上蓋に手を付いてしまったのである。

 体重の乗った手に上蓋は耐え切れず、バキッという音と同時に破損し、稼働中の分離器に彼の手が巻き込まれてしまう。


 “ガシュ!ガガガガガガガガ”


 「あぎゃっ、いっつぅぅ! ………や、やばいやばい、アカンアカン」


 激痛が走り抜ける、が、とっさに装置の事を思い出し、慌ててその手を引く。


 『いつつっ……あだだ……や、やってもーた……うゎぁ、手ぇめっちゃ痛いやん・・・……そ、それよか、装置、装置装置。だ、大丈夫やろか? こ、壊れてまいまったとかマジ洒落にならへんでぇ?』


 焦りながら装置へと視線を向ける七里。


 インターロックのお陰で装置の方は既に停止していたが、回転体に入れていた試験管は粉々に割れ、処理中のサンプル血液も壁面のパネルに飛び散っており、中のサンプル結晶体は無駄になってしまった事を知る。

 そして恐る恐る己が右手を見る七里の顔が歪み苦痛を洩らす。


 「……くっ」


 患部の右手の平はザックリと切れ、傷口からはドクドクと血が滴っていて、親指と人差し指を除く三本の指はあらぬ方向へ向いていたのである。


 やらかした事を悔やむ事より、先ずは傷の手当と装置の清掃と通常に動くかの確認をしなければならなかった彼は急ぎ水道で傷口を濯ぎ、救急箱から消毒液とガーゼに包帯、そしてピンセットを取り出す。



 右手には無数のガラスの破片が刺さっているので、消毒しつつガラス片を一つずつ取る、痛みと後悔の念に身を震わせながら一先ずの応急手当を続ける。


 粗方の破片を取り終え、彼は自身の白衣のポケットからハンカチを出すと、口に咥える。

 そして……。


 「うぐっ!」


 激痛に耐えながら、右手に包帯を巻いていく。どっと油汗が噴き出ても、痛みで吐き気が込み上げてきても『これは呆けていた自分の罰や』と失態と後悔を戒める様に、激痛に只管耐え続け、包帯を巻いていく。


 なんとか手当を終えた七里は、抗生物質の錠剤を飲み、右手の痛みがある程度治まるまで休憩としつつ、これからの事を考える。


 『取り敢えず、主任に連絡して。ほんで、装置の清掃と起動確認。それから報告書か……サンプル結晶体は……全滅やろなぁ、ああ・・・気が重いゎ』


 と考えていたのであるが、三十分と待たずに思いのほか痛みが引いたので、すぐさま腰を上げ、主任へ連絡をと受話器を取った。



 ◇



 連絡を終えた七里は、棚からマシン清掃用のガーゼとアセトンを用意して装置内を清掃するが、左手一本では思うように進まず時間だけが過ぎて行く。


 それから数十分後、ようやく清掃を終え装置の原点復帰、再稼働の確認作業に入る。


 「どうか壊れてません様に」


 科学者に有るまじき神頼みを吐きながら装置の起動ボタンを押す。そして無事起動、動作も正常に行われた事に安堵したが、残すは報告書である。


 普段は何事もなく結果を日報に打ち込むだけなのだが、今回は一番やってはいけないミスでの「事故報告」である。右手に大けがを負い、サンプル結晶体は全滅。気が重くなるのは当たり前と云えよう。

 PCデスクの椅子に座り、右手の痛みに耐えながらキーボードを叩く彼の後姿は病弱の年寄りに見えた。

 痛みと不格好な包帯に邪魔をされ上手くタイピングが出来ない七里は、瞼が熱っぽいのに気づく。


 『寝不足とケガの所為かいな? なんかボーっとしよるわ』


ところが、正確には遠心分離機でケガをした時、実験動物の血液と七里自身の血液、そして研究の中心となっている特殊な薬品が混ざり合い、更に突然変異した実験サンプル結晶体がウイルスとなり七里の傷口から体内へ取り込まれ世界を揺るがす死人ウイルスが彼の体内で生成されている事など、知る由もなかった。



 ◇



 報告書をパソコンに打ち終えて、気が付けば五時十分前。


 研究室に交代要員である主任研究員の緩利ゆるり 賢尚けんしょうが顔を出した。


 「七里ぃ当直お疲れ~、交代の時間やでぇ」


 何も知らない緩利は四日連続の徹夜の七里を気遣う様に優しさを込めて交代の挨拶をしてくる。


 「あ、緩利さん、おはようさんですぅ。ス、スンマセン…やってまいましたゎ」と包帯を巻いた右手を上げバツの悪そうな顔をしている。


 「え? なになになに、どうないしたんって右手ケガって、こりゃ病院が先やがな」


 びっくりしながら駆け寄る緩利は七里の右手を心配そうに見る。


 「ホンマにスンマセン。一応、自分で応急手当やったはんで、引継ぎする位は大丈夫やさかい心配いりません」


 冷や汗を流しながら痛みに耐えてるのは一目瞭然であったが、研究者たるもの保身より研究の結果を優先してしまう恐ろし程の自己犠牲上等人種。

 緩利も心配はしているが気になるのは研究結果、研究者の性質さがには勝てなかった。


 「わかった、報告と引継ぎしたら、真っ直ぐ病院に行くんやで?」


 「はい、見て解ると思いますが、サンプルデータは上がってません、そんで~……~って事になりましたわ」


 「まぁしゃーないゎな、後は僕に任せて自分は病院や、赤十字病院の加田かだ先生に連絡しとくさかい。先生は昨日から夜間救急外来の担当って一昨日会った時に言っとったしな」


 腰に手を当て、顔色が悪くなっている七里に優しく微笑む。


 「えろうお世話かけます、緩利主任おおきに。ちゃっちゃ着替えて向かわせてもらいますゎ、ほなお疲れ様です」


 「おう、気ぃ付けて帰りやぁ、お疲れさ~ん」


 部屋を出ていく七里を見送り、パソコンの前で考え込む。


 「こりゃ、来週のヒヤリハットの提案書に記載決定やな…あとは、リスクアセスメントとコンプライアンスの資料も改めて作成は……学生にやらせるか。後は教授……まぁ、電話やとあーだこーだと喧しいさかい、メールでええか」


 四日後に提出厳守の書類チェックに気を取られていた所為で、自分が腰かける椅子の上にある血の付いたガラス片には気づかずに緩利は椅子の背もたれに手を掛け座るのだった。



 ◇



 更衣室へ入った七里は意識が朦朧とし始めていた。着替えるのも億劫おっくうになり、白衣のまま荷物を手に研究室を後にする。


 施設を出ると病院へ行くのも面倒になり、自宅のある野洲へ帰るために長浜駅へふらふらと歩いて行く。


 『緩利さん、病院に電話したんやろか…けど眠くてアカンゎ、悪いけど早々に家に帰って寝させてもらいまっさ』


 覚束無おぼつかない足取りで、何とか駅に着き、カバンのポケットにある定期を出し改札を抜け、時刻は六時十分、ホームには長浜に姫路行きが五分で到着するので、慌てずにゆっくりと階段を下りていく。


 程なくして電車がホームに滑る込むのが見える。


 研究所を出た時より熱は上がっている今の七里は、怠さの中ガラガラの座席にドカッっと座り、朦朧としてきた意識の中安堵の溜息を吐いた。


 『あ、らっきー…すいとるみたいや…すわれるわ…なんか…つか…れ…た…ゎ』


 しかし、電車は時間になっても発車しない。乗客たちがざわめき始めた頃に車内アナウンスが流れる。


 「信号待ちの為、少々停車致します。お客様には大変ご迷惑をお掛けしますが、暫くお待ちください」。


 『てぇ…じんじんしと…る、…いた…い、まだ…でん…しゃ…でな…いん…か』


 虚ろな意識の中で帰れる安堵感とケガを気にする七里だが、周りの乗客からは異様な男に映っていた。


 「なんなん、あのおっちゃん、大丈夫なん?」

 「手ぇ怪我しとるし……なんやぶつくさ言うとるで?」


 薄汚れた白衣と右手の包帯は血に染まっており、半開きになった目と涎が垂れた口元、そして顔は青黒かった。


 『な…んか、…は…ら、へった…わぁ。…は…ら…へ…った…、は…ら…へ…』


 ひそひそと何か囁き合っている通学途中の高校生達や、怪訝な表情でブツブツ何か言っている中年女性、我関せずと窓から見える三成と秀吉の像を無表情に眺めるスーツ姿の男性。スマートフォンで写真を撮ろうとし、友人に止められている男子高校生達。


 誰が見ても重病人と分かる気味の悪い男の存在に、車内は嫌な雰囲気が漂っていた。


 だが、その男に、スタスタと近寄っていく一人の女性がいた


 「私は看護士をしている引山ひきやまと言います」


 簡単な自己紹介、自分は医療関係者と身分を明かす女性。


 「具合がようないみたいやし、電車を降りて病院に行ったほうがええよ。何なら私が付き添ってもええし」


 二十年のベテラン看護士長は七里の返答を待つが「閉まるドアにお気を付け下さい」とのアナウンスと同時にシューっと電車のドアは閉まってしまう。


 電車は動き始めてしまったので駅に降りてもらうのを諦めて、小さな溜め息と共に七里へと進み寄る。


 これは芳しくないと判断し「次の田村で降りて救急車を呼ぶよって、一緒に降りましょう」と言うが、聞こえていない風で、それよりも引山が一番気になっているのは右手だった。

 血が染み出ている右手を何とかしないと手遅れになると思うや否や、いつも持ち歩いている携帯用の応急処置セットを取り出す。


 「右手の傷見せてもらいますね」手は包帯の上からでも分かるくらいに腫れている。


 『包帯を解《ほど』いて、患部を確認して消毒が先決やね』


 慣れた手つきで包帯を外し、手の具合を見る。


 「……」


 流石は看護士酷くなった傷口をみても声は上げないが、引山が見たのはドス黒く変色した傷口に、その表情は強張っていた。


 『細胞が壊死えししてるやんか、これ下手をしたら右手は仕舞いやなぁ』


 彼女の眼はこの先一生不自由な人生を送る七里を容易に想像出来てしまっていた。


 「沁みるかもしれへんけど、消毒しないとアカンから我慢してやぁ」


 どんな状況でも看護士魂は揺るぎなかった。


 『順子よりこ何千回とやってきた事やん、田村駅までは3分しかないから、消毒しつつ駅のホームで救急車が来るまで包帯を巻くまでは出来るはずや』


 自分に言い聞かせながら引山は近くの大学生らしき男の子に声を掛ける。


 「君ぃ、すまんけど119番通報してくれへんかな? この人、病院に連れて行かんと大変は事になりそうやねんか」


 コクコクと無言で肯定した大学生はスマートフォンを取り出し通報する。


 「もしもし、今、電車から電話してます。はい…病人がおって救急車お願いします」


 状況をよく理解している大学生、端的に必要な情報をオペーレーターに伝えている。


 「はい、もう電車は長浜を出ました、はい、看護士さんがおって応急手当してはります、はい、男性で意識が朦朧としてますゎ、はい、息は」引山を見る『息はある』と頷く彼女。


 「息はあるようです、はい、快速です、僕は鞍貫くらぬきといいます「私は引山ひきやま 順子よりこ滋賀病院の内科の看護士長をしていますゎ」聞こえました? はい、番号は090の~…~です」


 鞍貫が通報している間に、何か協力出来る事はないかと申し出た人達が引山に寄ってくる。


 「ほったら、このガーゼで口元をいてもらえますか?」


 出されたカーゼを手に取った女子高生数名が意を決して七里の涎をぬぐった。


 「はい、分かりました、引山さんに伝えておきます、失礼します」


 119番通報を終えた鞍貫が言う。


 「引山さん、救急車が間に合うのは時間的に彦根駅がええらしいですゎ、その前の駅やと救急車を待つのに20分以上かかると言われましたんで、彦根駅で救急隊員が来るそうです」


 「ありがとう、鞍貫くん。でも慣れた感じやったね?」


 周りの人達も首を縦に振り同意している。


 「あ、僕ぅ実家が個人病院で、ほんで結構慣れてますねん」


 女子高生達が尊敬の眼差しを向けているが本人はまったく気が付いておらず、こちらの方面には慣れていない鞍貫だった。


 引山達の行動に申し訳なさを隠しながら、誰もが笑みを溢していた。これで、七里の処置に専念出来ると傷口に消毒液を掛ける引山が苦い顔になる。


 『なんやのんこれ、ガラスの破片?アカン、ピンセットは持ってへんかったゎ』


 それ気が付いた別の女子高生、今荘いまじょう 虎姫とらひめが「毛抜き用のピンセットやけど、コレ使って下さい」

 「私も持ってるんで」と友達の香水かすい 薫子かおるこが付け加える。


 彼女等の制服からして比〇山高校の生徒だと分かった引山。


 「おおきになぁ」


 ピンセットを受け取り、七里の手のガラス片を取り除いて行く、当人は痛くないのかされるがままに、介助を買って出た女子高生達に口元を拭ってもらっていた。


 取った破片は鞍貫がポケットから出したハンカチで受け止めてながら、只管ひたすらに七里の意識を保とうと彼に呼び掛けている、実家が医者と云うのも頷ける対処だった。

 破片も見える限り取り除き、再び消毒と包帯を巻いて応急手当が完了する。


 「ふぅ、これで彦根駅までは大丈夫やと思うゎ」


 引山の言葉を聞きながら、右手の止血が不可能と思った鞍貫が軽く肘のあたりを縛り、血流を鈍らせる処置も済んだ所だった。


 車内に安堵の空気が流れようとした時だった。


 「痛い!」


 先ほどまで七里の涎を拭いていた女子高生の声が上がる。


 びっくりした引山達の眼に映ったのは、女子高生の手に噛みついている七里だった。


 「アンタなにしてん!」


 慌てる引山、透かさず鞍貫が七里の口に指を入れて開かせ、噛まれた手が離れる。


 噛まれた手を胸元に持ってきて「痛い、痛い」と泣き始める彼女。


 友人が「ひどっ……血ぃ出とるやん、これ使い」とポケットティッシュを渡すが、余りの痛みに本人は受け取れない。


 今度は噛まれた子に看護士長が向き直る。

 「大丈夫や、ちょって見せてな」


 『痛いわコレ、肉を食いちぎられとるやん』


 泣きながら手を見せている子を落ち着かせるように声を掛ける引山。


 「大丈夫やからね、丁度、彦根駅に救急車が来よるし、一応、消毒しとこか」


 涙を流しながら、うんと返事をする女子高生。


 すると友人の子が七里に怒り心頭で罵声を浴びせる。

 「オッサン、なんやねんな。なんで手当して上げとる子の手ぇに嚙みつくねん」


 「言いたい事は最もやけど、友達の手当手伝ってぇ」


 と今にも飛びつきそうな女子高生に言葉を掛ける。


 朦朧とした患者が思いもしない行動に出る経験を何度もしている引山ならではの静止の方法だった。


 「オッサン許さへんからな」と捨て台詞を言い、友人の傍に付く。


 「まーこ、オッサン後で必ず警察に突き出すからな」


 泣いている友人をなだめながら頭を抱く彼女は、噛まれた子の親友なのかもしれない。


 米原から乗って来た乗客で既に車内は混雑し始めていた中での出来事は状況を知らない人に取っては衝撃的な場面に遭遇してしまった不運でしかない。

 遠目で見ていた乗客のどよめき、110番通報する者や119番通報する者、電車のドアが開いたらいつでも逃げ出せるように席を立つ者、無遠慮にスマホで写真や動画を撮る者達等がパニックを助長する。


 「大丈夫です、皆さん慌てずに、パニックにならんで下さい。返って危険な状況になってまいます、どうか落ち着いて」


 声を荒げて叫んだのは鞍貫だった。


 「彦根まで直ぐです、降りる時も慌てず落ち着いて行動して下さい。僕らは彦根降りますよって、降車時に沢山の人が慌てて降りはったら二次災害になりますさかい、ここは落ち着いて行動して下さい。お願いします」


 引山も『これは私も一緒に降りるしかないな』と腹を括り目が合った鞍貫へ頷いて見せる。


 「怪我人を優先させてもらいます、先に降りますゎ」


 電車は速度を落としホームへと入っていた。



 ◇



 七里を抱えた鞍貫と引山が、開いたドアから真っ先に降りる。続いて七里に噛まれた女子高生と友人、そして何人かが降り、急いで鞍貫達から逃げる様に離れた。


 閉まったドアの窓から、汚物でも見るようないくつもの視線が注がれる。ホームのエレベーターから救急隊員がストレッチャーを押しながらやってくるのが見える、七里以外の人間がそれに気を取られた瞬間だった。


 “ブッシュウウウウ”と血吹雪が舞う。


 そう七里の口から大量の吐血、七里の真正面にいた噛まれた女子高生と友達がその血を浴びてしまったのである。

 引山と鞍貫は両脇に居たので難を逃れたと云えるが、この後の事を考えると七里に関わってしまった時点で、彼等の人生は終わりへと向かっていた。


 動き始めた電車から血飛沫を目撃した乗客から「うわぁぁ」と驚愕した声や悲鳴が聞こえたが、その血を自分が浴びずに済んだ安堵の声も漏れていた。


 そのまま電車は速度を増し京都方面へ走って行く、鞍貫が落とした“七里の血が付いたガラス片”と共に。


 血で真っ赤に染り、半狂乱になった女子高生を何とかなだめて救急車へ乗せた救急隊員は、彼女の傷口を見て愕然とする、先程までと患部の色が明らかに違うのだ。


 嚙み千切られた手の平は青黒く変色、細胞が壊死しているのは一目瞭然だった。


 『おかしい、三分も経ってへんのに細胞が壊死しとるなんて、あり得へんゎ』


 「病院まで三分と掛からへんからなぁ、もちっとの我慢やで」と心と裏腹に痛みに耐えている女子高生に言葉を掛ける。


 『これは、患部切除で済まへんやろなぁ』

 只々、大丈夫、大丈夫やでと、声を掛けるしかなかった。


 彦根駅西口ロータリーにサイレンがけたたましく響き、救急車は彦根中央病院へ向かう。

 一方、大量に吐血した七里を乗せた救急車の車内は、無線で死亡確認の報告がされていた。七里は吐血の後に事切れていたのだ。


 「引山さん、これはどうしようもない事です。よう頑張ってくれはりましたゎ」

 救急隊員の励ましを無言で受ける引山と悔しさを隠し切れない鞍貫の姿があった。


 救急車の外には、駅前交番に居た警察官の姿があるのは、交代時間と救急車が到着した時間が重なり、吐血後に一人の救急隊員が直接通報した事にある。

 救急搬送時に死亡した場合、本来ならば病院で警察の到着を待つのだが、警察官の機転で署へ連絡、確認し、即対応の任が許可されたのだった。


 「ここは私一人で大丈夫やから、鞍貫君は学校へ行きぃ」と引山の提案に、警察官も彼女一人の証言で大丈夫やろうとの言葉もあり、交番を出て行った。



 ロータリーに停車している救急車の中にあるストレッチャーの死体が、僅かに動いているのを、まだ誰も気づいてはいなかった。



 ◇



 京都方面のホーム立つ鞍貫は、恐怖に耐えていた。ジーンズのポケットに入れた手が痛み出しているのだ。


 『とっさに口に突っ込んだけど、失敗やったかもしれんゎ』


 あの時、彼自身も七里に噛まれてしまっていた。

 傷口を見るのが怖くて仕方がない。次の電車を待つ列の中で、後悔と恐怖に潰されそうな心を何とか失わずにいた。


 『アカン、手ぇ見るんが怖い…』


 噛まれてから30分くらいしか経ってない傷は、分刻みで痛みが増してくる。それがどうゆう事か、医者の息子である彼は“患部が悪化している”事に気が付いている。

 6:58発の西明石行が満員電車なのは確実に分かっている。通勤・通学でごった返す駅のホームの喧騒の中で、乗るのか乗らないのかを電車が到着しドアが開くまで迷っていたが、乗車する人波に揉まれ、車内へ押し込まれていた。




 「なぁなぁ、今の見た?」

  「おう、見た見た、あれヤバいやろ」

   「何なんあれ、死んだんとちゃうかぁ?」

    「あんなん初めて見てたでぇ」

 「女の子、モロに血ぃ浴びとったゎ」

  「ウチやったら、気絶モンやゎぁ」


 「動画撮っとけばよかったゎ」

  「いやいやいや、ソレしたらアカンって」


 七里の吐血を目の当たりにした人々が、ホームに降りた病人の惨状を興奮しながら語り合っている。


 「あのオッサン死んどるな、絶対」

  「毒霧やでアレ」

   「アホ! グレート・カ〇キちゃうわ」


 皆、対岸の火事を見ている。所詮は他人事で、自分達には関係のない事だと思う若者達。その剣呑な車内で二人の少女だけが心配している風だった。


 「あん子、大丈夫やろか?」

  「病院で手当てして貰っとればええねんけどなぁ」


 噛まれた同年代の少女の身を案じている今荘と香水の二人は、うんうんと頷き合う。


 「この先、電車が少々揺れますので、ご注意下さい」と車内アナウンスがながれる。


 キー、ガクン、ゴトンゴトン。


 大きく揺れる車両は、興奮しきっていた乗客の多くが、バランスを崩した。


 「うお」

  「くっ」

   「きゃ」

 勢い余って、近くの人とぶつかり、転倒してしまう。


 そう、ガラス片の上に。



 ◇



 7月初旬に梅雨明けした関西は朝から気温32℃を超えていて、誰もが半袖と薄手の生地のズボン。女性は素足のミニスカートが多く、それが災いした。


 乗客の乗り降りで床に落ちていた七里の血が付いたガラス片は広範囲に散らばり、転倒者の肌に突き刺さる。

 

 「痛っ」

 「つぅ」


 転んだ十数人が転倒の痛みとは違う痛みに驚くが、原因を発見するのは早かった。


 「なんや、ガラス? どっからやねん」

  「ホンマや、誰が捨てたん?」

 「うわマジか、刺さっとるやんけ」

  「俺も刺さっとるゎ」

 「ホンマ腹立つゎぁ」


 捨てた人間に文句を言いながら、自分達も刺さったガラス片を床へ捨てていた。


 起き上がった乗客の騒ぎを余所に、電車は草津駅に到着し開かれたドアから、その何人かが降りて行く。



 ◇



 南草津駅、石山駅でも、ガラス片が刺さった人数人が下車して行った。


 今荘と香水も石山駅で下車し、京阪電鉄に乗り換える。終点の坂本駅方面のホームに向かって、二人は肩を並べて歩いて行く。



 ◇



 鮨詰めの車内で、目の前の大学生らしき男性の顔色が悪い事に気が付いた中学生が言葉を投げかける。


 「お兄さん、具合が悪いんとちゃう?ここ座って下さい」


 今にも倒れそうな青年に席を譲る。


 席を譲って貰った鞍貫は中学生にお礼を言い、熱と痛みに耐えながらドア横の席に座る。


 『手ぇ見れへんし、熱も出てきとる。学校行かんと病院がええかもしれん』


 段々と意識が朦朧としてくる鞍貫は、長浜駅での七里と同じ症状だと云う事に気付かずいた。いや気付ける意識は、もうなかった。


 もし、ここに引山が一緒に居たら、直ぐに電車を降りて病院へ行っていたかもしれない、いや既に手遅れと言われ、七里の様に口から血飛沫を吐き、絶命すると云う事を。


 そして蘇り、人間を襲い、人肉を食らう存在に変異した化け物になる事を。


 既に引山だけではなく、彦根から長浜までの人たちも知っていた。さらに日本全体へ広がって行くのは時間の問題だと。



 ◇



 JR京都駅、日本最大級の観光地は外国人観光客が最も多いと知られている古都。


 朝7:53過ぎ。


 「間もなく5番線に新快速電車、姫路行きが到着致します、危険ですので点字ブロックより内側でお待ちください」とホームに電車の到着アナウンスが流れる。


 通勤・通学でひしめき合う駅ホームは、観光客達も多くおり賑わっている。


 中国人の親子…年を取った母親をいたわる様に手を繋いでいる青年。アンタこれから沖縄にでも行くのか?と言いたくなる様な服装のアメリカ人カップル。気分上々で軽快なステップを踏み、興奮しているブラジル人らしき家族。大きなキャリーバッグを引っ張っているインド人のグループ。


 そして、自分たちで作ったであろうシオリを手にした修学旅行の学生の一団。


 これが京都駅の通常の風景だった、そう五分前までは。


 5番ホームに到着した電車から降りて来た乗客に少し異質の青年がいた。白Tシャツは血と思わしきシミがあり、眼差しは虚ろで足取りもフラフラしていた。

パッと見“朝帰りの大学生か?”と思わせる青年に周りの人々は訝し気に眉をひそめる。

 …理由はにおい、汗くさいい等ではなく、糞尿のにおいと酷似しているにおい。


 そう“死臭”だった。


 電車を降りた死臭の原因‘鞍貫’ は千鳥足で改札口向かう上りエスカレーターの人の列に並ぶが、あまりの悪臭にそこだけ穴が開いたように誰も寄り付かない。


 近くにいた老婆は明らさまにハンカチで鼻孔を覆い、ワザとらしく咳き込むスーツ姿の男性。

 京都人らしい反応にも、死臭を漂わせた男は気にした風もなくゆらゆらしながら立っている。


 ところが鞍貫は頂上のステップでつまづき転倒してしまう。


 『はよ…う、えきか…らはな…れん…と、あんひ…とみた…い…になってま…う』


 勢い余って、違うホームからの乗客の何人かにぶつかり、さらに何人かが巻き添えを食って、十名余りが転倒する。

 起き上がろうともせず俯せたままの鞍貫は、動けないのか動かないのか微動だにしない。


 『な…んか、…は…ら、へった…わぁ。…は…ら…へ…った…、は…ら…へ…』


 巻き込まてた人は自分で立ち上がるか、連れに手を取ってもらいながら立ち上がった。


 そして動かない鞍貫を起こそうと、臭いを我慢しながら何人かが近寄る。


 「おい、君ぃ大丈夫なんか?」

  「服に付いとんゎ血とちゃうん?ケガしとるん?」等の声を掛けて鞍貫の反応を見る。



 『おっ…ちゃん…、お…れに…かまわ…ず、に…げ…て』


 動かなかった鞍貫が、聞こえるか聞こえないくらいの返答がしたので、三人掛で起こしてやる。


 「にぃさん、えろう臭いますなぁ、家に帰ったら、直ぐにフロ入りやぁ」


 はははと、鞍貫に言葉を投げかけながら手伝う初老の男性。


 駅員を呼びに何人かが改札横の窓口へ向かう、聞きつけた駅員が三名、呼びに行った客と一緒に担架を手に「すいません、通して頂けますか?」


 「すいません」「はーい、ちょっと失礼しますね~」と人込みを縫ってやってくる

  「駅員さんこっちですぅ」呼びに行った内の一人の女性が大声で言う。


 この時点でかなりの野次馬がおり、何んだ彼んだと覗き込む興味津々の若者たちや、大丈夫かしら?と心配そうに見やる、先ほどの老婆。


 中にはスマホで写真を撮る常識知らずも少なくなかった。


 『ア…カ…ン、ミン…ナ…ニゲ…テ…クレ。ハ…ラ…ヘ…ッテン…ネ…ン、ハ…ラ…』


 己の運命が周りの人間にとってどうゆう事になるか分かっている鞍貫は、薄れて行く意識の中で叫んでいたが声にはならず、救護しようと駆け付ける複数の足音を聞きながら、呼吸が停止し、意識が消える。



 ………そして七里と同じ運命を辿る。



 ◇



 鞍貫が、京都駅に到着する一時間程前の出来事。


 「間もなく、7時43分発岡山・広島方面、のぞみ97号、博多行きが到着します…~」


 京都駅の博多方面の新幹線ホームで複数の男女が到着する新幹線を待っている。


 「じゃっらた、そのまま紙屋町に行くけぇ、うんうん、…ほーじゃねぇ」


 スマートフォンで会話する20代の女性の背中には血染みの様な跡が見える。


 「大丈夫やけん、心配いらんっちゃ。福岡まで3時間くらいばい、そそ、分かっちょるばい」


 別の列で電話をしている30代の男性は脇腹の辺りを気にしている様だ。


 「岡山駅から9時5分のスカイライナーに乗るんじゃち、うん、そうや、おう、高松の駅まで迎え頼むわぁ」


 元気に電話している20代の女性の膝からは血が出ている。



 「間もなく、7時45分発 のぞみ108号東京行きが到着します」


 反対側の東京方面の新幹線ホームで一人は肘の傷を、もう人は手の平の傷を気にしながら、出張を終え東京の社へ戻ろうと列に並んでいた。


 「先輩、今回の契約苦労した甲斐がありましたね」ズキズキ…。

  「まぁ、時間も掛かったし、あれで取れなかったら、課長に殺される」ジンジン…。



 ◇



 時を同じくして京都駅の隣駅~山科駅~


 山科駅で湖西線に乗り換えた男女数人は転倒してケガした事を話し合っていた。


 「マジ、ガラスの欠片が散乱してるって、あり得んゎ」

  「ホンマや、見てみぃこれ、血ぃ出とんで」

   「俺もや、ばい菌入った感じでズキズキしてんねん」

    「ウチもや」


 「舞子に着いたら病院開いてるかなぁ?」

  「微妙やなぁ」

   「やなぁ」


 そんな事を言いながら痛み出した傷口の痛みを皆、其々(それぞれ)が内心焦っていた。


 『『『痛みが増してきよる』』』





 ~京阪電鉄・終点、坂本比叡山口駅~


 「朝練開始まで余裕、余裕」


 駅に着いた今荘と香水は、同じ制服の学生に混じって学校へと上り坂を歩いていが、その集団に手の甲を押さえている男の子の存在には気付かずにいた。



 ◇



 湖北から京都駅、東京方面、四国、広島、博多と琵琶湖の西側を通って北陸へ“ウイルス”は運ばれ、これから日本全土を地獄絵図に変える惨劇が始まった日である。




 後に‘The Zipangu of the Dead’と呼ばれる大災害の歴史である。


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The Zipangu of the Dead ふかしぎ 那由他 @shigi_yaenokotoshiro

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