第17話 貴船の神は美しき刃を

 京都の奥座敷と呼ばれる貴船山と鞍馬山に挟まれた鴨川の水源のひとつ貴船川沿いの森の中に鎮座し、青紅葉・紅葉・冬景色・雪景色など、四季それぞれの趣をみせてくれる貴船神社。

 貴船はその立地から夏は京都市内より10度近く気温が低い日もあるので避暑地となっている。

 話にはきいていたが、実際に肌で感じると唖然とするばかりで、市内でのうだるような暑さがまるで嘘のようだ。

 空気が澄んでいるというだけではない、何かこう凛としていて、自然に背筋がのびてくる。

 朱色の鳥居の両側に春日燈篭と石段が貴船神社のよく知られる姿だが、俺が公介と共に訪れた場所はそこではない。

 貴船の真骨頂は奥宮なのだと公介は言った。

 貴船神社は古くより気力が生じる根源となる場所として氣生根とも表記され、崇められてきた霊験あらたかな由緒のある神社であるその最大の理由は龍穴にあるらしい。

 龍穴というのは陰陽道や古代道教、風水術における繁栄する土地をさし、貴船神社は奈良の室生龍穴、岡山の備前龍穴とともに、日本三大龍穴の一つであり、日本でも指折りのパワースポットとなっている。

 龍穴は誰の目にもふれないように奥宮の本殿の真下にあるという。

 本殿のような神々しさやにぎやかな雰囲気はないが、奥宮の参道あたりからやたらと空気が濃いのがすぐにわかった。

 奥宮の朱塗りの表門から敷地へ足を踏み入れた瞬間に感じた圧と寒気で俺は立ちすくんでしまった。

 拝殿と本殿を護っている狛犬がぐっとこちらを見た気がして、目をこすった。

 勘違いではないようだ。二匹の狛犬の目はまるで生きているように動き、俺をとらえている。

 敵ではないというように両手をあげている俺の様子に公介がすぐ横で苦笑いしている。

「お前はまだよそ者だからなぁ。 なかなかに熱烈な視線だこと」

「熱烈!? これ、笑えるレベルじゃないよ! こんなの初めてだ」

 黄泉使いの世界を知ってから、神やその使い等の存在を理解するようになった。その上、はっきりと見えてしまうようにもなった。ふらりと散歩に行く先にある小さな社の前に座っているもふもふ犬を見つけたり、毛づくろい中の白狐をみたりと俺の世界は激変した。

 だから、狛犬さんが生きているのは理解している。驚いているのはそこではなくて、ここの狛犬さん達にものすごく敵視されている気配があるからだ。

「大丈夫、すぐに仲良くなれる。 お前、動物に好かれる性だろう?」

「簡単に言わないでよ! 昼日中でなかったなら、俺、あの狛犬さん達にかみつかれてるって!」

「仲良くしてもらえるなら尻くらいくれてやれ」

 公介が俺の尻を軽く蹴飛ばしてきたから、前のめりになり、あわや転げるところで何とか踏みとどまった。 

 慌てて顔を上げると、狛犬さん達の視線がさらに突き刺さってくる。

 俺は敵じゃないですってと半泣きになりそうだ。

 貴船神社の本殿とは違って、奥宮へ足を運んでいる観光客は数えるほどで、まばらだ。俺達の他に2,3組しかない観光客は皆、にこにこしながらお参りしている。その様子に俺は嘘だろうと挙動不審にあたりを見回してしまう。

「皆、どうして平然としていられるの?って顔だな。 ここの意味を知らんって、ある意味ですごい才能だってことわかったろう?」

 公介がいひひと片方だけ口角をつりあげている。

 俺は暑さからの汗ではなく、この場の濃すぎる空気と神氣に緊張しっぱなしで、足がすくんでいる。その上、尋常じゃないレベルで冷や汗をかいているのだ。これまでの人生でこれほどの神氣を感じた場所はない。

「本当の意味を知ってこそ値打ちがあるんだが、如何せん、知らん人の方が多いからなぁ」

 公介が無精ひげを指先でなぞった瞬間、その背中側から女性の声がした。


「知らないのが普通だ。 ここへ来たいと思って、手を合わせに来てくれるだけで良いんだ。 闇淤加美神は些末なことは気にされない」


 その声はひどく落ち着いていて、穏やかで、温かい。

 黒のベースボールキャプ、白のオーバーサイズのTシャツにデニムのオーバーオールというシンプルな服装をした宗像悠貴が立っている。

 柔らかく微笑む彼女は本当に美人だ。外面だけではなく、こう内面も美人なんだろうなと思う。

 Tシャツからのぞいている白い首筋と左腕には痛々しいほどにはっきりと深い傷がある。

 左腕は胸のあたりで自然な姿勢を保つように黒のアームサスペンダーで固定されている。

 よく来たねと悠貴が俺の顔を覗き込んで、にっこりと笑んでくれた瞬間だった。

 あのおっそろしいほどに睨みつけてきた狛犬さん達の気配がやわらいだ。

 目がとてつもなく優しいのだ。気のせいかもしれないが尻尾を振ってくれているようにも思えた。


「彼らは本当はとっても優しいんだ。 でも、闇淤加美神を護る大切なお役目があるから、いつでも臨戦態勢なんだよ。 怖かったろう? もう大丈夫だから」


 悠貴が狛犬さん達にアイコンタクトすると彼らの口元がさらに笑みにかわった。

 雅はどこにいるかという公介の問いに、悠貴が弓をとりにいってくれていると返してから、ゆっくりと公介の顔を見上げた。


「珠樹の方がうまいはずなのに、どうしてこんな私に?」


 公介が黄泉使い最強の弓使いはお前しかいないと至極当たり前のように答えた。

「理解できません。 弓は左腕、右足が重要なのに? 私にはその両方ともないのに? あなたが教え込んだのだから御存知でしょうが、そもそも私は槍使いですよ?」

「いいや、弓使いだ。 ほとんど表に出していないこの重要機密情報をどうやって敵は手に入れたのやらと俺は腸が煮えくり返っているがな。 敵は知りえた情報を精査して、ピンポイントでお前のそれを狙ってきた。 お前をそれだけ恐れたんだ」

 悠貴は下唇をぎゅっと噛んでから、ほんの少しだけ目を伏せた。

 公介はその頭にゆっくりと手をのせて、小さく息を吐いた。

「俺と違って、お前の左腕と右足はまだくっついてる。 機能回復は必ず叶う。 呪縛を必ず解いてやるから諦めるんじゃないぞ?」

 俺が知っている宗像悠貴はいつでも凛としていて、宗像のメンバーの姉的存在で何でも卒がなくこなし、どっしりと構えているイメージがあったが、公介の前ではただの子供のように見えた。

 悠貴は公介の愛弟子であり、公介が自分の後継にと育て上げた正統派の黄泉使いの代表でもあり、判断力・決断力・統率力だけでなく、封術にかけては群を抜いているとも聞いたことがある。

 宗像貴一が誰よりも信頼し、全てを預けられるとまで断言しているその女性が吹けば飛んでしまうように儚い存在に思えた。

「私は宗像だから大丈夫」

 声は震えているが、ゆっくりと顔を上げた悠貴は鉄壁の笑みを浮かべようとしていた。公介がそれにたまらないというような顔をして、片腕を伸ばして悠貴をぎゅっと抱きしめた。

「悠貴、雅を頼れ。 頼って良いんだ。 回復するまで、黙って雅に護られてろ。 雅がお前の腕となり、足となってくれる。 良いな?」

 ふっと前方の景色が歪んで、そこに弓を持った長身の青年が現れた。 

 津島雅だ。彼は俺にそっと目配せをした。

 悠貴が公介の前では崩れることを彼は知っているのだろう。しかも、その弱い姿を雅にみられることを嫌うことも同時に理解しているのかもしれない。

 だから、今、ここに居ることを言うなという視線だ。

 公介も気が付いたらしく、ちらりと雅に目をやって、小さくうなずいた。

 悠貴がふうっと息を吐いて顔を上げたのを確認してから、雅は今現れましたというように、仰々しく大声をあげた。

「悠貴! この弓、手入れしてたの? 結構、汚なかったよ?」

 わざとらしく和弓を振り回しながら、雅は能天気なふりをしている。

 雅が差し出した和弓を受け取って、悠貴がうるさいなと声を荒げた。

「しばらく寝かせていたから仕方ないだろう? これは御弓師柴田勘十郎の京弓、七尺五寸。 新君には私のこれで良いと思うんだ」

 柴田勘十郎とは京都の名工のことらしい。

 七尺五寸とは弓の全長であり、227cmを指す。

 京弓の特徴の一つが握り部分のカーブの小ささであり、直線に近く船の底のようなラインで、船底の弓は弦を引くと全体が1つの曲線のようにしなり、矢が勢いよく飛んでいくと悠貴が説明してくれた。

「弓術を身に着けるのなら、良い弓を引くことはとっても大事なことだ。 その上で、それをどう実践に生かすかは君次第」

 悠貴がここではさすがに難しいから、山をお借りしようとにやりと笑んで、雅に手を伸ばした。

 雅は何も聞かずに、彼女の身体をすっと抱き上げると、先に行くよとふっと姿を消した。

「山をお借りするって?」

「ここの主にってことだろうよ」

 公介が俺に意地悪い笑みを向けた。主と言われてもと俺が口ごもるのを可笑しそうに笑って、ひょいと襟首をつかんできた。

「あぁ、これ! ほんと、船酔いみたいになるからやだ!」

「うるさい!」

 公介が黄泉使い独特の移動を開始した。

 黄泉の一部を経由する異次元空間の移動だ。

 もう、本当にこれは嫌い。

 荒波を乗り越えた後のような胃の不快感がどうしても残るのだ。

 明るい場所へ出たと思ったら、公介は原生林そのままの場所へ俺をぽいっと放り投げた。

「えぇ!?」

 俺が目の前にあるものを指さすと、公介がかっかっかと笑った。

 大木に藁人形、しかも五寸釘で打ち付けられている。

 またかと雅の声がして、悠貴もその声に重なるように大ため息だ。

「よくあることなの?」

 俺の問いに三人が同時に肩を落とした。

 残念ながら、よくあることらしい。

 公介が藁人形を炎で燃やしきってから、大木に打ち付けられたままの五寸釘を取り除いて、さらに苛烈な炎で跡形もなく焼き切った。

「宇治の橋姫伝説ってきいたことあるか?」

 俺は首を横に振る。 

「丑の刻まいりならきいたことはあるか?」

 あると俺は答えた。でも、かなり眉唾だと思っていたが、ついぞ先ほど、事実を視認したところだ。

 公介は宇治の橋姫伝説について語り始めた。

 嵯峨天皇の御世、ある公卿の娘が深い妬みにとらわれ、貴船神社に7日間籠り、祈り続けた。

『貴船大明神よ、私を生きながら鬼神に変えて下さい。 妬ましい女をとり殺したいのです』

 貴船の神は娘を哀れに思い『本当に鬼になりたければ、姿を変えて宇治川に21日間浸れ』と告げた。

 娘は都に戻ると、その髪を5つに分け5本の角にし、顔には朱をさし、身体には丹を塗って全身を赤くした。頭に載せた鉄輪に3本の松明を燃やし、さらに両端を燃やした松明を口にくわえた。

 そして、宇治川に21日間浸ると、神の言ったとおり、生きながら鬼になった。

 鬼になった娘は、妬んでいた女、その縁者、相手の男の親類と誰彼構わず、次々と殺した。


「なんて話は嘘っぱちなわけだけどな」


 丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻に貴船明神が貴船山に降臨したとの伝説から、丑の刻に参拝して願いを掛ける心願成就の方法であり、平安時代には、夜に貴船神社に参拝することも行われていたそうだ。

 しかし、時代の変遷と共に本来の意味が変質し、縁切りの神・呪咀神としても信仰されるようになってしまい、鎌倉時代後期の『平家物語』剣之巻の『宇治の橋姫』が原形の一つとなり、とんでもない嘘話がまことしやかに信じられてしまった。


「丑の刻、ちょうど午前1時から午前3時頃に神社の御神木に憎い相手に見立てた藁人形を釘で打ち込むという古来から伝わる罰当たりも甚だしい呪いの一種が誕生したってわけ」


 これの典型は、嫉妬心にさいなむ女性が白衣に扮し、灯したロウソクを突き立てた鉄輪を頭にかぶった姿で行うという。

 連夜この詣でをおこない、七日目で満願となって呪う相手が死ぬが、行為を他人に見られると効力が失せるという。


「神の領域を穢す願いは質の悪い呪いとなり、神が何をしなくとも己へ還る。 鬼になるのも、呪いがかかるのも結局は神の御業じゃない。 人の愚かさが悪鬼を招いた結果でしかないってわけだ」

「そんなことをする人間に本当に神様は怒らないの?」

 俺の問いに公介が苦笑いして、神は何もしないがしっかりと見ていると言った。

 続けて、祟らないのかときいた俺に公介はさてと小首を傾げた。

「怒るのかという問いには怒る、祟るのかという問いには祟ると答える他ない。 神との約束は魂の誓約となるからこそ、生半可な覚悟で願ってはいけないということだ。 その誓約の内容が良いか悪いかは関係なく、誓約違反の代償はどちらにせよでかい。 やっぱり辞めますはないってことだ。 だからこそ、これを理解し、神を神として恐れ、人は必ず一線を画しておく必要があるんだ」

「でも、公介さんも宗像の皆も神様と会話しているように思えるし、日々、丁寧に祝詞を捧げてる。 とっても神様に近いように思えるんだけど?」

「そうだな。 確かに、言霊で誓約をたててるみたいなものだな。 それに、神が怖いわけでもないんだ。 上手く言えんがこれは畏怖だな。 黄泉使いは人であるのに、人ではみないものも見る。 だから、暗闇を照らせる存在を敬い、決して粗末に扱いはしない」

「それって、神様に限らないよ。 暗闇を照らせる存在は神様だけじゃないよね?」

 神は美しく、気高く、闇をはらえる。だけど、それは人にも言えることだ。

「俺にとって、宗像の人達はそういう存在だよ」

 俺はこの人達に返しきれないほどの恩がある。だから、強くなる必要があるのなら選り好みしている場合ではない。与えてもらえるものは何でもして、得ていかなくてはいけない。

 はっとして顔を上げると公介が言葉なく俺を見ていた。どこか驚いたような、何か思案しているようなそんな顔をした公介は小さく頷くと、俺の額を指ではじいた。

「新、お前はほんまに可愛いやっちゃなぁ!」

 公介がくすりと笑んでから、俺を悠貴の方へ押し出した。

 悠貴は雅にアームサスペンダーを外してもらっていた。


「十種神宝」

 

 悠貴がふっと空を見上げて、つぶやいた。


「瀛津鏡、辺津鏡、八握剣、生玉、死反玉、足玉、道反玉、蛇比礼、蜂比礼、品々物比礼」


 悠貴の声なのに、鈴の音色のような不可思議な感覚だ。

 

「一二三四五六七八九十! 布留部、由良由良止布留部!」

 悠貴が指先を歯できずつけ、その血のにじむ指先に息を吹きかけ、ポンと左腕をつかむ。


「暗き闇を照らす尊き月よ、汝の光を吾の血潮に呼び覚ますことを許したまえ!」


 彼女の身体をぐるりと覆い尽くすような白銀の光。それがおさまった頃、そこに立っていたのは黄泉使いの宗像悠貴その人だった。

 銀をはじくような黒鉄の髪色に瞳ははちみつ色。

「闇淤加美神、吾はあなた様の愛し子。 吾に絆を与えたまえ」 

『これはこれは、悠貴。 夜でもないのにどうしたってんだい?』

 大木の上から悪びれもしないややハスキーな女性の声が降ってきた。

 はじかれるように仰ぎ見る。黒いしなやかな髪は光をはじきながら風になびき、瞳はぞっとするほどに輝く金色をした女ぶり見事なほっそりとした女性がこちらをみおろしていた。

「闇淤加美神、私にお力をお貸しください」

『この度のそれには吾にさほどの利益があるとは思えないが?』

「何としても、この子に刃を与えねばなりません。 私だけが最大の刃を与えうる者だと、私の師が申しました。 私はそれにこたえたい。 この子の刃は宗像だけでなく、この日本も救うと信じています。 だからこそ、絆を求めます!」

『大きく出たものだねぇ。 そこの砂利は月でもなく、宗像でもない。 その上、人でもないものだが、それでもお前は手を貸すと?』

 砂利とは俺のことなのだろうかと公介を見ると、珍しく公介の表情が凍り付いている。食い入るように悠貴と神のやりとりをみたままで俺の焦りなどそ知らぬ顔だ。


「闇淤加美神様、俺は強くなる必要があるんです」


 びゅうっと横っ面を鋭い風が通り過ぎていき、ぬるりとしたものが頬を伝い落ちる。遅れて痛みが走る。話しかけるなということだろうけれど、俺には時間がない。

 狛犬とはけた違いの覇気、いや、これは神氣だろうが、その金色の瞳があまりに美しくて吸い込まれそうだ。怖いという感覚はもう超越していた。

 もう一度、風がふきつけてきたが、俺は無意識にそれを手で払っていた。

 

「先ほど、月でもないと言われたけれど、俺は月を選びます。 理由は月の核となる人員が宗像の人間達だからです。 だから、どちらつかずではないし、俺は敵にはならない」


『砂利、お前は嘘をついている。 お前は月になりきれぬよ』


「俺の主は宗像貴一だけです。 それは俺の魂が知っていたことだし、生まれる前からの約束です! 彼が月だと宣誓しないのなら、おっしゃる通りかもしれません。 あるいは宗像貴一が俺の主の器としてふさわしくないと魂が判断するようなことがある場合もまた同じかもしれません。 ですが、宗像貴一はそうなりはしない。 そうでしょう?」


『砂利よ、お前の言葉は勇ましいが吾がきいてみたいことはそれではない。 太陽の主は二人おるそうだが、その内の1人はお前の魂の者ではないのか?』


「月だから、太陽を救えないとでもおっしゃりたいか?」


 誰だ。俺の意志をこえて、誰かが言葉を吐き捨てる。

 身体が動かない。俺は俺の言葉を奪われている。


「この頴秀、月だの太陽だのと些末なことに執着し、大事を見落とすことは致しませぬ。 黄泉津大神様の赦しと月讀様の慈悲を受けたこの身を穢すことも致しませぬ。 魂に恥じぬ働きのみを致します。 ゆえに、相手を奪いつくすような勝ちには一切執着致しませぬ。 いかがか?」


『言うではないか。 では、黄泉津大神様の名に免じて、今しばらく静観しておいてやろう。 だが、砂利よ、覚えておくが良い。 高潔、正道であろうとすればするほどに護れぬ物の数が増える。 それでも突き進めるかどうか、常に自問自答せよ』


 大木の上からひらりと舞い降りた闇淤加美神は悠貴の背後に立ち、彼女の動かない左腕を持ち上げて、ゆっくりと瞼を閉じた。ついで、右足にも指を這わせる。


『二十六の夜にさそわれいでてなむぞ思ひなりぬる』


 悠貴がその言葉にこたえるようにゆっくりとほほ笑む。


「有明の月は夜明けを託された者の舞」 

 

 悠貴が指を鳴らす。その動作がまるで静止画のように見えた。

 視界を覆い尽くすほどの桜吹雪。

 白昼夢をみているかのような薄桃色の桜の花びらが舞っている。

 宗像悠貴の術を見たのははじめてだった。

 だが、一体何が起こったのかがわからない。


「桜の舞、二六夜!」


 甲高い音が一気に耳から入り込んで、俺がその痛みに耳を手でおおう。

 鼓膜が激しく振動し、頭の中で鈴の音が聴こえ始めた。

 まるで除災の鈴のようで、痛みはやわらぎ、心地良さしか残らない。

 

「では、新くん、始めよう。 闇淤加美神がくださった貴重な時間だ。 私の持っている何かを君の物にしてほしい」


 悠貴が左腕で弓を握っている。

 そうか、そういうことだったのか。

 俺に稽古をつけるためだけに闇淤加美神が彼女を補ってくれたのだ。

 俺はもうどこにも姿のない闇淤加美神に深く頭を下げた。

 そして、自分の胸のあたりを拳で一度だけ打った。

 俺の中には俺の知らない俺がいた。

 でも、言葉は俺の言いたいことでもあったから今は何も考えないことにした。





 




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