第16話 お前の業だと言われたとて

「新、ちょっとお買い物に付き合え」


 カフェの開店は11時30分と遅め。

 今日出す分のケーキ、スコーン、カレーの支度は済んでいる。

 店内にはのんびりとした空気が流れ、それぞれがしたいように過ごしている朝の時間に公介が俺を呼んだ。

 どこへという質問に、公介はお気に入りのパンを買いに行くとだけ答えた。

 隻腕ゆえに、荷物持ちが必要なのだそうだ。

 京都に来てみてわかったことがあった。

 京都にはパン屋が兎に角多い。

 その中でも、今出川通りにちょこんとあるフランスの街角のパン屋さんみたいな素敵な外観のパン屋さんが公介のお気に入りだ。

 店名は確か、Le Petit Mecというはずだ。

 店全体の赤い外観から、地元の人達に『赤メック』と呼ばれている。

 フランスで修行されたオーナーさんが作るパンを初めて食べた時は本当に上手すぎてかたまってしまった。

 営業日は金・土・日・祝日のみ故に、公介は営業日にはいそいそとお出かけするというわけだ。

 店内はフランス映画のポスターが飾られ、壁には世界中のお客さんからのメッセージが書かれている。

 次いで目を引くのが、赤いギンガムチェックのテーブルクロスのかわいらしいイートインスペースだ。コーヒーやフランスビールと一緒に、絶品のパンをその場で食べてしまえる。

 出遅れたかと舌打ちした公介の視線を追うと、すでに朝早くからたくさんの人で賑わっていた。

 公介が指さしていくパンをささっとゲットしていくと、公介は満足そうに笑んでいた。

 貴一さんのお気に入りはくるみ入りのパンにラムレーズン入りの練乳バタークリームが挟まっているラムレーズン入りミルクフランス。

 静音ちゃんはレーズンとクルミのパンにドカンとクリームチーズをが入っているクリームチーズ入りクルミとレーズンのパン。

 美蘭はフランスパン生地でミルククリームをサンドした定番のミルクフランス。

 もう4度目の赤メックともなればこの三つは言われなくてもゲットしておいた。

 泰介さんの今日のご希望はベーコンをフライドオニオン入りの生地まいて焼いたリヨネーズらしい。

 真規はクロワッサン、俺は自分用にレモンピールとホワイトチョコに手を出した。

 公介はバケットを2本、林檎のタルトフィヌを2つと指差した。

 1日で食べきれる分しか買わないのが方針らしく、ささっと会計を済ませて、俺に袋を持たせた。

 店に長居をする様子はなく、テイクアウトのアイス珈琲を片手に公介は先にでていった。

 毎度思うのだが、何回この店に来たら食べたいなと思うパンを制覇できるのだろうなんて考えてしまう。

 新と公介が呼ぶまで、俺は綺麗だよなぁとタルトやパイ、まだまだ食べたことのないハード系のパンに目を奪われていた。

「気に入ってるのか?」

「うん、赤メックは好き。 ほら、海外に長く居たから、意外とパンにはうるさくなった方だと思うんだ。 正直、フランスで食べたパンより好きかもしれないと思うよ。 でも、俺はどうにも単純だから、グルメコメントはできないけど」 

 そうかと公介は笑った。

 こうして、ゆっくりと京都の落ち着いた街並みを歩くのも好き。

 京都の夏は過酷だぞと公介にキャップをかぶらされたが、今日は曇天だ。雨が降る前のなのか風もあり、8月のうだるような暑さは随分とましに思える。

 公介がシロップ多めとオーダーしてくれたアイス珈琲に口をつけながら、急に言葉を発しなくなった横顔をみあげると、眉間に深くしわが寄せられていた。

 前方をきつくにらんだまま、公介が動かない。


「暢気にパン屋めぐりとはなかなか素敵な暮らしじゃない? スケジュールに穴をあけて、何をしてるかと思えば……。 ねぇ、新?」


 公介の視線を追うように前方を見るとそこには見知った顔が立っている。

 耳の下あたりで綺麗に切りそろえられた黒髪、すらりと長い手足。嫌みなほど真面目を気取ったような黒ぶちの眼鏡の三十路男。


「新、お前さんの業は思うよりも深いのよねぇ。 月狩りが始まった。 もうとめられないよ」 


 話口調は柔らかいが、ほんの少しだけ神経質に響く特徴的な声をしている。

 目の前に居るのは間違いなく、守銭奴こと、桐島陸郎だ。

 静のマネージャーであり、俺と真規のマネージャーでもある男だ。

 これまでの人生において家族同然に過ごしてきた時間は意味をなさず、静の周囲にいる人間は必然的に敵側になると認識しておくべきだということは宗像にたどり着いて学んだことだ。

 夏の暑さにはさほど汗をかかなかったのに、どうしてか今頃、変な汗が首筋を滑り落ちて行く。

 陸郎の放つ気配が怖い。

 良い感性だとすぐ横で公介が俺にだけ聞こえる程度の声でつぶやいた。

 次いで、手を出すなよと公介は言った。

 ダンと足を鳴らしてアスファルトを踏みしめ、公介が口早に何かを唱えた。

 すると、陸郎の足元に何か異形の物が現れる。

 陸郎が術で隠していたものを公介が一瞬で暴いていた。


「すんげーものを隠してるじゃないか」


 尾が長く羽根が大きい鷹のような鳥は大きな嘴を持っている。

 黒い羽根がばさりと広がり、威嚇されているのはわかった。


「公介さん、あれは蠱雕だ。 あれの爪、嘴にちょっとでも触れたら終わりだ」


 公介はちらりと俺を見て、へえとぼやいた。


「そんな物騒なものでどうしたい?」


 昼日中の街中でやりあうつもりかと公介が片方だけ口角を持ち上げている。

 陸郎は蠱雕の首あたりを手で撫でながら、にっこりと笑んだ。


「一つ忠告しておく。 こちらはもう巻き込む、巻き込まないを気にして行動するようなフェーズにない。 でも、まあ、私はどちらかというと無関係な輩を傷つけるのは好まない。 さて、どうしたものかなぁ。 でも、ここで君たち、特に、宗像公介さん、あなたを見逃すのは賢い判断とは言えない。 そこにいるうちの新ちゃんにあなたは余計な魔法をかけてしまうからね」


 俺の知っている陸郎ではない。これが本性なのだろうが、これまでの彼と築いてきた人間関係が紛い物だったと認識させられ、胃がわしづかみされたようで心地悪い。  


「俺狙いかよ、ろくでもないな」


 公介はくすりと笑い、俺にアイス珈琲のカップを渡してきた。

 秒で片づけるとニヤリと笑んで、視界から消えた。

 次に視界に公介が現れたと思った瞬間、陸郎の身体が宙を舞った。

 ひどく鈍い音が響き渡り、アスファルトにたたきつけられた陸郎は間抜けにも唖然として口を開けたまま、曇天を見上げている。

 公介があまりにも素早く動いたことで、蠱雕は大きな図体をもっているが故に反応できていなかった。

 

「こんな子供だましはせいぜい1回しか使えないからな。 さて、逃げるぞ」


 また、すぐそばで公介の声がして、襟首をつかまれた。いつの間にと俺が見上げる間もなく、視界が暗転した。黄泉使いの皆様はよくこれをする。空間をばっさりと切り裂き、黄泉の空間と繋いで、空間移動するそうだ。

 まぶしいと目をあけると、いつもの看板の前に立っていた。

 カフェの名前は『intemporel』、 フランス語で『この世のならぬ、非物質的な』という意味があるらしい。何とも言いえて妙だ。


「本日のアントンポレルは休みだ。 店ごと隠すぞ」

 

 公介が足早に扉を開いて、中へと姿を消した。

 時間をどれほど稼げたのかはわからないがここへ来るぞと公介が店内にいたメンバーに声をかけた。公介の後に続いて、店内へ入ったは良いが、どうすべきかわからず、目を白黒させてしまっていたらしい俺の頭に公介がそっと手をおいた。


「大丈夫だ。 これから、魔法をみせてやる」


 泰介と声をかけると、奥から姿を現した泰介がはいはいと言って、扉の前まで足を進めると、急にその場で正座をした。そして、ゆったりとした口調で耳にしたことのない祝詞を唱え始めた。


 高天原に坐し坐して 天と地に御働きを現し給う

 龍王は大宇宙根元の御祖の御使いにして

 一切を産み一切を育て 萬物を御支配あらせ給う 王神なれば

 一二三四五六七八九十の十種の御寶を己がすがたと變じ給いて

 自在自由に天界地界人界を治め給う

 龍王神なるを尊み敬いて

 眞の六根一筋に御仕え申すことの由を受引き給いて

 愚なる心の數々を戒め給いて

 一切衆生の罪穢の衣を脱ぎ去らしめ給いて

 萬物の病災をも立所に祓い清め給い

 萬世界も御祖のもとに治めせしめ給へと祈願奉る

 ことの由をきこしめして 六根の内に念じ申す

 大願を成就なさしめ給へと恐み恐み白す


「紅の王に連なりし御使いの声をお聞届けください。 急ぎ、吾らが住処をお隠し願います」 


 舞台装置でもあるのかというように足元にスモークのような霧が満ちて来て、あっという間に店内を覆い尽くした。

 バチバチと何かがはじけるような音がして、閃光が走った。

 キラキラ光がはじいた。それも赤色の光は背にある鱗がはじいている。

 赤い龍がするりとすぐそばを通り過ぎて行った。

 わずかに頬にふれた感触は爬虫類の生々しい皮膚のようでいて、陶器の表面のような滑りをもっていた。そして、思わず手を伸ばして触れたいほどの郷愁。

 馬鹿と言われて、公介が俺の頭を抱きかかえるようにして身を離してくれた。

「あれは炎の龍だぞ? 避けないなんて、馬鹿か!」

 俺の身体中に何もないかと心配してくれたが、一切何の痛みもない。

 頬を流れ落ちて行くあたたかいもの。

「お前、何を泣いて……」

 公介に言われるまで、俺はわかっていなかった。

 自分が泣いていることに驚き、喉がひっついてしまったような感覚がして、うまく声が出ない。

 行かないでよとまだ手を伸ばしたい。でも、もうそこには何もいない。

 泰介はまだあの綺麗な言葉が紡がれている祝詞を繰り返している。

 その言葉の羅列が耳から入ってくる。

「龍神祝詞だ」

 俺は知っている。

 この言葉が誰に向けて奉られている言葉達であるのか。

 公介は少しだけ驚いた顔をしてから、いつもの柔和な表情をして、そうだなとうなずいてくれた。

 どれくらいの時間、俺はぼんやりとしてこの龍神祝詞を耳にしていたのだろう。

 泰介の背後に座ったまま、自然に手をあわせていた。

 店内に珈琲の香りがして、俺はようやく正気に戻った。 

 カウンター前の丸椅子には真規と美蘭がいて、心配そうにこちらを見ていた。

 泰介が幾度目かの龍神祝詞を奉じ終わり、ゆっくりと振り返った。

 言葉はないが、俺の頭にそっと手を置いて微笑んでくれた。

「君はちゃんと神々との絆を持っている。 素敵なことだね」

 祝詞をあげている僕よりもただ手を合わせてくれていた君に微笑まれた気がするよと泰介はつぶやいて、カウンター席へと向かって行った。


「新、あの男はお前の知り合いだろう? あれだけの殺気を放っていたくせに、まんまと俺達を逃がしただろう? しかも、昼日中であれ、街中であれ、見境なく攻めてくるという方針と一番初めの狙いが『俺』だと告知までして。 お前の保護者からのメッセージだと思うぞ?」


 公介がこっちに来いと手招きをして、赤メックで買ってきたパンを皿にのせてくれた。皿の横にはイチゴミルクまである。いつのまに作ったのかと俺が公介をみると、彼はウィンクしてくれる。


「あの男に本気で向かってこられたら、赤メックが台無しだったな」


 陸郎は桁違いに強いぞと公介が付け加えた。

 敵にしたくないが、敵は敵のままだろうがなと、公介が笑った。


「彼はお前を護るための先ぶれだ。 本隊が来る前に告知するために現れて、まんまと時間稼ぎをしてくれたのだろうよ。 お前の静ちゃんの差し金だろう。 だから、それを無駄にしちゃいけない。 それを食ったら、ちょっとやりたいことがある。 付き合え」


 食え、食えといつものように公介に急かされて、林檎のタルトフィヌを口にした。

 俺の分じゃないと気が付いて、公介を見上げたら、うまいだろうとにっこりとほほ笑まれた。

「うちの娘っこもそれが好きなのよ。 お前に1回食わしてみたかったんだ」

 公介はいひひと笑って、珈琲カップに口をつけた。

「どこへ行くの?」

 俺が問うと、公介は弓がうまい奴に逢うと答えた。

「貴一との約束ではもっと先の予定だったんだが、アレと出くわすってことはもう猶予はない。 たぶん、今頃、逢うべき人間は貴船にいるはずだ。 弓引きと言えばうちの娘と思っている奴も多いだろうが、宗像一の名手はうちの娘じゃない。 弓ってのはセンスのかたまりみたいなもんでな。 うまい奴にワンタッチしてもらうだけで格段にうまくなるもんなんだ」

「俺が弓? 弓なんて冗談程度にしか引いてないのに?」

「冗談程度? 俺は魔法使いだぞ~。 まぁ、行ってみればわかる」

 そう言うと公介は店の奥へと消えて行った。

 それを黙って見送っていた泰介が隣の席から頬杖をついてこちらをみた。

「ねぇ、新。 君は宗像きっての大師が付き切りで半年程度の稽古をつけた後と同義だよ? 君につき切りだった公介は最前線向きの能力ホルダーの錬成に優れてる。 毎日、同じに見えた訓練も、公介ならその出力や発動条件を君に悟られずに微調整するなんてことは朝飯前だ。 気づかぬ内に色々と仕込まれているはずだよ? 体術もあっさり体得してたりするんじゃないの?」

 体術と泰介は言うが、俺はただ投げ飛ばされていただけだ。

 色々な投げ飛ばされ方をしたのは事実だけれど、誰かと交戦できるようなそれはしたことがない。体術というよりは受け身がとれるようになった程度で、未だに特に何も訓練していない。

「今も合気道みたいな感じで、ひょいと投げ飛ばされているだけですよ?」

「投げ飛ばされてるの? それは良かったねぇ」

 泰介が目を細めて喉を鳴らして笑った。

 何が良いのだろうと小首を傾げていると、泰介がニヤリと笑んだ。

「何ら意識しないままで、ほぼ毎日、公介に投げ飛ばされたのだろう? 投げ飛ばしてもらうにも近づかなくちゃいけない。 それはとっても面白いお遊びになっていると思うよ?」

「10秒しかもたないのに?」

 10秒と泰介が驚きの声をあげた。

「これはこれは……。 なかなかにやらかしたな、公介」

 泰介がばしばしと俺の背をたたいた。

 公介がやらかしたと言われても理解に困る。

「公介はのせるのが上手いからなぁ。 ちなみに言うと、宗像一の体術使いは一心なんだけどね。 その一心すら公介を相手にしては手を焼く。 志貴や僕、あの貴一ですら、その優劣を悟っているから、公介と向かい合えば、絶対に間合いを詰めさせないように立ち回る。 間合いを詰められれば数秒ともつとなく決着してしまう。 君はそういう人に毎日向き合って、その間合いに10秒もいるんだよ」

「10秒しかじゃなくて?」

 泰介は10秒もだよとにっこり笑った。

「公介が片腕しかないことを忘れてしまうだろう?」

 泰介が言うように公介は隻腕だ。

 だけれど、隻腕であることがビハインドになっているイメージなどわかない。

 目の前で陸郎を投げ飛ばした時も、一体何が起きたのかわからないほどに鮮やかだった。

 日々の稽古でも、動作の音が耳に届くより早く、どこからともなく腕が伸びてきて、投げ飛ばされてしまう。自分の身体が宙を舞ってはじめて投げられたと悟る。これの繰り返しだ。

 少しでも対応したいからと公介の視線、肩から腕、指先の動きはもちろんだけれど、特に足の動きを目で追う癖がついたのは間違いない。

「うちを敵にする奴らからしたら、公介はやっばい先生だからね。 だって、ほら、怖いのをあっさり育てちゃうから」

 泰介が俺を指さして、意地の悪い笑みを浮かべている。

 陸郎も公介が一番初めの狩の対象だと口にしていたことを思い出した。

「護り方を教える方が闘い方を教えるよりずっと難しいんだ。 本当に強い奴は護り方を知ってるからね。 さて、新は何ができるようになったのか?」

「俺が何をできるようになったのか?」 

 公介と向かい合い、ひたすらに投げとばされていた日々の中で、相手との間合いを期せずして図らされていたとしたら、俺は本当に何ができるようになったのだろう。

 泰介はくすりと笑ってから、今度は真規へと目をやった。

「真規と組ませるのが楽しみだ」

 術を駆使した長物を扱うのは泰介が群を抜いていると公介が話していたことを思い出した。真規はこの泰介について稽古している。生傷が耐えず、いつも美蘭が手当てしているのが日課のようになっていた。

「力押しするのは真規じゃないと困るしねぇ。 脆い身体は不要だから、真規はよくやってるよ」 

 がたいが良いのは公介のように思えるが、この泰介は細く見えるようで実は違っている。普段は着物を緩く羽織っていることが多いからわかりにくいが、カフェの店員の格好をすると一目瞭然、この男は武闘派だとわかる。その泰介に負けず劣らずの体格となってきている真規は苦笑いしている。

 俺といえば相変わらず筋肉がつきにくい体質なのか、肉体的な変化は乏しいままだ。でも、公介がそれで良いんだと言っていたから追及してこなかったが、今更ながらにそれで良いのかと不安になってきた。


『お前さんは接近戦には向いていないが、扱うべきものは最前線向きだ』


 扱うべきものは最前線向き。

 意味深な公介の言葉が頭の奥で響く。

 そして、今日、突然、弓だと言う。

 確かに、気分転換だと1日に1回は和弓を引かせてくれた。

 当然、弦をひくことなど素人ができるわけもなく、俺が左手で弓手をおして、公介と一緒に右で弦をひいて、矢を射るだけのことだ。

 でも、的を射抜く音と矢を放つ時の音が心地良くて好きだった。


『音が好きか? 弓のこの音はな、弦音っていうんだ。 良い響きだろう? 正しく構えて、正しく引くと聴けるぞ』


 弓手を押しながら、弦を引く。

 肩は力を入れずに、息を吐きながら、まっすぐに引く。

 矢を持っている方の指先は少しだけ弾くように放す。

 神が邪をはらう音が弦音だと公介は笑っていた。

 

『通常、弦と矢を扱うには鍛錬の時間が必要だが、弦と矢がお前さんの特注だったとしたら明日にでも引けるのにな』


 実に惜しいとか何とか言って、道場にごろりと寝転がって、公介は俺にまたサークル訓練を続けさせた。

 サークル訓練は時々飛ばされることはあったが、合気道でぽいっと投げ飛ばされることと、弓を1回引くことはそういえば毎日していた。


「俺、毎日、1回は必ず弓を引いていたのか……」


 へぇと泰介が興味深そうに笑った。

 このことに意味があるのなら、公介ははじめからレールを引いていてくれたことになる。


「あるがままに進むしかないか……」


 俺は冷たいイチゴミルクを一気に喉の奥へ流し込んだ。

 貴一の言葉が不意に蘇った。


『新、意味がないことは何一つ起きないんだ。 痛いこと、苦しいこと、うれしいこと、全部に意味がある。 だから、目の前に来たことと向き合うだけで良い。 思考するな。 そんな時間は無駄なだけだ』

 

 考えたとて、その時間が現実を動かしてくれるとは限らない。

 だったら、同じ時間を過ごすならば、与えられた事象と向き合うだけだ。

 陸郎が現れたことにも意味がある。

 悲劇の主人公になり、逃げ込むのは簡単だ。

 俺は大丈夫。そうはならない。


「俺にはまだやれることがあるんだ」













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