2. Black Grimoire

 文化と芸能の街ウエストエンドと、世界金融の中心地シティ・オブ・ロンドン。その境界部に、フリート・ストリートと呼ばれる大通りがある。周辺は古くから印刷出版業が盛んで、業界と密接に関わる新聞社の本社が軒を連ねる地域となっている。フリート・ストリートという名は、ロンドンにある新聞社の換喩として使われているほどだ。


 その中に、アーロンが働くザ・タラリアはある。イギリスに多数ある新聞社のひとつで、いわゆるゴシップ的側面が強いタブロイド紙だ。会社の規模は大手に劣る位置に甘んじているが、新聞だけでなくさまざまな特色の雑誌やパンフレットなどの出版も手がける、フリート・ストリートにある新聞社の中でも新進気鋭な色が強い企業である。


 壁面や支柱が石灰岩で造られている白い建物は四階建てで、一般的な西洋風建築のこの建物の中に本社が入っている。建物の裏手にバイクを停めて、アーロンは堂々と社屋へ足を踏み入れた。

 遅刻のうえ、臙脂のレザージャケットにジーンズというフォーマルさのかけらもない格好だからか、受付の女性スタッフから訝しげな視線を向けられる。足は止めないまま、アーロンは懐から社員証を取りだした。見せつけるように突きだしてから、エレベーターに乗りこむ。


 三階でエレベーターを降り、その一角、文化芸能部という案内札がかけられているフロアに立ち入った。

 すでに勤務時間となっている今、誰もが忙しなく動きまわり、電話もひっきりなしに鳴り響いている光景が広がっている。遅れてきたアーロンを気に留める人はおらず、怒り狂っていた編集室長もちらりとこちらを一瞥しただけで、説教に時間を割くような真似はしなかった。


 そもそもアーロンは文芸部の取材室に属し、編集室長が仕切る編集室直属の部下ではない。にもかかわらず、アーロンに最も雷を落としているのは彼だった。もっとも、取材班が記事を持ってこなければ編集班は仕事ができないため、仕事での関わりは非常に緊密で、流動的だ。毎日の新聞記事の編集の他に、刊行している雑誌の〆切が重なるときなどは、取材記者が編集の仕事を補佐することも多い。

 そのため、編集室のトップが仕事をしない取材室の部下に憤慨するのは至極当然であり、彼の苦労が偲ばれるところなのだが、アーロンはこれ幸いと、面と向かって怒鳴られないうちにフロアの隅にある自分のデスクに向かった。が、物であふれた乱雑な机をひととおり見まわして、ため息をつく。


 ストックがない。


 芸能関係のゴシップネタをいくつかストックしておき、記事を書いてさっさと編集にまわし自由な時間を確保する。仕事をしたくないときはいつもそのやり方で乗りきっていたのだが、そのストックを使い果たし、補充していなかったことを思いだす。


『おい、アーロンか!?』


 めんどくせぇ、と心の中でひとりごちていると、フィルターを通したようなくぐもった声が響いた。同時に、そうだったと小さく舌打ちする。


『さっさとここから出せ! こんな狭苦しいところに押しこみやがって! さっきから外はうるせぇしおちおち寝てもいられねぇ! オレがオマエになにをしたってんだ!』


 デスクの細い引きだしがガタガタと揺れ、中から機関銃ような喚き声が響き渡った。自身の机から視線をあげ、ちらりとフロアを見遣るアーロンだったが、同僚たちがこちらに意識を向けた様子はない。


 騒々しいフロアに便乗して、引きだしを膝で蹴りあげた。

 ガンッ、という音とともにデスクの振動と耳ざわりな喚き声が止まる。不意の異音にもかかわらず、フロアの空気が固まることはない。聞こえていたとしても、物が落ちたか、なにかがぶつかったくらいの認識なのだろう。


 商売道具であるカメラと手帳、筆記用具をウエストポーチに突っこんで、さっさと飯の種を集めに行こう、そう思った矢先、


『バカが! そんな脅しが効くか! 外に出せ、じゃないとずっと喚き散らしてやるからな!』


 わぁわぁと叫ぶ声は、その勢いを一層増した。自分にしか聞こえていないとわかっていても、さすがに我慢の限界がやってくる。


 ガッと勢いよく開けた引きだしに、間髪入れず拳を振りおろした。


 重力を伴った一撃は、一番上にあった分厚い一冊の本、その表紙にあしらわれた悪魔のような恐ろしい顔の装丁にヒットする。瞬間、今までにないほどの叫び声がアーロンの耳をつんざいた。


『痛ってぇ~……普通ぶん殴るかよ、フツウ』

「黙ってろ。もう一発欲しいのか?」


 ドスドスと廊下を行くアーロンの背後を、百科事典ほどもある大きな黒い〝本〟が宙に浮きながら小さく悪態をついていた。それに対し、アーロンはドスの聞いた声で返す。

 すれ違う人は誰も、その異様な物体に気を留める様子はなかった。もっとも、独り言を言っているようにしか見えない光景には、違和感を覚えたかもしれないが。他者にどう思われるかなど些末事だ。今はそんなことよりも、背後をフラフラとついてくる紙束がいかに静かにしているかのほうが重要だった。

 さすがに夜通しの折檻には気が滅入ったのか、黒い本はまだ普段の調子を取り戻してはいないようで、一階へ向かうエレベーター内では、求めていた静かな時間が流れる。


 エントランスから外へ出ようとするときに、ちょうどひとりの男が玄関の扉を開け入ってきた。


「悪い! って、アーロンか」


 接触しそうになり、思わず身を引く。相手もこちらに気づいたようで、軽く手をあげた。


「あ?」

「オレ、オレだよ! ネイサン!」


 顔を見るや否や眉をひそめたアーロンに、男はずっこけそうになりながら自分の名を告げた。


「あぁ、眼鏡のせいだ。気づかなかった」


 黒いジャケットとデニムのテーパードパンツに身を包み、黒ぶち眼鏡をかけている彼の名は、ネイサン・ダン。短い茶髪に青い瞳の、見るからに人が好い男だ。タラリアに勤める記者のひとりで、世の中で起こった事件や事故、社会的なイベント全般を扱う部署である社会部に所属している。


「もう一ヶ月は経ってるっての、いい加減慣れろよ」

「そんなこと言われても。お前、目悪くなったのか?」

「ファッションだって何度も言ってるじゃん! 似合うだろ?」

「いやまったく」


 エントランスにて、小気味よいテンポの会話が繰り広げられる。

 かたや文芸部、かたや社会部。所属する部署は別ながら、こうして軽口を叩きあえる程度には仲がよかった。それもネイサンの人柄があってこそだ。自分に人並みの協調性や社交性がないことは、アーロン自身が一番よくわかっている。この程度のやりとりでも、アーロンにとっては最も気を許せる同僚と言っていい存在だった。


「今までそこらじゅう走りまわってたんだよ。一段落したから、ちょっと帰ってきたんだ。ほら、最近ウエストエンドで強姦殺人事件が起きてるだろ?」

「あぁ」


 半月ほど前から相次いで二件ほど、ロンドンでは女性が強姦、殺害されるという事件が起きていた。最初の被害者は、サザーク区にある美術館職員だった二十代の女性、名前はサラ・アーネット。二人目は、ウエストエンドの大衆酒場パブで働いていた三十代の女性だとニュースや新聞で報じていたのを記憶している。

 犯人に関する目撃証言もなく、街に点在する監視カメラも特に不審な人物は捉えていないらしい。一件目の事件で警察が手をこまねいている矢先に、二件目の事件が発生。こちらも解決には至っていない。最初の事件から二週間が経とうかというころになっても、捜査は膠着していた。捜査に進展が見られないからか、報道はどんどん熱を帯び、また突拍子もない意見や噂が飛び交いはじめる。


 女性を狙った連続殺人事件というだけで、一部のパルプマガジンは〝切り裂きジャックの再来か!?〟などと大きく喧伝し、センセーショナルな事件として瞬く間にロンドン中を駆けめぐった。


 女性が殺害されるという事件に関して敏感になっているアーロンも、この事件は意識して報道をチェックするようにしていたが、結局単なる性的異常者による犯行という域を出なかったために、興味関心が薄れてしまっていた。二件目の事件については、被害者の名前すらもおぼろげになっている。


 二件目の被害者が発見されてそろそろ一週間が経つが、社会部のネイサンはいまだに情報収集に駆けずりまわっているらしい。記者という仕事は、たしかに時間も不規則で、不摂生な生活になりがちだ。だからだろう、心なしかいつも以上にやつれているように見える。


「もう目ぼしい情報も出てきてないんだろ。警察が解決するまでテキトーな記事書いとけばいい」

「そんなこと言ってたら他にスクープを持ってかれるだろ。情報は鮮度が命! 他社より迅速に、かつ正確に。社会部は特に、いかに他を出し抜けるかが勝負なんだよ」


 言外に、さっさと休んだほうがいい、という意味を込めるアーロンだったが、ネイサンは大仰に両手を広げため息をついた。そして、ニヤリと口の端をあげ、


「それに、オレはフェミニストだからな」


 得意気に小鼻をうごめかせ、そうつづけた。自分は女性の味方だから、迅速な解決に協力しているんだとでも言いたげだ。そんな同僚を半ば鼻で笑いつつ、


「それで、犯人像なんかは目星がついてるのか?」

「いや、それが両方とも目撃証言すらあがってない。遺体に争った形跡はなく、被害者以外の指紋も検出されていない。あと、遺体から検出された精……体液から、犯人の血液型がO型だってことは判明してる」


 質問が口を衝いたあとに一瞬渋い顔をするアーロンだったが、ネイサンは気に留めた様子もなく答えた。メモに頼らずスラスラと出てくるあたり、簡単な情報はすでに頭に入っているのだろう。が、その話を聞く限り、二件目の事件を含めても、解決に繋がるような新たな情報は出てきていない様子だ。


「お前、警察みたいだな」

「茶化すなよ。苦労して集めたんだ」


 称賛の意を込めた言葉だったのだが、それを皮肉だと受け取ったのか、ネイサンは疲れた顔で微苦笑を浮かべた。同時に、話題を切り替える。


「それでお前は? また例の件、、、か?」

「いや、ネタが尽きたから補充しに行こうかと思って」

「ネルのところか!? またお前は職権乱用しやがって!」


 ネタの補充、という言葉に、柔らかかったネイサンの表情が一変した。


「羨ましいなら部署変わってくれって言ってるだろ」

「それはまぁほら、オレの一存じゃどうにもならないし」


 この男は文芸部に向いていないと思いながらも、社会部への転属を夢見ているアーロンは幾度となくネイサンに部署の転換を頼みこんでいた。もっとも、彼からの返事は毎回同じものだった。口ではこちらに文句を言いながら、社会部での仕事は彼なりにやりがいがあるらしい。そのため、転属願いのやりとりは半ば意味のないお約束となっていた。

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