Devil's Inside

筍道

1. EVIL EYE

1. Aaron Arrowbolt

 開け放たれた窓から爽やかな風が吹き抜ける。珍しく雲ひとつない青空が広がり、太陽の光がキラキラと部屋を照らす。


 ぼんやりとした視界に飛びこんできたのは、美しい世界だった。目に映るのは、なんの変哲もない、どこにでもあるような部屋の内装。それでも、男にとって、その光景は特別そのものだった。


 髪を撫でる風の流れも、太陽が照らす暖かな陽気も、身体を包む革張りのソファの感触も、左肩に感じるかすかな重さも、鼻をくすぐる石鹸の柔らかな匂いも、身近にあるそれらすべてが、幸せの塊だった。


 男の隣では、ひとりの女性が彼の肩に頭を預け寝息を立てていた。艶のあるブロンドのショートヘアが、吹き抜ける風に小さく揺れる。その穏やかな寝顔に、男の顔もほころんでしまう。彼女の静かな呼吸を中断させてしまうのは忍びなく、男はそのまま動かずに座っていることにした。


 寝室に繋がる扉のそばにある白いキャビネットの上には、可愛らしい観葉植物の鉢と、笑顔で肩を寄せ合う男女の写真が置かれている。写真立てのかたわらに置いてある一眼レフのフィルムカメラは、彼女がプレゼントしてくれたものだ。壁には、色使いの鮮やかな抽象画が、がくに入れられ飾られている。


 いつもならうっとうしく聞こえる街の喧騒も、今はどこか遠くから響く子守唄のように思えてくる。一度目を覚ましたにもかかわらず、暖かな陽気はすぐに眠気を誘った。ふたたびゆっくりと目を閉じる。


 瞼の裏に、キラキラと光る部屋が焼きついている。


 この小さな部屋が、世界で一番美しい場所に思えた。いや、彼女のいるところが、世界で一番美しい場所なのだと思っていた。彼女は男にとって、世界を美しいものに変える魔法の使い手だった。



 ―

 ――

 ―――



「あら! 今日はいい天気じゃないか。気持ちのいい朝だ」


 一九八三年五月、イギリス、ロンドン。

 霧の都として有名なこの都市は、本日快晴。珍しく雲ひとつない晴天を見あげ、ひとりの老婆が伸びをした。


 太陽が顔を出しはじめると同時に、街行く人の数もだんだんと増えていく。世界でも有数の大都会は、今日も騒がしい一日を迎える。


 かんかんと街を照らす太陽が、すっかり空に昇りきったころ。


 とある古いフラットアパートに、いまだカーテンが閉めきられている一室があった。その中は薄暗さと静寂に包まれ、街を行き交う人々の喧騒が響く外界とは対極の空気が、壁や窓を隔てて広がっている。


 リビングの床には服やジーンズが乱雑に脱ぎ捨てられ、口の空いたウイスキーの瓶まで転がっていた。自炊の空気など毛ほども漂っていないキッチンにはゴミ袋の山ができており、テーブルには空の酒瓶がずらりと並んで放置されている。

 寝室の扉の近くにある黄ばんだキャビネットの上には、ホコリを被った観葉植物と、うつ伏せに倒されている写真立て、ダイヤル式の黒電話。

 寝室のベッドには、こんもりとした掛け布団の小山があり、その中からは時折いびきのような音が響いていた。


 ジリリリリンッ!


 しんと静まり返った空気を切り裂くように、突如けたたましいコール音が鳴り響いた。ダイヤル式の黒電話が、その身を震わせながら着信を告げる。が、動いているのは電話だけで、部屋の空気は固まったように動かない。その状況が数分続いた。


「だぁぁぁぁうっせぇぇぇ!」


 やがて、根負けした部屋の主が、叫びながら勢いよく起きあがった。顔まですっぽりと被っていた掛け布団が宙を舞う。

 パンツ姿の男が眉間に深々とシワを刻み、床にばらまかれている服を踏み荒らしながら一直線に電話へと向かった。途中、酒瓶を蹴り飛ばしてしまったが一切気に留めず、そのまま勢いよく受話器を持ちあげる。


「もしもし!」

『アローボルト! 貴様、今何時だと思ってるんだ!』


 開口一番、威嚇するような声量で電話に出る男だったが、それ以上の怒号が受話器の向こう側から響いてきた。思わず、耳に当てていた受話器を浮かせてしまう。


『もう十時をとっくに過ぎている! お前だけだ! こんな時間になっても家すら出ていないのは! いつもいつも輪を乱しやがって! 次に問題を起こしたら、部長が許してもワシが許さんからな!』


 ガチャンッ!


 耳から受話器を離してもなお聞こえていた怒鳴り声が終わるとともに、力任せに受話器を置く音が響き、通話は終了した。

 アローボルトと呼ばれた男は、しばらく呆然と受話器を手にしていたが、ふと我に返って舌を打つ。


「あのハゲオヤジ、事あるごとに俺を目のかたきにしやがって。一時間の寝坊くらい大目に見ろってんだ」


 電話がなければ一時間どころでは済まなかっただろうことは棚にあげ、一方的に捲し立てられて切られた電話の受話器を見つめながら、汚部屋の主、アーロン・アローボルトは苦々しげに悪態をついた。同時に、胃液がせりあがるような猛烈な吐き気を覚える。


「ぶっ……おえぇぇぇっ!」


 近くにあったゴミ箱を慌てて拾いあげ、豪快に嘔吐した。幸か不幸か、酸っぱい臭いのする透明な液体が口からあふれただけで済む。


 そういえば、昨日しこたま酒を飲み、帰宅するや否やベッドへ倒れこんだことを今になって思いだす。二日酔いという言葉が思い浮かぶと、頭痛やふらつきといった症状まで現れはじめた。

 気持ちの悪い口の中をリセットするため、まず洗面所へと向かう。大きな鏡を前にして、アーロンは自嘲的な笑みを浮かべた。


(ひでぇ顔)


 手入れされていない口周りは無精ヒゲに覆われ、無造作に伸びた栗毛混じりの暗いブロンドヘアは整髪料を撫でつけたかのように脂ぎっている。綺麗と褒められたこともある琥珀色の瞳アンバーアイも、今や見る影もないほどくすんでいた。首からは、肌身離さず身に着けている黒曜石のペンダントがぶらさがっている。

 そして、左の上腕。魔法陣を模したような紋様のタトゥーが刻まれていた。


 みっともない自分の姿を見つめつづける趣味はない。とりあえず口をすすぎ顔を洗い、髪はとりあえず掻きあげて少しでもマシな見てくれに整えた。面倒なヒゲ剃りはまた今度、と自分に言い訳し、さっさと洗面所をあとにする。


 上司から雷を落とされた直後にもかかわらず、アーロンは平然とタバコへ手を伸ばした。パンツ姿のまま一服しながら、触るのも嫌になった電話の受話器を持ちあげる。近くのタクシー会社に一報を入れ、家のそばまで迎えに来るように頼み、受話器を置いた。


 呑気に紫煙をくゆらせたあと、床に散らばっている衣類の中から適当なシャツとジーンズを拾いあげ、ものの数秒で着替えを済ませる。コートスタンドにかけられている色あせた臙脂のレザージャケットを引ったくって、土に汚れたタクティカルブーツを履き、そのまま荒れた自室を一瞥もせずに外へ出た。


 アパートの外では、ひとりの老婆が掃き掃除をしていた。


「おや、どこかへお出かけかい」

「仕事」


 掃除の手を止め話しかけてきた老婆に、アーロンは足すら止めずに素っ気なく返した。それを聞いた老婆の穏やかな顔が、一転険しいものになる。


「あんたまた遅刻かい! いい加減にしないと、クビにされちゃうよ! ただでさえ仕事にありつけない人も多いっていうのに!」


 箒で地面を叩きながら、捲し立てるように老婆は声を荒げた。頭に巻かれたヘアカーラーがぶんぶん揺れる。


「はいはい、忠告どうも」


 朝から怒鳴られてばっかりだ。二日酔いの頭に響く。

 眉間に深いシワを刻んだまま、アーロンはアパートの外に停めているバイクのカバーを剥ぎ取った。


 タワーハムレッツ・ロンドン自治区。

 イーストエンドと呼ばれる下町を擁するこの地区は、すっかり喧騒にあふれ、多くの人が行き交っていた。

 かつては水運の要所として栄え、船の建造、修理、荷役作業が行われるドックが立ち並び、ロンドンの玄関口といっても過言ではないほどの栄華を誇っていた町だ。


 第二次世界大戦で壊滅的な打撃を受け、戦後一部復興したものの、空輸の発達や海運のコンテナ化により、輸送には外洋に面した港が主要化され、ドックランズの埠頭は次々に廃業、閉鎖されている。

 また、最近まで英国病と評される社会現象が煮詰まっていたイギリスは、経済の停滞とオイルショックによるインフレを打破するために、これまでの手厚い社会保障政策を維持しながらも、多くの国有企業を民営化、企業に競争意識と力を取り戻させることで経済の立てなおしを図ろうとしていた。が、企業が労働者の処遇を簡単に決められるようになったことから、失業者の増加に繋がったことも事実で、治安は悪化の一途をたどっている。


 もともとイーストエンドは移民労働者や貧民が多い土地柄ということもあり、その影響は色濃く、どこか鬱屈したホコリっぽい雰囲気が漂っていた。昨今の不安定な社会情勢のせいか、道端に座りこみ、濁った目で物乞いをしている人の数も増えた。

 中心部であるシティ・オブ・ロンドンや、商業や文化、娯楽の発信地であるウエストエンドならともかく、イーストエンドでは特に珍しくもない光景だ。ブルーカラーや貧民であふれ、その日暮らしすらままならない人間も多くいる。


 人通りや車通りがシティやウエストエンドと比べて特別多いわけではないはずだが、どうしてこうホコリや排気ガスが充満したような空気が蔓延しているのかと、アーロンは常々不思議に思っていた。住んでいる人間の閉塞感や絶望感といったネガティブな感情がない交ぜにされて煮詰められ、それが空気の汚れを増長させているという妄想も、あながち間違っていないのではないかと思ってしまう。


 フルフェイスのヘルメットを被ると息苦しさがさらに増した。なんとなく、体内にまだアルコールが残っているような気さえしてくる。吐き気を抑えるように唇を真一文字に結んで、アーロンはバイクのエンジンをかけた。


 「コラッ、話はまだ終わってないよ!」


 アパートの大家からも、タワーハムレッツの濁った空気からも逃げるように、アーロンはバイクを駆った。

 途中、信号に引っかかって、仕方なく停車する。地面につけた片足が小刻みに揺れはじめた。赤信号を睨みつけていた視線を、ふっと遠くに流す。濁った街の光景が、濁った目に映っていた。

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