第16話 おわり

 冬の朝は冷え込む。ベッドの中で朝の訪れを感じつつ、誠二は残った眠気を欠伸とともにかみ殺した。ぬくもりの残った毛布に後ろ髪を引かれながらも、冷たい床に足を下ろす。指すような冷たさに、どうにかベッド付近に脱いだと思われるスリッパを探し当てた。


 時刻は六時二十八分。目覚ましが鳴るよりは少し早い時間だが、二度寝できる時間でもないし、ここは潔く起きてしまうのが一番いい選択だろう。


「今日は、同窓射会か」


 そう。学校の弓道場にOBOGを招いて行われる年中行事の日である。矢のように戻ってきた日常に、三日前のハザマでの出来事はまるで幻だったかのように感じるが、あの出来事はどうしようもなく現実である。


 それを誠二は部活に行ってから思い出した。

 いつもより早い時間に弓道場を開け、今日の射会にくる参加者名簿を検め、弓道場会談横の広場に会議室から借りてきた机を一台と椅子を二脚配置する。風で飛ばないように名簿の上に重りをのせて、鉛筆を転がしておく。適当に置くと絶妙な傾きに逆らうことなく転がっていくので、重りの隣にそっと添えるのがポイントである。


 お弁当の数は他の一年生が数えているし、弓道場内の準備は主に二年生の担当だから一年生が入る隙間はない。予定時間までは三十分ほどあるものの早い人ならもうすぐ到着するかもしれないし、そろそろ校門までお出迎えに行った方がいいかもしれない。参加者は元々ここの生徒だったとはいえ、勝手に門をくぐるのに抵抗がある人の方が多いだろう。


 そんなことを思っていると、近くで作業していた先輩に声をかけられ、校門に向かうようにと指示を受けた。部活棟から校舎を半周弱すると校門である。そこを通るのは大半が部活にきた生徒で、制服、体操服とその服装は様々だが、学校関係者でない人間の姿は見当たらない。日常を告げる風景に、冬の寒さを感じて誠二は弓道着の上に羽織ったブレザーの袖を引っ張った。澄んだ空気に、はき出した白い息が混ざる。


「よ!」

「おはようございます。本日は……え、薫さん?」

「そうだよ、おはよう」

「どうしてここに」


 同窓射会の参加者は部員が着ている弓道着を目印に声をかけてくるはずだから、今日の参加者かと思ったのだが、振り返ったそこに居たのは思いも寄らない人物だった。


「どうしてって、俺も同窓射会に参加することになっているからね!」

「え!」


 茶目っ気たっぷりにウインクする薫にびっくりして、手元の名簿をがさがさと確認する。上から順番にするすると視線を落としていくと、そこに確かに彼の名前があった。


 藤間薫、この人もまさにこの学校の弓道部の一員だったのだ。まじまじとその名前を見ていると、頭上から含むような笑いが振ってくる。まだ信じられない気持ちで顔を上げると、彼は実に楽しそうな顔をしていた。その声に影はなく、数日前の襲撃の余韻は見当たらない。この人なら、そんな表情簡単に隠してしまうのかもしれないが、数日かかると行っていた結界の修復が終わったからこそ、ここに来ているのだと、誠二は予測した。


「参加するって事は、あっちは大丈夫なんですか?」


 薫が笑みを深める。


「大丈夫だよ。全部終わった」

「よかったです……、って、何するんですか」

「ん? いや、素直なのはいいことだなと思ってね?」


 するすると撫でられる手の感触を味わいながら、マイペースな人だなと感想を浮かべた。


「いやー真一はそのあたり捻くれているし、綾香は子供扱いすると機嫌が悪くなるし、難しくてね?」

「なるほど、あなたが満足ならそれでいいですけど」


 人目もあるので当たり障りのない会話をしながら、薫を弓道場に案内する。時間が経てば人も増え、普段にない賑やかさであふれる。薫も少しすれば昔の友人を見つけたようで、誠二から離れ、顔をほころばせてそちらに向かってしまった。誠二もまた最後の準備に奔走する。


 時間を迎え射会が始まると、狭い道場に大人学生入り乱れてこれまた普段にない窮屈さを感じつつも面白い体験をすることになった。

 学生と大人まぜこぜのチームを作って、チーム対抗戦をしたり、いつもの丸い的ではなく板を使った「板割り」枚数で景品を争ったり、金色の小さな的や扇形の的を使った少々難易度の高い催しを行ったり。当たった人はその的が貰えて、ちょっとしたお土産にもなる。


 薫さんは大人げなく中てまくっていて笑った。あの人は遊びにも全力だ。

 ぽかんと眺めていた誠二に「藤間薫って個人戦一位取ったことあるんだって、全国の」と教えてくれたのは須賀先輩だった。少し昔ならすごい人も居るもんだなあと思ったことだろうけれど、あの戦いを経た後では、動かない的を狙うのはむしろ簡単なんだろうなと感心してしまった。


 チーム対抗戦はそこまでいい成績を残せなかったが、扇的では見事その真ん中を射貫き、自分としても満足な結果で終わった。


「誠二、ちょっといいか?」


 終礼も終わって参加者も帰り始めた頃、そう言って手招いてきた薫に、誠二は首を傾げながらも着いていく。部員は皆、まだ今日の感想を言い合ったり、知り合いの先輩を見つけて話をしたりと忙しいので、誠二と薫がその場を離れても見とがめる者は居ない。


「どうしても合わせる時間を取りたくてね、あちら側に待機してもらっているんだ」

「もしかして」


 道場から階段を降りて更衣室の方に曲がると、その場の空気が変わるのがわかった。境界を越えたのだ。


「遅かったわね。少し待ちくたびれたんだけど」

「悪いね、アヤ。でも『部員に会うのが気まずい』って言って、こちら側を希望したのは誰だったかな?」

「私ですね、わかってますよ」


 いかにもばつが悪いという表情の綾香先輩。元々出席率のよくなかった部活だが、魔物討伐の準備期間と結界修復の期間があって、一ヶ月弱部活に顔を出していない。家の用事と他の部員も承知しているため、特に咎める部員は居ないのだが、その辺は先輩の心の問題で、部活にしばらく参加していなかった人間が、イベントごとだけには顔を出すというのはどうなのかと気が引けるらしい。誠二をハザマ側に招くために現世とハザマに一人ずつ人が必要だったこともあって、彼女は自分からハザマ側を買って出たと言うわけだった。


「ほら、そんなことより今日はどうしても会わせたかったんだろ? それを俺とアヤの会話で出鼻をくじいてはいけないでしょ。真一も『何話したらいいかわからない』とか奥手ぶってないで、誠二くんと話したらどう?」

「おい、薫! 変なこと言うなって!」

「だって、昨日までそう言ってたのは間違いなく事実でしょう?」


 くすくす笑っている薫に、真一が食って掛かっているが、敢えなく言い負かされて口論にもならなかった。

 その榛色の目が、誠二を捕らえた。への字に曲がった口元が、もごもごと動いて言葉を探している。人三人分くらいの微妙な距離感がもどかしくて、誠二は自分から距離を詰めた。


 思ったより緊張していない自分に気付く。たぶん数日前にきちんと兄の無事を確認できたからだ。数日間、ふわふわしていた心が、ここに来てきちんと自分の体に収まったように感じる。最初にかける言葉は何がいいだろう。『おかえり』はそぐわないし。


「ひさしぶり」


 これが一番無難なように思う。まだ兄の方が高いけれど、昔よりは縮まった身長差。昔より細くなった顎のラインと、それでも変わらない瞳の色をのぞき込んで思ったのは。


「ちゃんと兄さんだ」


 という感想だった。


「なんだよ、その言い方」


 そうだそうだ、呆れたような表情はあまり昔と変わらない。変わらないところと、変わったところを見つけて、記憶の中の兄と、今の兄のすりあわせをする。それができることが嬉しい。それは、兄がここに居るという証拠だから。


「兄さんが、ここに居るのが嬉しい」


 わだかまりも、気まずさも、その嬉しさに比べたら霞んでしまう。なんたって、こちとら十年越しなのだ。生きているかも死んでいるかもわからない兄を、その存在を信じつつも年月とともに信じ切るのも難しくなりつつあった。


「俺も、誠二にあえて嬉しい。もう、あえないと思ってたから」

「うん」

「覚えててくれて、ありがとな」

「馬鹿じゃん」


 覚えていないわけがない。


「こんなこと言われても仕方ないと思うけど、母さんも、父さんもずっと兄さんが帰ってくるって信じてるよ」

「そうか」


 帰りたくても帰れないと、誠二も今なら真一の状況がわかる。『夜呼者』という性質を持った真一が現世に行くことで、どのような事になるかわからない。現世に魔物を呼ぶわけにもいかない。魔物は恐ろしい存在だと、ここ数ヶ月で痛いほど思い知ったから。


 表情の曇った真一は何を言おうかと言葉を探しているような気がする。

 そんな中、誠二は思い切って自分の考えを言ってみることにした。


「ねえ、おれもさ、兄さんが現世に戻れるような方法を探す手伝いをしてもいいかな。ハザマの人たちはあまり部外者に立ち入ってほしくないかもしれないけど、何かできることを探したい。こうして兄さんに会えた俺はいいけど、父さんと母さんはそうじゃないでしょ? どうだろう、薫さん」


 側で兄弟の再会を見守っていた薫は、話にうーんと考える振りをするが、そう時間をおかずに答えた。


「いいんじゃないかい? これだけこっちに関わった後に、じゃあこれきりですっていうのも何だし、それに家族を離ればなれにしておくのも本意ではないしね」

「っ! ありがとうございます!」


 いいよと手を振る薫に、大きく頭を下げて感謝を示す。


「俺はこれからも兄さんに関わるよ。何ができるかわからないけど、そうしたいんだ」

「……ありがと」


 持ち上げられた兄の手が、誠二の頭に置かれ、ゆっくりと動いた。その熱に、心の中がむずむずする。じんわりと広がって、指先から外に出ようとするそれを、ぐっと捕まえた。


「弟が頑張るのに、兄の俺が頑張らないのもおかしな話だよな……」

「どういうこと?」

「ほんとはさ、ここに来ても顔見るだけで帰ろうと思ってたんだ。誠二がこれ以上ハザマに関わって現世とハザマの板挟みになって苦しむんじゃないかって。親に言えない秘密を抱えて苦しむなら、俺は関わらない方がいいんじゃないかって」


 兄は手を下ろす。


「でも俺が思ってたより、ずっと強くなってたんだな。そんなこと考えてるとは思わなかった」

「俺は強くないよ」


 兄に関わろうとするのは、小さい頃の罪悪感もあるのかもしれない。自分の心がきちんと見えない。それでも、ここで関係を絶ってしまったら、臭いものに蓋をするように、自分の心を守るためだけに断ち切ってしまったら、その行いに後悔すると思ったから。


 そうしたいと思った心に嘘をついたら、それは自分に向かう刃となってこの先何年も自らを傷つけると知っているから。

 だからこれは自分のためだ。これ以上後悔しない、自分のための選択だ。


「いや、強いよ。自慢の弟だ」


 はにかんだ兄の表情は、泣きそうに見えた。


「俺も、現世へ安全にいける方法を探すよ。自分で、父さんと母さんに『ただいま』って言うために」

「うん」


 薫が真一の背中を叩いていた。それは決断をした親友への激励だ。

 この先どんな壁が立ちはだかるかはまだわからないけれど、訳もなく、今までよりこの先の道は明るいだろうと誠二は思った。



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世界のハザマに落ちてから 桐坂 @Kirisaka

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