さようなら、ミナミさん。

七山月子

●●●

あなたが、いた。


駅のホームであなたがいた。

金魚鉢の向こう側にあなたがいた。

風の中にあなたがいた。

今も、未来も、過去も。あなたが、いた。


私の酒好きは進んでいく。ずっと好きかもしれなかった。

でもある日、あなたがいたから好きじゃなくなった。

出会いは夜の満月の下。

私は境地にいた。酒の深い底の方に居た。あなたが来た。

「もうそろそろお水のんでくださいよ」

その声は眠りに誘うかのようにゆっくりしていて心地よい。

「いやですよ」

私は思ってることと逆のことを言いながら水を飲んだ。

それが、ミナミさんだった。

亜美という名前が嫌いだ。私の名前だが、嫌いだ。

なんの意味も持たない亜美。ただ美しくあれ。

女として生まれたから美しくあればいいんじゃない?と、父が決めた。

亜美。

ミナミさんは美波典孝。古典を孝行する典孝。古い歴史を受け継ぐ典孝。意味は知らないけど、勝手にそうだと思っている。

相当にミナミさんは優しい。優しさといえばトイレットペーパーが思い浮かぶけれど、私にとってのミナミさんはトイレットペーパーのようなものである。

なければ、困る。

酒もそうだった。酒は、優しい。世界には優しいものが溢れている。でもそれは今だけ。酒のせいにして美しくない私の心を美しく演出できるのは、酔っぱらってミナミさんにもたれかかっている、今だけの一コマ。

「明日になれば月は隠れてしまうね」

私が言うと、ミナミさんは水をもう一杯注ぐけれど、水差しはプラスチック製の安いやつなので、軽さに戸惑っている。それがやはり愛おしい。

「人が人を愛せるのはどうしてなんだろうか」

私が言うと、ミナミさんは汚れた布巾で汚れたテーブルを拭いて、頷きながら私の部屋のキッチンを探し求め歩く。キッチンで大根の葉を見て指さして笑うミナミさんが、私の中に求めてる平和そのもののようで美しい。美しいのは悪くない、とこういう時にだけ思い出して、そういう時には必ずミナミさんがいるのであった。

「朝になったら太陽が出て、人は人と愛し合うためにまた夜を迎えるんじゃないかな。それが毎日ってことで、毎日繰り返してるような退屈を平和な日常って人は言うんじゃないかな。だからそんなに寂しい顔した亜美さんは、素敵だと思うんだ僕は。ほら、泣いてる子供って、かわいいじゃない?」

ミナミさんの呼ぶ私の名前だけが、美しくあると本気で心から真面目に本当に思う。なのに、ミナミさんは私の恋人ではないのだから、酒が好きだったけれど嫌いになったのだ。酒が好きで、好きで、美しい世界を作ってくれる酒が、酒だけが、酒が好きで吞んだくれている私を救おうとしてくれた恋人のいるミナミさんに恋をした私は酒が嫌いになったんだ。

だからその夜はしつこいくらいに電話して、朧月夜を一緒に見たいだの、酒の相手がいないと死んでやるとか、薬を飲み過ぎてでもミナミさんと呑みたいとか、手首を切ってしまいそうだからお願いだきてくれだの、散々言ってようやく私の部屋にミナミさんが居る夜だった。

私は、きっと馬鹿だ。愚かで、矮小な自分。器も小さければ、人間でいる価値もない、馬鹿。

ミナミさんに触れようとすればミナミさんは困った顔をするし、ミナミさんを好きだと口にすれば恋人の名前を出して突っぱねられる。

つらい、夜だな。と、思えればいいのに、まだ、全然に嬉しかった。

恋をしたら人は溶けあいたいと思うものだと思う。

こんな歳になるまでミナミさんと出会えなかった私がかわいそうで始まってすらいなかった亜美の人生は、ミナミさんで始まって、たぶん今日のこの夜に終わる。

そんな気がしていた。

だって、今度からはもう、会ってもくれない。

恋人のほうが大事だよって言って、去ってしまう。

好きだとか言ってしまったから。もう、だめなんだ。終わるんだ。だから、私は大根の葉を見て笑ったミナミさんに、朧月夜を指さして、

「ねえ、帰らないといけないでしょ。もう帰っていいよ」

と言った。

平和をありがとうとか、かわいそうな私を見せてごめんとか、彼女に怪しまれないでよねとか、ごめんとかありがとうとかごめんとかありがとうとかを三十回は言葉に混ぜて、そうしたらミナミさんが、

「僕はいなくならないよ」

と言ったので、

「嘘つきなミナミさんも好きだよ」

と言ってみたら、

「ごめんね」

謝って振り返らずにやっぱり去って行った。

ミナミさんはだからもう、あとは、もう、酒と気配だけを残して、私はもう、一人で泣いてみようかと思ったけれど、酒をひとくち、ふたくち、みくち呑んでいくうちに、ふと朧月夜に目が行った。

「亜美」

自分で自分を、呼んでみたら、バカバカしい。

朧月夜がこの世の終わりを演出するには間が抜けていて、カーテンはレースで裾はこの間足の爪をひっかけて破れているし、なんだか馬鹿みたいで、愚かで、間抜けで、月なんか夜なんか終わるし当たり前だし、終わる。

亜美は、ただの亜美になって、酒は、きっともう呑まないと決めて、それでもまたどうせ吞んだくれて、でも、ただ大根は、きっと捨てる。

未来の予測をたててみたら、なんとミナミさん以外の人をきっと好きになる。

そういう風に決めて私はただ異常なく、この夜に眠りについたのだった。

さようなら、ミナミさん。

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さようなら、ミナミさん。 七山月子 @ru_1235789

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