第9話 ミキちゃんが置いてったもの

 うつらうつらとしか寝なかった気がするのに、気がつけば、ミキちゃんは忍者のように姿を消していた。


 でも、ミキちゃんは忍者と違って大雑把な人だったから、ミキちゃんが出て行ってから数日の間、洗濯機に入れたままだったブラジャーだとか、お風呂でとったらしいヘアゴムだとか、なぜか一冊だけある「進撃の巨人」の18巻だとか、ミキちゃんの痕跡をマンションのあちこちで発見した。


 いま僕が見つめている、ピンクのパッケージに入ったタバコも、そんなものの一つだ。


 タバコにはいい思い出しかない。「百害あって一利なし」なんて言われたりするこのアイテムに、僕は一つも嫌な思い出がない。ミキちゃんの飾りたてられた手が、細いタバコを器用に支えて、口元に持っていくのを見るのが好きだった。目を細めて煙を吐き出す姿も、いつもかすかにタバコの匂いがするところも、吸ったばかりの口にキスをすると、灰皿みたいな味がするところも。


 そのタバコを、体に悪いという理由で吸ったことがない僕。好きな女に出て行かれても、何もしないでいる僕。極めて残念な男だ。


 キッチンのベンチにミキちゃんが置いて行ったタバコとライターを、僕はまとめて手に握りしめると、ベランダに出る。それから、タバコに火を付けた。急に吸い込んでむせないように気をつけながら、そろそろと吸ってみる。人工的なピーチみたいな、変な香りとタバコの味がする。おいしくないのに、おいしい。変な感覚だ。


「ふう」と息を吐くと、煙が口から空のほうへ登っていった。ミキちゃんがタバコを吸っていた姿を思い出して、僕は泣きたいくらいの恍惚に包まれる。握りしめたタバコの箱の中を見る。数えてみると、タバコはあと七本残っていた。


 一本吸い終わった僕は、もう一本のタバコに火をつけた。一本、また一本。ゆっくりと僕はタバコを吸い続けて、とうとう、最後の一本まで吸いつくした。


 心臓がドクドクしているし、ちょっと吐きそうだ。でも、頭ははっきりしている。ニコチンでハイになってるのかもしれない。


 ミキちゃんを取り戻しに行こうか。ピーチ姫を助けに行くマリオみたいに。ミキちゃんのロクデナシの夫を、ボコボコにしてやろうか。


 ミキちゃんは、すごく迷惑だと思うかもしれないし、僕のほうが逆にボコボコにされるかもしれない。そもそも、ミキちゃんの居場所さえ知らない。


 でも。


 腹の底から力が湧き上がってきて、僕の口から、ふっと笑い声がもれた。一度笑ってしまうと、もうこらえきれなくなって、僕は声をあげて笑った。


 ベランダから部屋に戻り、車のキーと携帯だけひっつかむと、僕はマンションのドアを開け、家を後にした。




 

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【完結】残念なことに、タバコにはいい思い出しかない かしこまりこ @onestory

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