絵日記の壁

negipo

絵日記の壁

 白木で組まれた鳥居の表面を木漏れ日がゆらゆらくらげのように舞っていた。断末魔じみたセミの叫びを全身に浴び、私は指先からお供え物にした揚げ菓子のかけらをふるい落としながら歩きはじめた。

 ふと今朝のできごとが頭をよぎる。

 島の祖霊を祀るこの御嶽は、かつて三つの切石で隅を切り取られただけの空地だったらしい。「なんにもないとこをお祀りして意味あるの?」と素朴な疑問をばあばに投げかけたとき、彼女は紙に包んだ揚げ菓子を私に押しつけながらにゃむにゃむ言った。そのうち近所のおばあがやってきてほとんど聞き取れないいつものよもやま話がはじまったので、私はどうも納得いかないまま紙包みを抱えて家を出たのだった。

 クーラーボックスを吊るビニールのひもが肩に深く食い込んでいる。

「くっそ」

 ひとこと言って顔をしかめ、口もとを抑えた。何者にも向けられていない悪態を、ここではもう亡くなった誰かが聞いているのかもしれないのだ。ため息を手のひらの裏側でついた。ひたすら面倒くさかった。御嶽のしきたりも、本島へつながる巨大な橋の基部でアイスキャンデーを売るクソバイトも、浮気した上で開き直ってきたクソ彼氏(もう元カレだ)も、「知らなかったんです!」なんて悲劇のヒロインみたいに泣き叫ぶクソ後輩の睦月も、彼女と最低あと一年は顔を合わせなければならないのに耐えられるとは思えず、退部届をはんぶん書き終えたクソ陸上部も――。

「キレちゃうぞ……」

 そう呻いて、私はついにキレた。

 バイト先の店から海水浴場へ運んでいる途中だったクーラーボックスを参道の真ん中にどんと放ると、ひんやりひかる棒アイスを二本取り出し、凍りついてひどく剥きにくい銀紙を犬歯で荒々しく引き裂いた。バニラの風味に満ちた身体に歯型をいくつもつけながらかじり取る。外側と内側の温度差で、私の肌を食い破るかのようにたちまち汗が吹き出した。またたく間に一本めを食べ終わる。そうしてクーラーボックスを尻に敷いたままおなかの空いた野犬みたいにアイスを食べていると、私はこのクソみたいな日のやばい暑さをとつぜん覚えておきたくなって、〈絵日記〉を描きはじめる。

 親指と人差指をL字にして、私は左手をあかるい方に向ける。

 かち、と頭のうしろで音がする。

 描き終わった。

 〈絵日記〉って一体なんだろうね。私がそう聞いたとき、この春から大阪に行ってしまったねえねは決まって『記憶術』だとこたえる。私が二歳になったころ、ねえねは私がなにもない空間に左手を向け、四角く括る癖があることに気づいた。ねえねはまだ言葉の怪しい私に辛抱強く質問し、そうすることで私がまるで写真を撮るかのようにその場の情景をあたまに保存して、いつでも取り出せる超人じみた記憶力があるということを知った。だからと言ってどうということはない。保存した〈絵〉を他人に見せることはできないし、電話もかけられないし、つまりスマホよりぜんぜんいけてないし、不気味だからねえね以外の誰にも教えてない。

 左手を軽く振って昔の記憶を呼び戻す。指と指のあいだには鮮やかな絵がつぎつぎ浮かび上がった。十振りもすると、元カレと睦月が顔いっぱいに笑いあってる横顔があらわれた。『せんぱい』『せんぱい』って猫の鳴き声みたいに繰り返しながら私のバイト先までくっついてきた世界一かわいい後輩が彼氏とも仲良くなってくれて私って宇宙一幸福〜みたいに思ってた。

 私は二本めを咥えたまま鳥居へと左手を向ける。

 二人の〈絵〉なんて描かなければよかったしバイトと陸上部もすぐにやめればよかった。そうすればこんな気分にならなかったのに。

 かち、と〈絵〉を描き、それから映画に出てくる無限に弾のある機関銃みたいに連射した。かつて描かれた〈絵〉を押し流したかった。神域の外にあるものすべてが引き裂かれ、生きる価値が一切ない悪ものみたいにぐちゃぐちゃになっていった。じわりと涙が滲み、世界がぼんやり歪んでいく。クソ、クソ、クソ、クソ! 私は頭の中で叫びながら、かちかちかちかち描き続けた。

 三十回ぐらいそれが続いたとき、白くまっすぐな鳥居の脚から、影が黒く分かれた。

 海底から空を見上げたときに魚群があらわれ、ちらちらと世界が瞬くときのように、〈絵日記〉の最後の数枚はその姿を捉え続けていた。女の子だ。黒人の。鮮やかな黄色いワンピースを着て、ナイキのエナメルバッグを持ち、短く編まれた黒髪をした。私が手を下ろしたのと同時に、彼女はこちらにふわりと振り向いた。「あの」と助けを求めるかのような囁きがその口から漏れ出して、彼女はそのまま俯くと、たった今枯れてしまった木のように黙った。

 光をすべて吸い込む、誰にも知られていない宝石のような肌。

 本島の基地から来たのかもしれない。

 視線を地面から引き抜いて、「このへんで、思いっきり走れるところって、知らないですか」とその子はたどたどしく言った。わずかにひらいたその口から、白い歯と赤い舌がちらちら見えた。低く深く響く声だったから、海の中で彼女が小さく呟いたとしても、きっと何百キロ先からも聞こえるのかもしれなかった。視界内に誰一人として仲間のいない孤独な鯨の子どもが親を呼ぶときのそれみたいに。

 口からアイスの棒を取って「シリアスに?」と私が聞くと、「シリアスに」と彼女はこたえた。私は立ち上がりながら「知ってる」と囁きかけ、クーラーボックスを提げて歩き出した。

 肩が痛い。


 歩きはじめたあとは私が会話のしょっぱなに失敗したせいで彼女は完璧に無口だったし名前なんて最後までけっきょくイニシャルしかわからない。しょっぱなというのはこうだ。私がアイスキャンデーを一本渡してやりながら「年いくつ?」と聞くと、彼女は銀紙の端っこを破いてしまってから、悲しそうに「十五です」と答えた。

「うっそ、二個下?」

 私は驚きの声を上げた。何しろ彼女は背が高く、頭ひとつぶんくらいは年上だと勝手に思っていたのだ。それで彼女の歩みはとつぜんのろくなった。二、三歩先行してしまって振り向いた私を差す彼女の瞳がうっすらひかっているように見えたので、私は反省した。あちゃー、やってしまった。うちなーばっかりのこの土地で、私みたいなアホの言うことにずっと傷ついてきたに違いない。私は歩みを緩めて彼女の手からアイスを取ると、「ごめん、これ固いんだ」と銀紙を歯で取ってやった。彼女は私のうしろにぴたりとくっついてぬかるんだ農道を歩きながらぴたぴたとアイスを舐め続けた。ひとことも発さなかった。私以外によるべがないにも関わらず。

 目的地にはけっこうすぐに着く。

 クバの林を抜けたあと、ひらけた空の下で「どう?」私が聞くと、彼女はこくこく二回頷いた。ひどく真面目な顔をして「とてもいいです」とこたえる。そこは使われなくなって随分経った飛行場で、私と睦月は草刈りの見返りに地主の許可を取り、しょっちゅう練習に使っていた。睦月の姿は今日はない。用具小屋の扉をがちゃがちゃやってる最中に、彼女はその場で急くようにワンピースを頭からすっぽり抜いて、バッグからトラックシャツを取り出した。

 すごい脚。短く思って、椅子を引っ張り出す。

 私はそうして気弱な姿がすっかり脱ぎ捨てられるのを見つめる。

 アップとテンポ走を時間をかけてこなしたあと、彼女は四本だけ引かれた直線レーンを一度、ほとんど本気で走った。その最初の数メートルで、私は彼女がその肉体以上に逸脱した専門的技術を持ったショートスプリンターだと理解してぶるっと震えた。蹴り出しからぐんぐん伸びてゆくストライドは県大会の決勝で見たどんな長身選手よりも遥かに広く、男子じみた強力な体幹が一切左右にぶれないフォームを作り上げていた。瞬く間に幻のゴールテープを切り、彼女は肩で息をしながら、こっちに向かってさっと手を上げた。

 その意図はわからない。

 まっすぐに伸びた黒い腕。

 ひらけた滑走路の先で汗の浮いた身体をひからせている彼女を私は呆然と見つめた。森からさあっとあおい風が走り抜けた。煽られる髪を抑えつけながら、私は彼女に向かって「ちょっと待って!」と叫んだ。遠く、白い笑みがあらわれた気がした。私は用具小屋に扉に向かって歩いていき、途中から走りはじめた。そこら中をひっくり返し、自分で昔置いていった予備のシューズを見つけると、急いで履いて外に出た。髪ゴムであたまを括りながら「一緒に!」と私が叫ぶと、こちらの方に戻ってきながら彼女はこくこく頷いた。

 走ることが好きな人間をひと目で見分けられるのだというような、確信のある頷き方だった。

 私たちはいっさい言葉を交わさず、その代わり雄弁に脚で語った。彼女は私よりはるかに優れた走者で、でも私たちは同じように競走を愛していた。寡黙な彼女はとうぜん優れたコーチではなかったけれど、私は何度も彼女の背中や脚をじっと見つめているうちにいくつかのあらたな改善点を私の中に発見した。世界にひとりしかいない特別な人との対話の中でだけ見つけられることがあるのだ。まるで明け方の夢にだけあらわれる、理想を固めて作られた嘘の友人のようだ。

 最後の百メートルを二人で走って、私たちは息を切らせながら笑い、手真似で終わりにしようと伝えあって小屋へと歩いていった。暗い庇の下で身体を拭く彼女の髪先から垂れるしずくは星のようにひかっていた。クーラーボックスからアイスを取り出しながら「もう飽きた?」と聞くと、彼女はにこりと笑って、飲んでいたドリンクと私のアイスを交換した。白いバニラはちょうどよく溶けていて、私たちはふたりとも大した苦労もなくアイスキャンデーをかじりはじめた。長く冷たい息を吐いたあと、彼女は髪を拭きはじめた。私はどうしても彼女の姿を捉えておきたくなり、彼女に向けて左腕をまっすぐ上げ、L字を作った。

 屋根に遮られたひかりが彼女の脚を斜めに切り裂いている。

 かち。

 ぱっ、とタオルが広がり、そのうしろから見ひらかれた彼女の両目があらわれた。彼女は私の〈絵日記〉があらわれた指を見つめ、それから私がわからない言葉を口のなかで短く喋った。

 その左手が持ち上げられた。

 L字を作り、私に向けられている。

 かち。

 そのとき、私ははじめて〈絵日記〉の音が私の頭のうしろ以外で鳴ったことを知り、私以外に〈絵日記〉を描くひとがいることを知り、彼女は私の近くにやってくると、自分の〈絵日記〉を差し出して一回振ったので、私は私以外のひとの〈絵日記〉を見ることができると知る。彼女の手の中には御嶽の参道へどんと置かれたクーラーボックスに行儀悪く座ってアイスをがりがりかじってるものすごくやばい顔の私の姿があらわれる。何しろそれはめちゃくちゃやばいので、私は「やば」と呟いたあとぶはっと吹き出し、花火大会の終わりにあらわれる今日一番の輝きみたいに笑いはじめ、彼女の肩をばしばし叩く。それで彼女も声を立てて笑っているのがわかって、そのあとはお互いにもたれかかってずっと叫ぶように笑い続けた。

 収まるまではしばらくかかる。

 彼女は来たときと同じようにすっかりはだかになってから服を着て「もう行きます」と言った。「ラインとかやってる?」と私が聞くと、首を振り返す。座ったまま、「そ」となるべく感情を込めないように、私は気をつけた声を漏らした。

 手がこちらに差し伸べられる。

 おなかで拭いた手を私が差し出すと、彼女は私を引っ張り上げて立たせた。「わ」と焦る。

「〈ウォール〉、出して、いただけませんか」

「〈ウォール〉?」

「アー……失礼」

 彼女は私の指を取り、L字を作った。先ほど捉えた彼女の姿がすっとあらわれる。〈ウォール〉というのは〈絵日記〉のことか。このちいさな空間を、どうしたら壁に思えるのだろう。私は目を細め、彼女を見上げた。ひどく真剣なその表情を見つめていると、あ、と思った。「名前聞いてなかった」と私は囁く。彼女は右手の指で作った逆のL字と私のL字で何もない空間に四角形を区切り、「BB」とちいさな声でこたえた。

つながったコネクテッド

 BBが短く言った。指は大きく、ひといきに離れ、それで〈絵日記〉が広げられた。

 ああ、知らなかった――。

 わたしたちの指で囲んだ空間に、〈絵〉が升目のようにたくさん浮かんだ。私たちの〈絵〉が繋がって、これまで描かれたすべての〈絵〉が〈ウォール〉に広がったのだ。そこには私の〈絵〉もあったし、私の知らない国の〈絵〉もあった。

「これはどこで描いたやつ?」

 雪に閉ざされた林でこちらを見ている一匹の白い犬を指差すと「ンー……」とBBは迷った。

「忘れることなくない? かわいい犬じゃん」

「これはポリーナが描いたものです。アー、つまり、たぶん、サマルカンド」

「……世界じゅうに〈絵日記〉を描く人がいるのね」

 BBはにこりと笑い、バッグを背負い直した。〈ウォール〉が閉じられる。私の手の中に残った〈絵日記〉にはポリーナの犬が残っていた。一度つながれば、つながったままなのだ。

「お名前を教えて下さい」

 と彼女は今度こそ握手のために手を差し出して言った。私は彼女の手を握りしめながら「理沙」とこたえた。

「いろいろありがとう。理沙」

 BBはそう言うと、私の腕を引いて、一瞬のハグを私にくれた。ぱっと離れて、林の方へと走りはじめる。

「明日もここに来れる!?」

 と私は彼女の背中に叫んだ。BBは腕を上げてこちらを振り向きながら、「たぶん!」と叫び返し、消えた。

 こりゃ来ないな、とは思ったけど、案の定その翌日BBは飛行場にはあらわれず、その代わり昼前に睦月があらわれた。部活をやめないでくれ、と睦月は泣いて私に縋り付いた。元カレとの縁は切ったし、お互いバイトは辞めてしまったし(私は店の品物に手をつけたかどで当然クビになった)、せんぱいとこれで話せなくなってしまうのはいやだと言うのだ。

 私は陸上部に残ることに決めた。睦月は結局この島で二人きりで育ったかけがえのない後輩だった。それに何より、私は走ることが好きなのだ。


 BBの姿をもう一度見ることになるのはけっこうあとのことだ。

 私はそのとき関西の大学の二回生で、ねえねの部屋で睦月といっしょにオリンピックの決勝を見ていた。「あーあ」とねえねは缶ビールを呷り、睦月は私の手をぎゅっと握った。女子陸上の四百メートルリレー決勝に残っていた日本チームが、第二走者へのバトンパスでミスを犯したのだ。歪んだ選手の表情に現役時代の自分を重ね、私の心は大きく揺さぶられた。無情にもカメラの視野は一息に引いて先頭の集団へと移ってゆく。

 バトンが第四走者へ渡る。

 アナウンサーが叫んでいる。

「ジャマイカ来ている! アメリカ続いてイギリスだが、しかしアメリカ伸びている!」

 私の背中には一気に汗が浮く。戦局を左右する手紙を持って駆けるように、最後の百メートルを選手たちが国家を背負って走り抜けようとしている。でもその中で、たったいま世界で最も速い女性の、あの子だけが――。

 睦月が「笑ってる」と呟いた。

 そうだ、BBだけが楽しそうに笑っている。

「アメリカだ! アメリカ金メダル! ああ、バニー・ブラウン選手、チームメイトと抱き合っています!」

 私はすっかり止まっていた息を吐き、ソファにもたれかかった。テレビ画面の中でBBが輝くような笑顔を振り撒いていた。BBはしばらくそうしてみんなに抱きついたあと、渡された星条旗を背にして会場を飛び跳ねるように歩きはじめ、国旗を握った指先であのL字を作った、スタジアムをぐるっと回るように差し、それからそのまま空に向けた。

 〈ウォール〉をひらく。

 BBの一番あたらしい〈絵〉があらわれる。

 なにもない夜空だ。星は見えないけれど、その代わりのようにスタジアムの照明のあかるさが彼女の視界を縁取っている。そうやって彼女の人生を取り囲む何もかもが、きっとその〈絵〉につながっているのだ。

「おめでと」

 私はテレビの中のBBに笑いかけ、左手を向けた。輝かしい私の友人。いつかまた会えるといいけれど、今はまだこれでいい。

 かち。

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