第2話 推しと押し

 五時限目は国語。

 国語の担当は担任教師でもある九重幸一ここのえこういち先生。

 三十六歳でバツイチ独身子どもなし。

 年齢よりも少し上に見える老け顔で、寡黙で冷静沈着。

 年季の入った濃いグレーのスーツが哀愁を誘う。

 そう、私の推しは九重先生。


 周囲には『おじさんじゃん』とか『えー、どこがカッコイイの?』とか言われたこともあった。

 そもそも私は三十歳以上の男性しか恋愛対象じゃないの。

 まあ、今はそう言い合う友人すらいないわけで。

 ……おっと、目から汗が。


 先生が教科書を読み始めたので、私はじっくりと聞くことにした。

 とても低く、穏やかな声は、私の胸をドキドキさせる。

 ああ、ずっと聞いていたい。

 これぞ至福の時間。


【ねえ、ちょっと! またカバンにつけたままなの?】

 甲高い声が聞こえてきた。

 私は時計を見て思い出す。

 そうだ、あれからちょうど二十四時間。

 この時間は、キューちゃんのマシンガントークが炸裂する時間でもあったんだ。

 すっかり忘れていた。

 でも、五分だけだし、聞こえないふりをしておくか。

【ちょっと、聞こえないの? あんたねえ、あたしが喋る時間がわかるはずでしょ? なんで話せる位置に置かないのよ? ってゆーか、私はブローチなんだからカバンじゃなくて服につけてよね!】

 今日はいつにも増してすげえ喋る。

 先生の声が聞こえない。

 これじゃあ五分も耐えられないな。

 そう思って、キューちゃんをカバンから外して机の隅に置く。


 手のひらにすっぽりと収まるサイズの木製のビスケットの形のブローチ。

 それがキューちゃんであり、マシンガントークの主だ。

【あー、ようやく移動してくれたのね。まったく、あんたって本当に物づかいが荒いわよねえ。昨日だって、バッグごと私のことを電柱にぶつけそうになったでしょ? あれは本当に死ぬかと思ったわ】

「ねえ、ちょっと」

【あ、もちろん、物の死ってのは壊れて修復不可の時よ。だから丁重に扱ってほしいわけ。特にあたしみたいな繊細な作りってのはね、やっぱほら、壊れやすいのよ】

「黙っててほしいんだけど」

 私がそう言うと、キューちゃんは黙り込んだ。

 それも一瞬のこと。

 すぐにキューちゃんはマシンガントークを繰り出す。

【はあ? 一日五分しか話せないってのに黙っててほしいだなんてよく言えるわよね? そもそもあたしはね、小鞠にこの能力を説明した、いわばチュートリアルみたいな役目をしたことを忘れないでほしいわ】

「一年前のことでしょ」

【そうよ! もう一年の付き合いになるんだから、あたしがちょっぴりお喋りな性格だってのもわかってるでしょ?】

「ちょっぴり?」

【ああ、もう。本当に嫌になっちゃう! あたしがどれだけ話したいか人間の小鞠にはわからないわよね。そうそうわからないと言えば、この前、ぬいぐるみたちがね、小鞠のうわさ話をしていたのよ】

「えっ? なに悪口言ってた?」

 そこでキューちゃんは急に黙りこんだ。

 壁の時計を見れば、ちょうど五分が経過していた。


 そして、そこでようやくクラスメイトがみんなこちらに注目していることに気づく。

 私の目の前には九重先生が立っている。

「独り言ならもう少し小声でやってくれ」

 先生の言葉に、あちこちからクスクスと笑い声が聞こえる。

「す、すみません」

「それからこれはなんだ?」

 先生はそう言うと、机の端に置きっぱなしにしていたキューちゃんを指でつまんだ。

「あ、それは、その」

 さすがにブローチと言うと没収されてしまうかもしれない。

 九重先生に没収されるなら、それはそれでアリなのだけれど。

 でもキューちゃんは私にとって、とても大事な物だ。

 だから私は少しだけ嘘をつく。

「カバンにつけていたんですが、取れてしまって……」

「そうか。とにかく授業には集中するように」

 先生はそれだけ言うと、キューちゃんを私に返してくれた。

 ああ、先生のぬくもりが残ってる……。

 うるさかったキューちゃんに感謝しよう。

 明日はたっぷりとお喋りに付き合ってあげなきゃな。

 ああ、そういえばぬいぐるみたちがしていたという私の噂ってなんだろう。

 そんなことを考えていたら、いつの間にか放課後になっていた。


 さっさと家に帰るべく教室を出たところで、私の前にすっと誰かが立った。

 明智君だ。

 さっき昼休みに遭遇した時とは違い、彼は穏やかな笑みを浮かべている。

奈前なまえさん、ちょっと話があるんだけどいいかな」

 口調もとても柔らかく、甘い声。

 私がおじさん好きじゃなければ惚れていたかもしれない。

 それにしても、さっきの態度とは大違いだ。

「私には話がないんだけど」

「とにかく来てもらえないかな」

「私、急いでるの」

 早口で言って、彼の横を通り過ぎようとしたその時。

 明智君が自分のスマホの画面をこちらに見せてくる。

「これは……」

 私はその画面を見て、無意識のうちにスマホへと手が伸びた。

 だって、九重先生が職員室で笑顔を見せている写真だったのだ。

 レア過ぎる!

 明智君はスマホをさっとポケットにしまって言う。

「この写真と引き換えに、君の時間をくれないか?」

「はい、喜んで!」

 思わずワンと叫びそうになる勢いで私は返事をする。

 それから明智君の後にのこのこと着いて行った。


 誰もいない屋上はむわっとした空気がたちこめている。

 夏休みが明けてまだ一週間も経っていない。

 だからまだ夏の空気が残っていた。

 明智君はすっかり秋の雲が浮かぶ空を見て、目を細める。

 それから、私の斜め向かいに立ち、「気温が高いからさっさと本題に入ろうか」と笑う。

 明智君はさり気なく私が日陰になるように調整してくれて立っている。

『事件が絡まなければ紳士でカッコいいのに』と、クラスの女子がため息をついていたのを思い出す。

 明智君は、涼しい顔でこう言った。

「僕はね、君がずっと気になっていたんだ」

 えっ、これはもしや……。

 明智君は少し照れくさそうに笑うと、こう続ける。

「もう寝ても冷めても君のことばかりを考えてしまうんだよ」

 なにこれ。

 愛の告白?

 そう思って、信じられない気持ちで明智君の顔を見る。

 こうして見れば、明智君はやっぱり整った顔立ちのイケメン。

 あー、二十年後に会いたかったなあ。

 そんなことを考えていると、明智君はこほんと咳払いをして、私の顔をまっすぐに見つめる。


「どうか、その、新聞部に入部してほしい」

「ごめんなさい。好きな人がいるんです」

 明智君がそう言ったのと、私が頭を下げたのはほぼ同時。

 お互いに数秒だけ無言で見つめ合う。

 先に思いきり視線を逸らしたのは私だ。

 入部の誘いかい!

 なんて紛らわしい!

 恥ずかしさで、消えてしまいたい衝動に駆られていると、明智君はこう言う。

「君の好きな人なら知っているよ。だから九重先生の写真を餌に、いや、入部特典にしようと考えたんだ」

「餌って今ハッキリ言ったよね」

「いや、まさか」

 明智君はそう言うと、にっこりと笑った。

 さっき私が告白だと間違えたことは、スルーされたみたいだな。

 でも、やっぱり恥ずかしいもんは恥ずかしい。

 それに部活に入る気もない。

 ってゆーか、うちの中学に新聞部なんてあったっけ?

 そんな謎の部活にも入りたくないな。

 貴重な放課後は、やっぱダラダラしたい。

 でも、九重先生の写真は欲しいなあ。

 ただ、明智君から写真をもらう、なんて行為をしたら、中学卒業までつきまとわれそう。

 やっぱり関わらないのが一番だ。

「私、部活は入る気ないの」

 それだけ言うと、屋上を出た。

 明智君は追って来ない。

 良かった、しつこく勧誘されるわけじゃないんだ。

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