海と山が見える町は、私の故郷になった

青川志帆

海と山が見える町は、私の故郷になった

 学校帰り。クラスメイトの男子三人に、無理矢理空き地に連れていかれて、ピンクのランドセルを放られた。


「や、止めてよ!」


 慌てて、地面に落ちたランドセルに駆け寄る。


「変なしゃべり方すんなや!」


「せやせや。ここは東京ちゃう!」


「俺、知っとう。東京では、みんな語尾にじゃんって付けるんやろ。そうじゃーん」


 男子たちは、私のしゃべり方をあげつらって、笑った。


 最近、私は東京から引っ越して来たので、標準語しかしゃべれない。


 関西弁とは、語尾もイントネーションも違う。


 それがおかしいのか気に入らないのか、私はいわゆるいじめにあっていた。


「うう……」


 泣き始めると、男子たちはげらげら笑う。


「バリおもろい」


 声を重ねて言われた言葉に、応じる声があった。


「なんもおもろない。しょうもないこと、すんなや」


 ハッとして顔を上げ、声がしたほうを見やる。


 そこには、高校生と思しき男のひとが立っていた。


 なぜか口の端に血がついており、制服の白い半袖シャツも砂で汚れている。


 髪の毛は灰色が混じったような茶色――薄茶色とでも、いうのだろうか。あまり見たことのない、珍しい色だった。


 彼には、妙な凄みがあった。


「お前ら、よってたかって何しとん」


 彼が一歩近寄ると、男子たちは結託して走り出し、回り道して空き地から出ていってしまった。


「……大丈夫か」


 問われ、私はランドセルを抱きしめる。


「は、はい。助けてくれて、ありがとうございます」


「別に、大したことしてへんけど」


 彼が笑うと、強面が少し親しみやすそうな柔らかみを帯びた。


「何年生?」


「小四です」


「ふうん。ああ、別に敬語いらんで。いつも、ああいうことされとん?」


「まあ、いつも……かな」


 私は最近引っ越してきたことと、友達ができないままに、男子生徒に目をつけられたことを語った。


「私、関西弁がんばって覚えようとしてるんだけど、やっぱりイントネーションとか違うみたいで。当てられて、教科書読むときも笑われて」


 おどおどしながら事情を語ると、彼はため息をついた。


「しょうもな。……まあ、俺が一喝したから、しばらくはおとなしくしとうやろ」


「なんで? お兄さん、有名人なの?」


「まあな。少なくとも、あいつらは俺の顔、知っとったみたいやし。家、どこや。送ったる」


「お兄さん、名前教えてください。私の名前は七瀬ななせ


「ななせ?」


「数字の七に、瀬戸内海の瀬って書くの」


「へえ。俺は、伊吹いぶき。伊藤とかの伊に、風が吹く、の吹くの漢字で伊吹」


 いぶきさん、と声に出してみると彼ははにかんだように笑った。


 


 神戸に来たばかりで、全然観光をしていないと言うと、伊吹さんは「時間、あるか?」と問うてきた。


 両親は共働きで、パートの母は五時まで帰ってこない。それまでなら大丈夫だと告げると、伊吹さんは「なら、海でも見てみよか」と誘ってくれた。


 電車に乗って、しばらく歩いて着いたのは、港だった。大きな船が停まっていて、水面が陽光を跳ね返して光っている。


「海だ……」


「神戸は、港町やからな」


「私の家からは、山が見えるのに。不思議」


「海も山も見える町。それが、神戸や。な、海、きれいやろ」


 実のところ、それほど感激したわけではなかったが、電車賃をおごってくれてまで連れてきてくれたのだし……。


「うん、とてもきれい」


 気を遣って、褒めておくことにした。


 しばらくぼうっとしていると、遠くを飛ぶカモメや潮風の匂いに、じわじわと実際に感動してくる。


 家と、友達がいなくていじめっ子がいる学校。そのふたつが、神戸に来てからの私の世界だった。


 少し、世界が広がった気がした。




 その後、伊吹さんは家の近くまで送ってくれた。


 そういえば、どうして血がついていてシャツが汚れていたんだろう。聞くのを忘れていた。


 彼は電車に乗る前に、このままではまずいと思ったのか、駅のトイレに入っていた。出てきた彼の顔に血はもうなかったから、トイレの手洗い場で血を落としたのだろう。


 


 翌朝、私はゆううつな気持ちを抱えて登校した。


 教室に入ると、いつものようなヤジが飛んでこなかった。


 あれ? と思って、教室を見渡す。窓際あたりに、いじめっ子三人がいて、こちらを見ているが、何も言ってこない。


 私が視線を外したとき、


「バリやばい」


「かかわらんとこ」


 ひそひそ相談する声が聞こえてきた。


 何が、バリやばいのだろう。バリ……って、すごくって意味だよね。


 私、すごくやばいの?


 席に行って座り、ランドセルを机に載せたところで、息をつく。


 伊吹さんは、今日も神戸を案内してくれると言ってくれた。


 昨日と同じ空き地に行けば、いると言っていた。


 それをはげみに、今日もがんばろう。




 空き地に行くと、伊吹さんが立っていて、片手を挙げた。


「よう」


 今日は血が付いておらず、シャツも汚れていなかった。


「伊吹さん。伊吹さんの高校って、こんなに早く終わるの?」


 昨日はうっかりしていたが、高校生は小学生よりも学校が終わるのが遅いはずだ。


 まさか、サボらせてしまっているのでは……と思い、聞いてみた。


「今週は、テスト期間やから。終わるの早いんや」


「えーっ。テストなのに、遊び歩いていいの?」


「勉強はしとうから、ええんや。それにこれは俺の問題やから、お前は気にせんでええ」


 伊吹さんが自信たっぷり言い切ったものだから、私は小さく頷いた。


「今日は、異人館連れていったろ」


「異人館?」


「せや。まー、なかに入るには金いるから、見るだけやけどな」


 伊吹さんの案内に従い、駅を通って、道を上っていった。


 坂道にふうふう言っていると、異国情緒溢れる西洋風の建築が並ぶ一角に出た。


 広場もある。楽器を構えている銅像は、どこかユーモラスだ。


「あそこが、一番有名やな。風見鶏の館」


「かざみどり……」


 たしかに、伊吹さんの示した館の上の方に小さく風見鶏が見える。


「疲れたなあ。座ろか」


 うながされて、広場のベンチに座ることになった。


 観光客らしき、茶髪や金髪……といったカラフルな髪の外国のひと二人組が、通りすぎる。


「なんか、不思議。異人館って、外国のひとの家だったところでしょう? 全然和風じゃないのに、外国のひとは異人館見て、面白いと思うのかな?」


「……さあ。知らん」


 にべもない返事だった。


「日本にある異人の館やから、ええんちゃう?」


「うーん」


 いまいち納得できなくてうなる私が面白かったのか、伊吹さんは笑っていた。


「変なこと、気にするんやな」


「そうかな……。あ、そうだ。伊吹さん。関西弁、教えて」


 いきなりお願いすると、彼は虚を突かれたようだった。


「私、がんばってテレビ見て、芸人さんのしゃべり方をまねしてるんだけど、全然……その、イントネーション? ……みたいなのが変みたいで、笑われちゃうの」


「そら、教えてもええけど……いざ教えるとなると難しいなあ。それに、テレビの芸人さんは、大体大阪出身やろ。神戸ここと大阪の方言は、ちょっとちゃう」


「ちょっと違うの? たとえば?」


「そう言われると、悩むなあ。ああ……向こうでは、なになに『しとう』って言わん。あと、こっちでは芸人さんの使う『なんでやねん』は、あんまり言わんな。テレビの影響があるし大阪は近いから、昔より大阪弁に似てきたような気もするけど」


「しとう……か」


「特にイントネーションは、すぐに身につけられるもんちゃうやろ。関西と標準語は、イントネーション反対のやつもあるぐらいやし」


「反対!?」


 違う、とは思っていたが、真逆のものもあるとは。


「有名なんは、アメとアメやな。降る雨のほうは、雨。舐めるほうは、飴」


 例に出して発音してもらった雨と飴は、たしかにイントネーションが私の知るものと逆だった。


「道は遠いなあ……」


「まあ、そんな気にせんとき。子供は吸収が早い。一年もしたら、嫌でも関西弁に染まっていくやろ」


 伊吹さんは、あまり心配していないようだった。




 翌日、また私はおどおどしながら、登校した。


 やっぱり誰も声をかけてこず、安心しながらも、転校してから一ヶ月は経つのに友達ができないことに改めて焦り始めていた。


 友達って、どうやって作るのだっけ。


 たしか――東京にいたときは、幼稚園が一緒だった子が小学校も一緒で、彼女つながりで友達ができていった……。


 そんなことを考えて席に座っていると、肩を叩かれて目が飛び出るほど驚き、振り返った。


 ふわふわした長い髪の女の子が、そばに立っていた。


「おはよう、佐上さがみさん」


「お、おはよう……」


 誰さんだっけ、と聞く前に彼女は私に顔を近づけてきた。


「佐上さん、葛原かずはら伊吹と一緒にいるって、本当?」


「え……? 伊吹さんのこと?」


 どうやら、誰かに目撃されていたらしい。


「うん。神戸、案内してもらってるの。親切だよ」


「ひえー。ただの親切ちゃうと思う。葛原伊吹やもん。絶対に何か企んでるで」


 彼女の言い方は、不快だった。


「伊吹さんは、いいひとだよ」


 言い切ると、彼女はあっけにとられたようだった。


「……せや。佐上さん、引っ越してきたばかりやもんな。葛原伊吹のうわさも、知らんよね」


「うわさ?」


「葛原伊吹は、このへんで一番の不良なんよ。ケンカして、何人も病院送りにして、先生にも逆らいまくって先生も葛原伊吹には注意できひんとか。なにより、ヤクザの息子!」


 早口で教えられた、伊吹さんの情報。


 すぐには飲み込めなくて、私はうつむいた。


 ああ、そういえば……。あの血は、ケンカしたあとだったのか。シャツも汚れているはずだ。


 それで男子たちはおびえて、私に手を出してこなくなったんだ。伊吹さんが、怖いから。


 伊吹さんが後ろにいるから、私は「バリやばい」ということになったのだろう。


「……情報、ありがとう」


「どういたしまして。佐上さん、葛原伊吹と話すの、ほんまに止めたほうがええよ」


 なんとか言葉を絞り出すと、彼女はにこっと笑いかけてから、女子の集団に紛れていった。


 私は何をどうしていいかわからず、先生が入ってきてもランドセルを机の上に置いたままだった。


 


 その日一日ボーッとして過ごして、私は約束の空き地に行った。


 行かない、という選択肢もあったのだろうけど。


 気がつけば、そこに着いていた。


 伊吹さんは既にいて、退屈そうに空を見上げていた。


 私の姿を見つけて、にっかり笑う。


「よう、七瀬。……ん? どうかしたん?」


「ううん、なんでもないよ。ね、今日はどこに連れていってくれるの?」


「今日は、ええもん飲ませたる」


 伊吹さんは私を先導するように、ゆっくりと歩きだした。


 


 連れていってくれたのは、神戸発祥だという喫茶店の本店だった。


 二人席に座った途端、伊吹さんは有無を言わさず、私にも自分にもカフェオレを注文する。


「私、カフェオレ飲めるかな」


 あまり、コーヒー類は飲んだことがなかったので、心配になった。


「砂糖入れたらええやん」


 伊吹さんがどうしてこれを強引に注文したか、はカフェオレが運ばれてきてからわかった。


 小さなバケツ、と称してもいいほど大きなカップにカフェオレが、なみなみと入っていたのだ!


「すごーい、これ!」


「すごいやろ。カフェオレボウル、っていうんや」


 伊吹さんは、得意げに笑っていた。


 きっと、私を驚かせたかったんだろう。


 彼の笑顔を見ていて、ぽかりと思う。


 このひとは、本当に悪いひとなの?


「……伊吹さん」


「んー?」


 カフェオレを口に運ぶ伊吹さんに、思い切って言ってみる。


「今日、クラスの子が伊吹さんのこと教えてきたの」


「なんて?」


「……このあたりで一番の不良だって。何人も病院送りにして、先生も伊吹さんを怖がってて、親はヤクザだって……」


 一気に言ってしまって、彼の様子をうかがう。


 伊吹さんは動じた様子もなく、優雅とも言える所作でカフェオレを飲んでいた。


「ケンカで病院送りにしたんは、一回だけ。加減できんくて、骨折させてもた。中学の頃の話やな。俺は、中学のとき一番荒れとった。先生にも、髪を黒に染めるように言われて、抵抗しまくった。暴力沙汰にはしとらんけどな。それで教師の言うこときかん、って話になったんやろ」


「黒に……? ってことは」


「これは天然。じいちゃんが、オランダ人なんや。だからか、俺の髪は生まれたときからこの色」


「それで……」


 元々の色なのに黒く染めろと言われたら、たしかに嫌だろう。荒れていた時期なら、なおさら。


「だから、高校は自由な校風のところ――校則きつくないところ、選んだんや。今は別に先生と敵対してへん。……で、まあ親がヤクザなんは、ほんまや」


 そこで、私は凍りついた。


「っていっても、親父は下っ端やったけどな。もう死んだし」


「死んだの……?」


「事故死ってことになっとうけど、多分やらかして消されたんやろな」


 伊吹さんはため息をついて、カフェオレのカップを置いた。


「私と初めて会ったときも、ケンカしてたの? 血がついてたよね?」


「せやな。歩いとったら、中学のときの知り合いに偶然会ったんや。いきなりケンカ売られて、しゃあないから相手した」


 やはり、あのときの血はそういうことだったのか……と私は納得する。


「……ま、そういうことや。うわさは大げさやけど、うそとは言われへんな。どうする? 七瀬」


「どうする、って……」


「別に、ええよ。ここで立ち上がって、店出ていっても。あ、カフェオレは飲んでいきな。もったいないやろ」


「…………」


 私は黙り込んで、知らないうちに出てきた涙を拳でぬぐった。


「泣かんでもええやろ」


「ごめんなさい。私、立ち上がらない。ここにいる。伊吹さんが大丈夫なら、神戸案内続けてほしい」


「わかった。……ええ子やな、七瀬」


 私は、いい子じゃない。うわさを信じて、伊吹さんを疑った。たとえ、少しでも。


 たくさん話して、色んなことを教えてくれる伊吹さんじゃなくて、今日初めて話したクラスメイトの言葉を信じようとしたのだ。


 私は、悪い子だ。


「なーなーせ。泣いとったら、目立つやろ。泣き止め」


「うん……」


 私はポケットから取り出したハンカチで目元をごしごしぬぐって、どうにか涙を止めた。


「でも、ええ機会や。元々、今日で最後にするつもりやってん」


 伊吹さんの言葉に、私は目を見開いた。


「すまんな。うそ、ついた。テスト期間やから時間あったんやなくて、もう引っ越すから学校は行ってなかったんや」


「なんで、うそついたの?」


「まあ、ええやん。……なあ、七瀬。今の自分の世界は、せまいやろ」


 いきなり問われ、私はあいまいにうなずく。


「しゃあない。子供のときは、世界がせまくて当たり前や。でも、七瀬がもっと大きくなったら、気づくはずや。世界はそんなにせまないって。学校が気に入らんのやったら、違う学校探してもええ。違う形態の学校もあるから、そういうところ行きたいって言ってもええ。親と相談しなあかんから、簡単にはいかんやろけどな。……それに、もっと大きくなってからの話やけど、神戸が気に入らんかったら、出ていってもええんや」


 出ていってもいい、と言われて私はハッとした。


「あんまり、好きになれんのやろ」


「……うん」


 真剣に問われたから、私は正直に答えた。


 だって、まだ町には慣れないし、神戸弁はしゃべれないし、学校は嫌だし、坂道が多くて疲れるし。


 嫌なことがいっぱいあって、好きなんて思えない。


 伊吹さんとの時間は、そんななか、きらりと光る大切な時間だったのに。


 それが終わってしまうのかと思うと、哀しくてしかたがなかった。


「明日、引っ越すんや。母さんが、親父のこともあってこのままやと肩身狭いから、言うてな。母さんの実家に、行くことになった」


「……そこは、どこなの?」


 私の問いに、伊吹さんは軽く首を振った。


「秘密」


「ど、どうして」


「俺とお前の縁は、これきりや。……あ、そうそう。これ、せんべつ」


 伊吹さんは、荷物置きに置いていたビニール製の袋を、私に渡してくれた。


 袋は灰色で、町の風景がプリントされている。


「これ、なあに?」


「チョコケーキ。なかに栗が入ってて、おいしいで。ケーキの上には、クマの絵が描かれとう。神戸名物のひとつや。ま、もらっとき」


「……ありがとう。私、伊吹さんにおごってもらったり、案内してもらってばっかりで……私が、何かあげないといけないのに。もらっちゃって、いいの?」


「気にせんで、ええ。俺、バイトしとったし。小学生に金出させるほど、鬼ちゃう」


 伊吹さんは笑って、カフェオレを飲み干していた。


「どうして、どこに行くか言ってくれないの」


 なおも食い下がると、伊吹さんは呆れたように息をついていた。


「俺の行き先を知ったところで、どうもならんやろ。俺は、もうおらんのやから」


「そ、その……手紙とか、出したいし」


 いまどき、小学生でも携帯電話を持っている子はいるけど、私は携帯電話を持っていなかった。


 手紙、と聞いて伊吹さんは「古風やなあ」と笑っていた。


「七瀬。こうやってお前を連れ回すのも、ほんまはあかんって、わかっとう。俺は、うわさになるようなやつやし。……でも、あんまりお前が哀しそうやから、何かしてやりたくなってな。せやけど、ここで終わりにせんと。ああ、せや。俺が引っ越したことはクラスメイトには言わんようにな」


「どうして?」


「いじめっ子は俺におびえて、お前にかまわんようになったやろ? 俺がいなくなったって知ったら、また七瀬をいじめるかもしれん。だからや」


「……わかった」


 私はうなずいて、ぬるくなったカフェオレをすすった。


「さっき言ったように、成長したらいくらでも広い世界に飛び出せる。それまで、がんばり」


 優しくはげまされて、私はうなずきもせず、ただじっと伊吹さんを見すえていた。


「伊吹さんも、世界に飛び出すの?」


「そんな、たいそうなことは考えてへんけど。俺、実は菓子を作る職人になりたいんや」


「パティシエ?」


「そうそう。よう知っとうな。俺は、親父と一緒にはならん。中学のとき、ケンカばっかりしとったんは、しょっちゅうケンカ売られたせいもあるんや。親父がヤクザやから、俺もなると思われたんやろな」


 伊吹さんの目が、優しく私をとらえる。


 彼の目は、髪と同じで少し色が薄かった。髪の色とは違う、赤みがかった茶色だ。


 その目に見入っている内に、彼は口を開いた。


「七瀬。さよならや」




 そのあと、伊吹さんは私を家の近くまで送って、「元気でな」と言い残して行ってしまった。


「伊吹さん、ありがとーっ! 私、伊吹さんのこと忘れないよ! ……ううん、忘れへんよ!」


 下手な関西弁で最後に付け加えると、伊吹さんは振り返って「どういたしまして」と芝居がかった様子で返事をして、歩いていった。


 


 


 


 ――あれから、九年が経つ。




「七瀬ー、このカフェオレ、びっくりするほど大きくないやん」


 正面に座るすずが、カフェオレのカップを見下ろして口をとがらせる。


 他のカフェに比べれば大きめのカップだが、かつての驚くべき大きさのカフェオレのカップは、もうない。


「……あ、そうなの。私がびっくりしたって話したカフェオレボウルは、もうなくなっちゃったの。それ説明する前に、鈴が店員さん呼んで注文しちゃったから……。いつから変わったかは、忘れたけど」


 いつか伊吹さんと初めて来た喫茶店に、私は友人を案内していた。


 私は大阪の大学に進学し、神戸から通っていた。


 鈴は、生まれも育ちも大阪だ。


 鈴が、「身近すぎて、神戸観光ってちゃんとしたことないねん」と言ったものだから、つい「案内しよか?」と提案したのだ。


 私は鈴と一緒に海を眺め、異人館を巡った。鈴が異人館のなかに入りたいと言ったので、チケットを買って何軒かなかに入った。


 歩き疲れたところで、この喫茶店に入って驚くほど大きなカフェオレの容器について話したところで、鈴がすぐさまカフェオレを注文してしまったという寸法だ。


「まあ、ええわ。カフェオレ好きやし」


「ここのカフェオレ、おいしいやろ」


 そういう私も、カフェオレを頼んでいた。


 カフェオレを見下ろし、つかのま共に行動した彼を思い出す。


 伊吹さんの髪は、今思えばカフェオレの色に似ていたかもしれない。


「どうやった? 神戸」


「洋風で、なんとなくおしゃれな町やわ」


 感想を問うと、鈴が褒めてくれたので、嬉しくなる。


「大阪に比べたら、小さく感じるやろ」


「せやなあ。……七瀬って、生まれも育ちも神戸やっけ?」


「ちゃうよ。小学校四年生まで、東京おってん」


「えー! そうなんや!? 今、初めて知ったわ。生まれも育ちも関西やと思ってた。全然、東京っぽくないわ」


「それ、どういう意味」


「褒めとるんや! 関西弁、完璧やん!」


「……初めは、苦労したで。全然、神戸弁しゃべれんで、クラスメイトには東京の発音からかわれるし」


 苦い思い出だ。


 結局、小学校四年生の間に友達はできず、五年生でクラス替えがあって、面倒見のいい女の子が話しかけてくれるようになって、友達ができはじめた。そこから私の神戸弁は上達した。


 今では、標準語をしゃべるより神戸弁のほうをしゃべるほうが楽だし、電話などで標準語の敬語をしゃべることがあっても、関西のイントネーションを伴うようになった。


「そうなんや。大変やったんやな」


「うん」


「……あ、もうこんな時間。そろそろ出なあかんな」


 鈴が、テーブルに置いていたスマホをタップして時刻を表示させ、つぶやいた。鈴はこのあと、用事があるらしい。


「わかった。行こか」


 私は急いで、熱いカフェオレを飲み干した。




 鈴をJRの三ノ宮駅に送ったあと、私は駅から出て歩き出した。


 私も、今日は用事があった。


 約束しているわけじゃないけど。


 


 あの日、伊吹さんが言っていたことが嘘だとわかったのは、私が中学生になってからのことだった。


 どうして、学校を休んでいるのに制服を着ていたのか?


 考えてみれば、すぐにわかることだった。


 「引っ越し」が嘘だったのだと。


 なぜ嘘をついたのか。


 理由は、わかるようでわからなかった。でもきっと、私のためだったのだろう。


 しかも伊吹さんは、今も神戸にいるらしい。


 それを知ったのは、この前行われた小学校の同窓会で、だった。


『佐上さん。そういや、葛原伊吹とよう一緒におったんやったな。こわー。まだ付き合いあるん?』


 クラスごとではなく学年ごとに行われた同窓会には、伊吹さんのうわさを教えた彼女もいた。


 彼女は金に近い色に髪を染めて、化粧も濃かったので、一瞬誰だか、わからなかった。


 結局、名前は思い出せなかったが。


『ううん。だって、伊吹さん引っ越してもうたし』


『引っ越し? そうなん? せやったら、あの子の見間違いやろか。○○って店で、葛原伊吹みたいな男見かけたって、友達が言うてたで』


『…………え』


 そこで私は、「パティシエになりたい」という伊吹さんの夢を思い出したのだった。




 ○○に着いて、私は深呼吸をしてからなかに入った。


 いらっしゃいませー、と女性の声が響く。


 幸い、他にお客さんはいなかった。


 最近オープンしたというこの店の情報は、ネットでチェックしておいた。


 神戸はスイーツ激戦区だが、甘さ控えめなところとかわいらしいケーキの見た目が受けて、健闘しているらしい。


 色とりどりのケーキやパイが、ガラスケースのなかに並べられている。


 うさぎをかたどったホワイトチョコを載せたケーキもおいしそうだったが、私はネットに載っていた「モンブランとチーズケーキが絶品」という情報を信じることにした。


「え、ええっと……モンブランとチーズケーキを、ひとつずつ」


「はい、かしこまりました。ご自宅用ですか?」


 女性は手際よく、ケーキをトングでつかんで取ってくれる。


「はい、自宅……で」


 彼女がケーキを包んでくれている間に、私は思いきって尋ねた。


「あの! ここに、葛原伊吹さんっていますか!?」


「……葛原? 葛原じゃなくて、白山しらやま伊吹さんなら、うちの店員にいますけど」


「そ、そのひと呼んでもらってもいいですか? すみません。あ、私は佐上七瀬っていいます」


「……いいですけど」


 彼女は不審そうにしながらも、もうひとりいた店員さんに耳打ちして、厨房があると思しき奥に行ってしまった。


 その間にもうひとりの店員さんが、会計を済ませてくれる。


 袋を受け取ったときに、ちょうどさっきの店員さんが帰ってきた。


「名前言うたら、わかったみたいです。お会いになるなら、裏口で。ここから出て、右に行ったら狭い道がありますので。そこを歩いていったら、裏口があります」


「はい! ありがとうございます!」


 大げさなぐらい頭を下げて、私は礼を述べた。




 言われたとおり、狭い道を歩いていくと、店の横に設えられた扉が開いた。


「……あ」


 本当に、伊吹さんだった。


 あまり、変わっていない。あの頃、もう成長期は終わっていたのだろう。特徴的な髪の色に、思わず目を細める。


「ほんまに、七瀬? 七瀬って、あのちっこい七瀬やんな。小学生の」


 伊吹さんは私に近づいてきて、見下ろした。


「休憩、十五分しかないんや」


「あ、ごめんなさい。貴重な休憩時間、使ってもらって」


「ええよ。それにしても、ようわかったなあ」


「同窓会で、元クラスメイトが教えてくれて……」


「うわー。基本は厨房におるから、大丈夫やと思ったんやけどな。たまに、忙しくて販売員が足らんときに手伝うんや。そのときに見られたんやろな……」


 伊吹さんは深々と息をついて、壁にもたれていた。


「あの……伊吹さん。引っ越しって、うそだったんですね」


「んー? 半分うそで、半分ほんまやった。『明日、引っ越し』ってのが、うそや。あれから何日後やったかなあ……ほんまに引っ越したし」


「なんで、そんなうそを」


「まあ、どうせ俺がおらんようになるのに、これ以上かまったら残酷やなって思ったのと……お前が、俺のうわさ聞いてもうたから。ちょうどええ機会やと思って」


「引っ越しって、どこに引っ越したんですか?」


「大阪」


「近っ」


「せやろ?」


 私の反応が面白かったのか、伊吹さんはからから笑っていた。


「母さんの実家、大阪やから。そこの高校に転校して、卒業したら製菓学校行って――しばらく別のとこで働いとって……この店に雇われることになって、神戸に戻ってきたんや。もう、俺のこと覚えとうやつおらんやろ、思たけど甘かったな。これからは、店長に頼んであんまり顔出さんようにせな」


「店長さんは、伊吹さんのうわさとか知ってるんですか?」


「知っとうよ。知ってて雇ってくれた。気のええひとやで」


「苗字が変わったのは、どうして?」


「苗字を母親の旧姓に変えたからや。あのときは親父が死んで間もなくてゴタゴタしとったから、苗字もまだ変えてなかったけど。……で、七瀬は今――」


 ふと、伊吹さんは話題を変える。


「大阪の大学に、ここから通ってます」


「大学生かあ。早いなあ」


 伊吹さんは感心したように、私を見下ろした。


「結局、七瀬は今も神戸におるんやな。好きになれたん?」


 その問いに、私はうなずいた。


 友達ができて、馴染んでいったから――きっと、好きになれたんだろうけど。


 その前に、伊吹さんが温かく案内してくれたから……伊吹さんが、好きになるきっかけをくれたんだと思う。


「伊吹さん、また神戸、案内してくれませんか」


「……え。今となっては、お前のが詳しいんちゃう?」


「じゃあ、私が案内しますから」


「わかったわかった。昔も言うたけど、敬語いらんで」


「……せやったら、敬語なしで話す」


 私が自然に方言を使うと、伊吹さんは嬉しそうに目を細めた。


「伊吹さん! 連絡先教えて! 休憩時間終わってまう!」


「ああ、はいはい……」


 そうして、私はスマホを取り出して伊吹さんの連絡先を手に入れた。


 


 水曜日の午後、私は駅で伊吹さんと待ち合わせをして、海に向かった。


 伊吹さんは基本、土日は休めないらしく、それなら……と午後の授業がない水曜日に会えないか、と私が提案したかたちだ。


「なつかしー。お前とこうして、海見たんやったなあ」


 伊吹さんは海を眺めて、つぶやいていた。


「なあ、七瀬。大学選びのときに、東京とかも選べたやろ。なんで、関西にしたんや?」


 突然とも言える問いに、私は少しためらってから口を開いた。


「……なんでやろ。でも、関西から出るって選択肢が出てこんかった……。家から通えたらええなあ、と思って。――多分な、伊吹さん」


「うん?」


「私の故郷はもう、神戸なんやと思う」


 海と山が共存する、どこか異国情緒をまとうこの町を、いつでも離れがたく、懐かしく思うようになった。


「それはきっと、伊吹さんが案内してくれたからやと思う。ありがとう」


 あらためて数年越しの礼を言うと、伊吹さんはいつかのように「どういたしまして」と言って笑った。




(了)

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