寒山拾得

 先日、神奈川近代文学館の井伏鱒二の特別展に行ってきた。丁度、文字・活字文化の日だというので、観覧料が無料になったのは、思わぬ幸運だった。

 展示を見ている最中、ふと、「寒山拾得」という文字に目が留まり、はっとした。

 その、はっとしたことは鮮明に覚えているが、おかしなことに、その四文字が何の説明書きにあったのか、さっぱり思い出せない。

 しかし、いずれにせよ、井伏鱒二には『寒山拾得』という短篇小説がある。説明書きはこの短篇に触れたものだったのだろう。そうして、僕がはっとしたのも、見た瞬間に、当該短篇のことを改めて思い出したからである。この作品については、過去にたしかに読み親しんだことがあったのだが、このときまで記憶の奥底に完全に埋れていた。

 そもそも、『寒山拾得』と題する近代日本の小説は、僕が知る限り三つある。すなわち、森鷗外の作、芥川龍之介の作、そして件の井伏鱒二の作。鷗外のものは大正五年、井伏のものは大正十五年に発表されている。芥川の作品は、初出の年代が不明であるが、大正年間に書かれたのは間違いなかろう。

 この他の文士のものもあるのかも知れぬが、それらは僕の認識の埒外らちがいにあるので、現下の僕には没交渉で、存在せぬも同等である。僕にとっての『寒山拾得』と言えば、鷗外、芥川、井伏による三作品のみである。

 鷗外のものは、まさに寒山拾得がいかなる人物であったかを説くもので、端的にこの二人の奇人の行跡を知るには最も適していよう。ただ、鷗外らしく衒学趣味ペダンチスムまみれたような筆致がいささか鼻にくきらいがある。

 芥川の作品は、電車の中から見かけた、襤褸ぼろを着た二人の男を本物の寒山拾得だと認識するといった内容のものである。彼の師たる、夏目漱石の『夢十夜』中の「第六夜」から半ば借りてきたような展開で、掌編にしても極めて短い。かつ、話としての面白みが薄く、哲学的な示唆や興趣も漱石の作の焼直し程度にしか感じられない。あの文豪・芥川にしては、どうも残念な印象であり、そういった意味において、却って一読の価値があるようにも思われる。

 これら二つの作品については、最近読み返す機会があった。

 それというのも、今年に入ってからだったか、昨年の末ぐらいだったか、僕には、妙に寒山拾得のことが気に掛る一時期があったためである。何がきっかけになったのか今となってははっきりしない。もともと、若い頃から爺むさいところがあった僕は、老荘思想だとか、呂洞賓りょどうひん李鐵拐りてっかいなどの仙人だとか、寒山拾得だとかといったものに対する盲目的な嗜好があったのだが、それがこの一時期、またぞろ頭を持上げ、取り分け、どういうものか寒山拾得のことが気になっていたのである。

 鷗外や芥川の作を読み直したのみならず、図書館で寒山詩に関する書物を立ち読みしたり、剰え、岩波文庫の『寒山詩』を購入したりもした。ただ、生憎あいにく、井伏鱒二の作については、そのとき念頭に上ることなく、すっかり識閾下しきいきかに隠れていた。

 なお、わざわざ購った文庫本『寒山詩』は、冒頭にある解説のページを二、三枚捲ったのみで、そこにしおりを挟んだまま、ほったらかしにしてしまっている。寒山拾得に対する僕の執着は『寒山詩』を購入するまでにピークを迎え、何故だか、本を手にした途端、まるで、おこりが落ちたように急速にしぼんでしまったらしい。そうして、当該冊子は、現下、机脇の足許に十数刷横積みにしてある、文庫本の塔の真中よりも下の方に挟まれてある。今、そこから改めて取り出してみたが、ページに折り目も指垢も認められず、ぴかぴかと新品同然たる威容である。ここのページにしおりを入れた、数ヶ月前のそのとき以降、寒山拾得に僕の気持ちが惹かれることはほとんど無かった。

 それが、既述の通り、近代文学館において「寒山拾得」の文字を見かけたとき、僕の意識は再びそこに向かい、はっとした。何となれば、井伏鱒二も、鷗外や芥川と同じ表題の小品を書いていたことを思い出したからである。

 そもそもこれら三作品のうち、僕が一番初めに出会ったのは、井伏のものであった。中学か高校のときだったと思う。新潮文庫の『山椒魚』の中に含まれていた短篇の一である。寒山拾得なる二人の奇人の存在を知ったのも、この本がきっかけではなかっただろうか。

 しかし、どんな筋立てだったのか、ちょっとすぐには思い出せない。また、その新潮文庫は、今でも持っているつもりだったが、近くに見当たらぬので、読み返すこともできない。仕方がないので、Webを渉猟し、あちこちの記事に当たってみたところ、朧気ながら思い出してきた。

 何でも、主人公には画工の友人がいる。恐らくは二人とも、あまり恵まれた境遇には無いらしい。ある夜、この二人が酒を呑んだ。酔っぱらって呑屋を出た後、往来で、寒山拾得の画――それは画工が好事家だか誰だかに売りつけようとして、とうとう売れなかったものなのだが、その画を広げ、画中の人物の仕草を真似て、げらげらと大笑いを始める。そのうちに二人共いよいよ興が乗ってきて、頭髪の恰好なども寒山拾得に成り切って莫迦笑いをしながら、互いに相手の笑い方を評するというものである。慥か、降り出した雨に、酔狂にも自身のみならず、売り物の画すらも濡らしながら、げらげらげらとやりあっていたように記憶する。滑稽でありつつも、生きることの悲哀というか、やりきれなさが、初読の折の、十代の僕にも十分に感じられた。何とも魅力のある作品だったように思う。

 実際、『寒山拾得』を冠する三小品の中で、どれが最も佳なるかと問われるなら、僕は迷いもなく井伏のものを推すだろう。それなのに、あの数ヶ月前の一時期、鷗外と芥川の作は思い出しながら、井伏のものには全く意識が向かわなかった。何とも、道理や辻褄が合わぬことで、不思議な気がする。

 ところで、井伏の作中の画工も描いたとおり、寒山拾得の図柄は昔から多くの墨客たちが筆を濡らし画題としてきた。有名なところでは、顏輝の筆と伝わるもの、狩野山雪の描いたもの、曾我蕭白によるものなどであろう。いずれも、一癖も二癖もある不敵な面魂の二人が、人を食ったような、肚の中に一物を抱えているかのような、何とも魅力的かつ厭らしい表情で、にやにやしている。寒山と拾得の真面目しんめんもくは、それぞれ文殊に普賢とも言われるが、とてもとても菩薩様が顕現なされた仮の姿とは見做みなし難い悪人面である。

 僕は、この三幅――正確には、五幅――について、実物を目にしたことがあったと記憶する。慥か、上野の国立博物館だったかどこだったか。一度に三つとも見たような気もするが、そんな展覧会でもあったものだろうか。何でも、十年、事に依ると二十年近くも前になりそうで、どうも判然としない。Webで少し調べたところ、目的とする答えは見つからなかったが、現在、それこそ上野の博物館で、寒山拾得に関する展示会が行われていることを奇遇にも知ることができた。しかも、二つも開催されている。一つは、横尾忠則による「寒山得」と題するもの、もう一つは「東京国立博物館の寒山拾得図―伝説の風狂僧への憧れ―」という、博物館所蔵の寒山拾得にかかる画を一室に取り揃えて公開するもの。先述した三点の画のうち、顏輝の作とされる幅は見ることができるらしい。

 何とも不可思議な巡り会わせである。

 これは、どう考えても、寒山拾得に呼ばれているに相違あるまい。殊に、後者の展示は十一月五日までとなっており、残りの期日がわずかになっている。

 菩提薩埵ぼだいさったのご召喚とあらば、否やとは言うべからず。早速、家人を説き伏せて、一緒に上野まで行ってきた。

 横尾忠則の作品は表慶館、博物館所蔵の画は本館二階の特別一室で展示が行われている。

 表慶館は百年以上前のネオ・バロック様式の洋館で、建物自体が重要文化財に指定されており、特別展等が開催されていない場合、館内は非公開だという。かかる歴史的近代建築物を、内側から実地に観覧することができる機会という意味でも、今回、上野まで行った価値は大きかった。石の柱を見ながら、イオニックオーダーだの、コリンシャンオーダーだの、コンポジットだの、学生時代の選択科目で習った、建築史に関する術語を久しぶりに懐かしく思い出した。

 本館の方は、平日だというのに、実に沢山の海外からの人と、修学旅行生の姿があった。寒山拾得に関する展示は一室のみだが、その他の美術品や史料等の展示は非常に多岐に亘っており、一日居ても見尽されるものではない。

 なお、展示品の詳細については、ここでは触れまい。興味のある方は、上野まで足を運ばれることを推奨申し上げる。


 さて、博物館を堪能した後は、隣の浅草まで足を延ばさねばなるまい。目当ては神谷バーの電氣ブランである。コロナ禍以来、絶えて足を運ばなかったので、四年振り以上になろうか。

 実に楽しみである。

 よろしく一杯聞し召した後は、家人と二人、寒山文殊、拾得普賢に成り切って、往来の真ん中でここを先途と呵呵大笑してもいい。

 げらげらげらげらっ――



                         <了>
















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