ChatGPTなどAIの“脅威”に創作者はいかに向き合うか

 先日OpenAIのCEOが来日し、首相と面会した話題がニュースになっていた。

 その人の姿を始めて見たのだがずいぶん若いなと思った。

 昨年、ChatGPTが公開されて以降、その利便性を称揚すること以上に、むしろ、ネガティヴな影響を語る言説がかまびすしい。

 曰く、個人情報や著作権が脅かされるだの、アウトプットに嘘や誤りが多いだの。或いは、ホワイトカラーの仕事が無くなるだの、教育現場において生徒や学生の知識や思考力の育成が阻害されるだの。

 実際、イタリアでは同国のIPアドレスへのChatGPTのアクセスがブロックされ、ドイツなどEU諸国でも、同様の方向で検討されているという。


 慥かに、現下のChatGPTの機能にさまざまな問題があるという事実は否めまい。しかし、思うに、それも早晩解決されて行くことは間違いなかろう。


 何だか、すごい時代になってきたものである。


 僕が学生の頃は、まだまだアナログが主流の世の中だった。せいぜいパソコン通信というものが出始めた頃で、もとよりWebなどというものは一般化していなかった。

 したがって、何かを調べたいときに、キーワードを打ち込んで検索などといった手軽な手段は行使しようもなく、知っていそうな人に聞くか、図書館や書店に足を運ぶかであった。図書館や書店に行ったところで、膨大な書籍の中から、自分が調べたい情報が書かれている書物を見付けるのも、その書物の中のどのページに書いてあるのか探るのも、ある程度の時間と労力を要した。

 検索ワードを入力してエンターキーを押すだけで、それらしい候補――もちろん玉石混交ではあるが――がリストアップされてくるお手軽さとは、比べようもないほどに格段の不自由さがあった。

 また、スマホやガラケーどころか、ポケベルすら普及していなかったため、友人などとの待ち合わせは「六時に駅前広場の電話ボックスのそば」などと、あらかじめ時間と場所とをしっかりと約束しなければならなかった。そうして、決まった時間に相手が約束の場所に現れないときなどは、一体どこにいるのか、連絡の手段もないため、いらいらやきもきしながら過ごすということがしばしば起きていた。

 これなども、現代であれば、すぐにLINEなどで相手と繋がり、今どこなのか問い合わせれば済む話である。

 おそらく、現代の若い方にとっては、利便性の高い情報インフラは生まれた頃からそこにある当り前のシステムであり、昭和の時代の不便さを話としては知っていても、実感としては、イメージできにくいかも知れない。

 1990年代以降、次第に仕事や生活の中に、PCや携帯などをも包含する情報技術(IT)が浸透し、そしてすぐに不可欠のものになり、人工知能(AI)の存在もクローズアップされるようになった。

 それでも、例えば、チェスや将棋や囲碁などのボードゲームで、AIが、プロのプレイヤーや棋士に勝利するのは、まだまだずっと先のことという認識が一般だった。だが、その大方の予想は、あっと言う間に覆された。

 今や、AIの能力はあらゆる分野で人間の知能を凌駕しつつある。


 昨年は、特にそのような話題が多く、ChatGPTの登場の他にも、AIで描いた絵画がアメリカの品評会で優勝するなどという現象も起きた。

 芸術や文学といった、本来最も人間らしいクリエーティヴな活動をも、AIにお株を奪われる時代が到来しつつある。

 この現実を前に、芸術や文学を嗜好し、創作活動に自らの存在意義を感じていた多くの人達の絶望や怨嗟の声があちこちから聞こえてくる。


 では、AIの発達によって、芸術作品や文学作品を自身の手で作り上げるという、創作の楽しみは、向後、人間から奪われてしまうのだろうか?


 僕は、創作そのものを純粋に楽しむという、その核心部分が脅かされることは、毫も無かろうと思うのである。

 人間が創作という行為自体を楽しむつもりであれば、どんなにAIが素晴らしいものを作ろうが、それは自身とは没交渉の事象であり、己の創作活動に何ら妨げになるもこともないだろう。

 自分は自分の思うままに、創作の楽しみ自体を享受すればいいだけである。

 もし創作関連で、AIに大いに侵食されそうなものがあるとすれば、それは創作という行為に係る純粋性から少し離れたところにあるもの――例えば、己の作品を衒い、他者から一目置かれたいとか、或いは、創作行為の対価を得て口を糊しようとか、そうした、創作の純粋性とは別個に存在する利害に他ならないように思う。


 ただ、創作活動の代価に金銭を得たいという、ぎらぎらした欲求は措いておくにしても、自作を人に読んでもらい褒められたいという願望から、自由になることは容易ではない。

 そもそも、このような衆目の場に自作を投稿しようという人――僕も含めて――は、多かれ少なかれ、誰かに読んでもらいたい、出来れば褒めてもらいたい、あわよくば、人気者になりたい、そしてその先に金銭的対価が得られれば幸せという人たちであろう。

 さもなくば、自作を他者の目に触れさせる必要などないのだから。


 もう、随分前に聞いたものだが、どこだかの大きな寺の偉い管長だか座主だかの談話に、「この老境になってみれば欲を断つということも、それほど困難には思われなくなってきた。ただ、それでも、なかなか断ち切るのが容易でないたぐいの欲というものが一つある。それは、名誉欲である」という言及があったことを記憶している。


 この名僧にして然り。いわんや凡夫に於いてをやである。


 要するに、創作という行為そのものを純粋に楽しむという三昧境からいささか足を踏み外し、他者の目などに対する下心だの色気だのといった煩悩に、畢竟囚われてしまっているのが、僕も含めた創作者の多数であろう。

 AIの発達によって、自作を人に褒めてもらったり、金銭的利益を得たりする機会が奪われてしまうというのであれば、煩悩具足の凡夫にとっては、それはそれは随分と面白くもないわけである。


 ただ、こういう考え方も出来はしないだろうか。

 すなわち、例えばAIの助けを借りつつ、自分一人だけでは到底作り得ないような作品を生み出すというのは、むしろ歓迎すべきことにはなるまいか。より素晴らしい作品が、それで実現するのであれば、そこに楽しみというものは、おのずから存在するのではなかろうか。

 さらに、それを人から褒めてもらったり、幾らかの金銭的利益を得たりすることができれば、それはそれで喜ばしいことになるのではなかろうか。


 ところで、創作者には、一人一人、創作における細部の仕様と言おうか、作品のディテイルに対する微妙な嗜好というものが存する。

 例えば、文学であれば、その文士固有の文体(スティル)――好みの言回し、気に入った言葉の取捨選択。或いは、ストーリー展開や作品の構成に対する個人的な趣向、拘りなど。絵画であれば、その画工固有の描写(タッチ)や色遣い、造形の細部に対する思い入れなど。

 こうした、作者特有の微妙な好みを、AIが初めから察知し、提示してくれることは少なかろう。

 AIを活用して作品を作るにしても、AIが示してくれるのは、たとえそれがどんなに優れたものであっても、アイデアやヒントにしかならず、作者自身の嗜好と見事に合致した、本当に気に入った作品に仕上げるためには、AIと何度も何度も対話しながら、ディテイルを自分の好みに変化させ、好きなスタイルに作り変えていくという作業が不可欠になろう。


 僕は、そこに創作の楽しみを味わう余地があろうと思うのである。


 既述した、品評会で優勝したAIによる絵画にしても、製作者はAIに対し、さまざまな指示を出しながら、何百種類ものアウトプットを得つつ、さらに改良を加え、最終的にはトータル八十時間以上もの手間暇をかけて、当該作品を完成させたのだという。

 AIの助力を得ているとは言え、そこには、製作者個人の嗜好や思い入れが大いに反映され、正にこの人の作品と呼ぶにふさわしいものに仕上がったと言えるのではなかろうか。


 もちろん、「そんなものは、人間本来、作者本来のオリジナリティとは言えない」という主張もあるかも知れない。


 しかし、考えてみてもらいたい。我々自身のオリジナリティとは一体何なのだろうか? 換言すれば、我々は、真のオリジナリティを保有し得ると言えるのだろうか?


 佐藤春夫に『李太白』という作品がある。唐の詩人、李白を主人公にした小説である。

 それが今手許に無いので、うろ覚えで書くしかないが、こんなシーンがあったと記憶する。

 すなわち、李白の前で、仙人が彼の詩の一節を口ずさむ。李白は驚きつつも仙人に、「私の詩をご存じなのですか?」と誇らしげに尋ねる。すると、仙人は、その詩は李白のオリジナルなどではなく、もともと仙界に存在していた詩句であり、李白――慥か仙界からの生まれ変わりというような設定だったと記憶する――が識閾下に記憶していたものを、あたかも自作と錯覚して発表したに過ぎないと語る。おそらく、こんな内容であった。


 構造主義に少しでも触れたことのある人は分かるだろうが、我々は皆、目に見えない構造、秩序――それは社会や文化の根底に存在する――の影響を無意識に受けており、真の自主や自律というものは存在しないという考え方がある。

 自分のオリジナルな考えを主体的に述べているようであっても、実はそれは、その人物の周囲に隠然と存在する構造、秩序の影響下にあるというものである。


 あたかも李白の詩が、図らずも仙界に存する詩句そのものであったように、我々がオリジナルと錯覚しているものも、すべて自分以外の何かの影響を受けたもの、借り物に過ぎないというのが適当なのかも知れない。

 文学作品を創作するという行為も、太古から今までに存在して来た億兆を越える先人たちが営々と紡いできた遺産を焼き直し、作者の好みのアレンジを施しているのであって、まったくのゼロからそれまでに存在しなかったものを忽然と生み出しているわけでないことは間違いあるまい。

 したがって、作者の創作活動とは、とりもなおさず億兆もの先人の知恵の泉に浴しつつ、その水の飛沫を器に溜めて差し出す行為であり、オリジナリティと呼べるものが存在するとすれば、それは作者が好みの器をアレンジするところにこそあると言えるのではなかろうか。


 そう考えてくると、AIが、ビッグデータと呼ばれるものの中から言葉や文章を拾い出し、繋げ合わせ、提示してくるアウトプットとの連関が感じられる。

 人間独自の創作活動、作家個人のみによる創作活動と、AIのアウトプット、或いは、そのアウトプットの助力を得て仕上げた作品との差異は那辺にあるのか、甚だ混沌としてくる気がする。


 新見南吉の童話『おぢいさんのランプ』をご存じの方もいらっしゃるだろう。

 あるところに、ランプを売るのを商売にし、その仕事に誇りをもっている男がいた。ところが、科学技術の推移は残酷で、やがて電気の時世が到来する。

 「ランプの、てごはい(手強い)かたきが出て來たわい」と、初めは時代の変化を受け入れることができず、必死で抵抗を試みようと葛藤するランプ屋。

 だが、あるとき、はたと、「世の中の進むのにじやま(邪魔)しようとしたり--(中略)--何といふ見苦しいざまであつたことか」と悟り、商売物のランプに自ら石を投げつけて割り、すっぱりと商売替えをしたという話である。


 その、かつてはランプ屋だったおじいさんが、孫にこう語る場面がある。


「わしの言ひたいのはかうさ--(中略)--自分のしやうばい(商売)がはやつてゐた昔の方がよかつたといつたり、世の中のすすんだことをうらんだり、そんな意氣地のねえことは決してしないといふことだ」


 物事の大きな変革に対して脅威を感じるのは、今も昔も変わらない。

 僕らはこのおじいさんのように、AIときちんと向き合うことができるだろうか?



 ――なお、このエッセイの執筆にあたって、AIの助力はまったく頂戴していない。念のため。




                         <了>




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