幻の食べ物

 数日前から、是非とも今日買いに行こうと決めており、家人にも話していた筈なのだが、いざ、今朝になって、「今日は行かねばね」と普段より弾んだ声で家人に持ち掛けてみても、一向に反応が薄い。

 剰え、何を買いに行くのかすら、忘却の彼方にあるらしい。

 そこで、ヒントとして、長方形を空中に描いて見せたが、ピンとこないらしい。「iPad?」などと頓珍漢なことを言っている。

 あり得ない。

 立て続けに色々なヒントを口にしたところ、ようやく、「ああ、シウマイ弁当」と気付いてくれた。

「今の、アハ効果、出たでしょう?」と上機嫌に笑ってみたが、憮然たる表情で返ってきた言葉は「(アハ効果など)大して出ていない……」という残念なもの。


 シウマイ弁当とは、崎陽軒のシウマイ弁当のことである。これに家人は何らの思い入れも無いらしい。

 一方、僕にとっては、大の好物である。


 コンビニ弁当などと比べると、いささか値が張るのが悲しいところだが、まずは何というか、あのパッケージの意匠からして、何とも様子が好い。

 古来高貴とされる黄色を背景として、横浜の街並みが写った水晶玉に赤い竜が絡んでいる、昔ながらの雰囲気のある図柄も佳ければ、「御弁當」と墨痕鮮やかに書かれた文字の「當」の字が旧字体なのがさらに一段と良い――「弁」の字が「辨」ではなく、略字になっているのはいささか残念だが……

 また、容器の箱が経木なのが好い。その木の香りが仄かに遷っている、俵型のご飯が好い。少し固めなところも、実に良い按排である。

 筍、鮪、蒲鉾、玉子焼、唐揚、紅生姜、昆布といったおかずの取合せが佳い。デザートという立ち位置であろう干杏子も絶妙である。

 何より、この干杏子は、ドライフルーツ好きの家人への袖の下として有効に働くので、利用価値は極めて高い。


 そして、何と言っても、大御所のシウマイである――「シュウマイ」でも「焼売」でも「燒賣」でもない、「シウマイ」。この用字の由来がお知りになりたければ、webで検索なさるとよろしかろう――。

 このシウマイ、「冷めてもおいしい」というのが謳い文句であるが、僕に言わせるならば、「冷めておいしい」である。僕は決して電子レンジなどで温めるのは好まない。

 なお、崎陽軒には、特製シウマイというワンランク上のシウマイもあるが、それよりもこちらを選ぶべし。身の丈に合ったリーズナブルな価格の、昔ながらのシウマイ、これを冷えたまま、ビール片手に味わうのが何とも宜しいのである。

 弁当には、このシウマイが五個入っている。これでは足りないとおっしゃる健啖家の方であれば、六個入りのシウマイ小パックを追加なさるとよかろう。さらに、お土産には十五個入り、或いは、三十個入りのパックもある。また、十五個入以上には、醤油入れが、所謂「ひょうちゃん」なる陶製のものになるので、これも嬉しい。


 さて、いよいよ本題に戻るが、次の休みの土曜日――今日である――に、シウマイ弁当を買いに行こうと僕が思い立ったのには訳がある。

 すでにご案内の向きも多いかも知れぬが、「新型コロナウィルス感染拡大による世界的なサプライチェーンの混乱などの影響」ということで、おかずの一つである、鮪の漬け焼の調達が困難となった由。したがって、今年の八月十七日から二十三日までの期間、これを鮭の塩焼きに変更するという話題が、メディアでも報道されていたのである。なお、八月二十四日からは、再びもとの、鮪の漬け焼に戻るという。

 となると、逆に言えば、シウマイ弁当で鮭の塩焼きが食べられるのは、今だけということになる。今だけ、期間限定――こういうものに、人間の心理が弱いのは、すでに色々なところで言われているとおり。

 僕は何としても、鮭が入ったシウマイ弁当を食べねばと思い立った。

 もともとシウマイ弁当に何らの執着を持っていなかった家人にしてみれば、そのような僕の気持ちの高揚に、大したシンパシーは感じなかったらしい。


 しかし、世の中、家人のような人ばかりではない。当然のことながら、僕のように、レアもののシウマイ弁当を食べてみたいと考える人だって、あって当然である。そして、実際のところ、鮭入りシウマイ弁当に気持ちを高揚させた人は、相当な数に上っていたものと見える。


 僕の家の近所には、シウマイ弁当を売っている店が二つあるのだが、その近い方の店に行ってみたところ、シウマイ弁当どころか他の弁当もすでに売り切れており、入荷待ちの表示があった。慌てて、もう一店舗に回ってみたが、そこも同様。

 いつもであれば、ケースの上にうずたかく積まれている筈のシウマイ弁当が、今日は朝から払底しているのである。

 買えないのである。

 実は、そういう事態もあり得るのではないかとうすうす危惧していたため、開店時刻から十分後ぐらいには店を訪れたのであるが、僕はだいぶ甘かった。

 何でも、開店前から行列が出来ており、開店と共にすぐに売り切れたという。今日中に再び入荷する予定はあるが、いつになるかは分からないとのこと。

 しばらく呆然と立ち尽くしたが、その間にも、何人もの人が売り場を訪れ、シウマイ弁当のことを聞いていた。

 さらに、Twitterで調べたところ、あちこちの崎陽軒の売り場で行列ができている様子が、たくさん投稿されている。

 もう、お手上げである。

 家人は、朝のつれない態度を反省してか、その後も何度か売り場を覘いてくれたり、明日の日曜日には開店前から並んでおこうなどと言ってくれたりしたのだが、僕は首を横に振った。

 朝早くから並んでまで弁当争奪戦を演じる程の情熱は僕にはない。もう、還暦が見え始めている年齢だというのに、実に大人げないではないか。


 今から思えば、或いは僕らは皆、崎陽軒の深慮遠謀からなるマーケティングに致されてしまったのかも知れない。


 幻の鮭入りシウマイ弁当は、あくまで幻として、取っておこう。

 何、塩鮭よりも鮪の漬け焼の方がきっと旨いに決まっている。

 手の届かない葡萄は、必ずや酸っぱいというのが、太古の昔からの定石なのである。



                         <了>






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