吉田健一と漱石の猫と牧野伯爵

 神奈川近代文学館に「吉田健一展」を見に行ってきた。

 何でも、生誕百十年を記念するイベントで「文學のたのしみ」と題されている。

 吉田健一と言えば、名宰相・吉田茂の息子であり、母方の血筋は、明治の元勲・大久保利通に到る。

 その母方の祖父で、大久保利通の実子である牧野伸顯のぶあきは、外交官や枢密顧問官、勅撰議員、そして内大臣を始めとする様々な閣僚を歴任し、先の大戦における終戦工作にも一方ならぬ働きをしている人物で、最終的な位階勲等は従一位勲一等、爵位は伯爵である。五・一五事件や二・二六事件の際に襲撃されたが、難を逃れたという経歴もある。

 この牧野伯爵と言えば、夏目漱石の『吾輩は猫である』における登場人物のモデルの一人ではなかっただろうか。

 それは、次に引用するシーンである。

 成金・金田氏の奥方で、鼻持ちならない振舞いをする鼻子(主人公「吾輩」が付けたあだ名)が、苦沙彌くしやみ先生(「吾輩」の飼い主)を訪問しており、そこには、苦沙彌の友人・迷亭が同席している。


……「へえ、君の伯父さんてえな誰だい(引用註:苦沙彌の言)」「牧山男爵さ」と迷亭はいよ〳〵眞面目である。主人(引用註:苦沙彌)が何か云はうとして云はぬ先に、鼻子は急に向き直つて迷亭の方を見る。迷亭は大島紬に古渡更紗こわたりさらさか何か(引用註:いずれも上等な生地)重ねてすましてゐる。「おや、あなたが牧山樣の――何でいらつしやいますか、ちつとも存じませんで、はなはだ失禮しつれいを致しました牧山樣には始終御世話になると、宿やど(引用註:妻から見た夫のこと)で毎〻まい〳〵御噂おうはさを致しております」と急に叮嚀ていねいな言葉使づかひをして、おまけに御辭儀おじぎまでする……


―――数段落省略―――


……「その方が男爵でいらつしやるんですか」と細君(引用註:苦沙彌の妻)が不思議さうに尋ねる。「誰がです(引用註:迷亭の言)」「その鐵扇てつせんの伯父さまが」「なあに漢學者でさあ、若い時聖堂せいどうで朱子學か、何かにこり固まつたものだから、電氣燈の下でうや〳〵しくちよんまげを頂いてゐるんです。仕方がありません」とやたらにあごで廻す。「それでも君は、さつきの女(引用註:鼻子のこと)に牧山男爵と云つたやうだぜ(引用註:苦沙彌の言)」「さうおっしゃいましたよ、――中略――「そりやうそですよ。僕に男爵の伯父がありや、今頃は局長くらゐになつてゐまさあ」と平氣なものである。……


 おさらいをすると、この引用部の前段で、迷亭は自分の伯父が牧山男爵であるとかたって、金田夫人を敬服させるのだが、引用部後段、すなわち、鼻子が苦沙彌宅を辞した後に、実は迷亭の伯父というのは、牧山は牧山でも唯の旧弊な漢学者であり、牧山男爵というのは真っ赤な嘘だったということが種明かしされる。鼻持ちならない金田夫人を他愛もない嘘で包んで敬服させ、読者のシニカルな快哉を招くような場面である。

 僕はここで、迷亭が鼻子へのブラフに用いた「牧山男爵」のモデルこそ、牧野伸顯ではなかろうかと近代文学館の展示を見ていて思った。確か、何かでそういう解説を読んだことがある気がしたのである。

 ところが、この原稿を書くに際して調べてみると、年代的にそれはありえないことが判明した。牧野は最終的には伯爵までのぼるが、最初に男爵に叙せられたのが、一九〇七年(明治四十年)のことであり、それより前には当然爵位は有していない。漱石が『吾輩は猫である』を書いたのは、牧野の叙爵以前の一九〇五年(明治三十八年)から一九〇六年(明治三十九年)のことなので、牧野がモデルとすれば、漱石は未来を予め知っていたことになるが、そんな筈はない。また、牧野伸顯と漱石とは五、六歳ほどしか年齢が違わず、苦沙彌(漱石自身がモデルとされる)の友人である迷亭の伯父にしては、年が若すぎる。

 更によくよく調べてみたところ、明治時代の華族には、「牧野」の氏を有する人物が吉田健一の祖父以外にも五名ほど存在することが判った。田邊藩、長岡藩、小諸藩など、いずれの牧野氏も元藩主か、その子息である。

 もしかしたら、『吾輩は猫である』の「牧山男爵」は、これら大名華族の誰かをモデルにしたものかも知れず、僕がかつて読んだ気がする解説にもそのように書かれていたのかも知れないが、今となっては、忘却の彼方で確かめることができない。


 「吉田健一展」に関しては、まだまだ色々と書きたいことがあるが、今日はこの辺でいったんお仕舞にして置こう。

 はなはだ竜頭蛇尾の感があるが、後日気が向いたら続きをご披露することとしたい。



                         <了>




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