Blue Grand Waltz

Secret Wonderland

Blue Grand Waltz

 雨の臭い、樹々の臭い、獣の臭い、熟れた果実の臭い。

 青空が広がっているのに降りつける雨、生温い湿った風、生き残るための殺気を放つ野生動物の気配。

 蒼く、碧く、泥臭いこの場所に五感で生々しい生の気配を感じ取るその少女シエル・メイヤーズ 

はあまりにその場所に不似合いなドレスを着ていた。

 シエルの歳は13歳、身につけている透明な生地を重ね合わせた純白の美しいドレスは泥や煤ですっかり汚れてしまっている。

 黒く美しい髪からはキューティクルが失われ、触ればギシギシとした気持ち悪い感触と頭皮には砂や小石が溜まっているのが分かった。



「お腹が……空いた」



 時間が経って胃の中が消化されて食べ物を求めていただけではない。

 降り続ける雨に打たれ、それでも歩き続けて体力を消耗し、身体が冷えてしまった。

 オニオンのスープ、焼きたてのバターたっぷりのパン、鶏の丸焼き。

 こんな時に浮かぶのが食事だけではなく、父親と母親と弟の顔である自分に腹が立つ。



「着替えたい」

「お風呂に入りたい」

「美味しいものを食べたい」

「温かい布団で寝たい」



 視界が揺れる、真っ直ぐ歩けていないのだと分かった、でも姿勢を直す余力などない。

 身体が地面に倒れ込む、ぬかるむ泥と水に身体が沈んでいくようだ。

 あぁ、身体に降り続ける雨が冷たい、あんまり冷たくない泥が粘土質で気持ち悪い。

 自分が何をしたというのだ? ピアノの才能というギフトを神様から受け取っておきながらお金のために弾いたから罰を受けたのか?

 好きでもないピアノを弾く事を家族に強要され、それがたまらなくなって逃げ出したからいけないのか?

 お父さんとお母さんが大好きな弟から家族を奪ってしまったからなのか?

 


「これは、何に対する罰なのかしら……」



 ますます雨が激しくなってきた、きっとこのまま自分は大地へ還るのだ。そう、シエルはぼんやりと思った。

 目が開かない、指先が動かない、身体の感覚が無くなっていくのが分かった。

 『今際の際にも聴覚だけは生きているのだから、声をかけてやりなさい。生まれ変わって再び巡り逢うまでその人の声を聞けなくなるのだから』

 祖母が亡くなる時に医者に言われたのを思い出す、グズグズ……という野生動物の声と、こちらへゆっくり近づいてくる足音が聞こえてきた。



「食べられるのは……嫌だわ。だって、獣に食われた人間の死体は惨たらしいだというもの……」



 ああ、でも誰にも見られる事はないのか。狩りをやる動物は、食べ終えた残滓を埋めるんだっけ——



 シエルが目を覚ますと、目の前には美しいピアノがあった。

 そのピアノの鍵盤は曇り一つない白と黒、そのピアノのボディは光の反射と見る角度によって色合いが変わる。

 空は雲一つない紺碧の空、地面は泥や土や石造りではなくまるで磨き上げたガラスのようだ。

 周囲は美しい植物と花々、美味しそうなリンゴやベリーがなっている。

 遠くには麦畑や牧場のようなものが見える、この世界はまるで美しさや静けさというものを凝縮したようだ……とシエルは感じた。

 そして何よりこのピアノだ、これだけの美しいピアノからはどんな音色が鳴るのだろう?

 シエルは引き寄せられるようにその鍵盤に触れようとするが、ハッと我に還る。



「ダメよ……私は、ピアノの神様を裏切ったのよ!!」



 シエルが自分の中の大きな何かを否定すると、そのピアノの色は濁り、赤く錆びていきシエルの身体のあちこちから血が流れ出し、白く純白のドレスは血と泥に汚れていく。

 雲ひとつない紺碧の空は曇り、雷が鳴り始め大粒の雨が辺りを濡らし始める。

 遠くに見えた麦畑や、辺りの樹々は枯れ始める。

 


「ここでは自分を否定する必要なんてないのに」

「えっ……?」



 いつの間にか、自分のすぐ傍に見慣れない少女が立っていた。

 


「シエル、血まみれじゃないか。ドレスだってグチャグチャ、髪は土まみれ。さっきまでのキミはとても綺麗だったのに」



 シエルは彼女の言葉に今置かれている状況が普通じゃないことを悟る。

 当たり前のようにピアノを前に椅子に腰掛けていたけれど……そもそも、こんな場所にピアノがある事かおかしい。



「ここは……どこなの?」

「いつか、辿り着く場所。そしてシエルが辿り着いた場所だよ」

「そう……そうなのね」



 そう、自分はあの時に命を落としたのだ。

 死んだからこんな奇妙な場所にいるのだろう。

 


「罰を、受けたんだわ」

「何に対する罰なの? ボク、ちょっとよく分からないな」

「家族を裏切ったのよ。私を必要とする家族を捨てて、逃げたの。そして、自分の意思を裏切ってお金儲けのために、ピアノを弾き続けた……二重の罰よ、お父さんのお酒とお母さんの見栄のために弾き続けた。ピアノの神様に対する罰だわ」



 シエルの家、メイヤーズ家は没落した貴族の家だ。

 権力の闘争に負け、事業で失敗し、大きな借金を背負い、その返済ですっかり力を弱めてしまった。

 そんな時にシエルが生まれ、シエルがグランドピアノに興味を持ち、母に促され家にあったグランドピアノを弾いたらとても美しい音色を奏でた。



——そう、鍵盤を指で押してみて。ピアノにはね、神様が宿っているの。素直な気持ちで弾けば、きっとその神様は応えてくれるわ。



 まだ幼い頃の話だったはずだが、あの時の母親の優しげな声を覚えている。

 シエルはピアノの音に夢中になった。練習すれば練習するほどにピアノは自分に応えてくれた。

 それがたまらなく楽しかった……そのはずなのに。



「シエル、ここにはキミとボクしかいない。もう、何にも縛られる必要はないんだ」

「あなたは私の何なの?」

「ボクかい? ボクはエマ・ウィスレット。キミをずっと待っていたんだ」



 エマ・ウィスレットと名乗った少女は美しい白髪に、宝石のように美しい空色の瞳。白く透き通った肌に、柔らかな表情。

 まるで天使のような女の子だ、とシエルは思った。

 それだけに男の子みたいな話し方は少し残念だと思った、だけどむしろそれが親しみやすさを醸し出しているのかも。

 


「エマ、あなたは私にピアノを弾く資格があると思う?」

「むしろ、楽しく弾いてほしい。楽器はね、人間を一番素直にさせるんだ。楽器にとって一番幸せな瞬間っていうのは、気持ち良く弾いてくれる時なんだ」

「まるで、あなたが楽器そのものみたいに言うのね」

「ボクには分かるんだよ、だってここは……キミの世界なんだから」



 シエルはエマがにっこりと無邪気に、無防備に笑うとそれに釣られて頬を緩ませてしまう。

 シエルは錆びついた鍵盤に指を伸ばす、もう一度……ピアノは私に応えてくれるだろうか?

 実体のない身体に、汗が垂れる。



「ピアノの神様は、きっと怒ってないと思う。だってずっと、キミに逢いたがっていたんだから」



 シエルの奏でる旋律は切なく、苦く、だけど前を向いている……エマはそう感じさせた。

 今までのシエルのピアノへの想い、両親に対する想い、弟に対する想い、今までの後悔。

 それが全部乗っている、楽譜なんて存在しないシエルにしか弾けない曲。

 シエルの身体から泥が、煤が、血が消えていく。それに呼応するように、世界が蒼と碧を取り戻していく。

 ピアノからは赤錆や泥汚れが消えていき、徐々にその音は澄んでいく。



 ——ああ、どうしてこうもピアノを弾くのは楽しいのだろう? どうしてこんなにも私の心を旋律に乗せてしまうのだろう?

 


 シエルは何分も、何十分も、何時間もピアノを弾き続けた。

 思うがままに、伝えたいがままに、きっとこの演奏はシエルとエマにしか届かない。

 だけど……シエルが一番伝えたかったのは誰かはきっと、ここにいるのだろう。



「なんか、疲れちゃった……」



 何時間にも渡るシエルが演奏を終えると、椅子にもたれて隣にいるエマに声をかけた。

 瞼が重くて声を発するのがやっとなのだろう、エマが着ていた上着をシエルにかける。



「お疲れ様、シエル」

「少し眠るわ……」

「ねえ、シエル」

「……何?」

「ボクと、出逢ってくれてありがとう」

「何度でも出逢うわよ、きっと……ピアノのない世界にでもならない限り」



 シエルが笑みを見せると、そのまま身体から力が抜けていった。

 エマは涙を堪えて、言葉をかけた。

 そう、最後の最後まで聴覚だけは生きているのだから。



「おやすみなさい、またね。シエル」



 紺碧の空から雫が一滴零れ、シエルの顔を濡らした。

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