「あれ、渡君もう戻ってきたんだ。ん?どうした?」

 作業所のスイングドアを開けると、加藤さんと目があった。きっと、俺の表情が深刻になっていたのだろう。加藤さんは訝しんで尋ねた。

「別に何もありません」

 俺は、目を逸らして答えた。

「そう?あ、桜戸さんと会った?」

「いえ。桜戸さんがどうしたんですか?」

 俺が聞き返すと、加藤さんは気まずい表情になった。悪いニュースを伝えるときの顔だ。

「実はさ、渡君。今日田代君と一緒に夜間店長になってるんだよ。俺もさっき桜戸さんから聞かされたんだけど、聞いてないよね?」

「……は?」

 声にならない声が出た。

 夜間店長?何だそれは。俺は何も聞いてないぞ。

「だよね。今日時間大丈夫?」

「大丈夫ですけど」

「なら、申し訳ないけど、よろしく頼むね」

 そう言うと、加藤さんは本当に申し訳なさそうに売場へと出て行った。作業所には俺一人が取り残され、話しかける相手もいない。何か込み上げてくる物があったが、下っ端の俺は上司の命令に従うしかなかった。

 

 夜間店長は、本来の店長や店長代理が帰った後の業務処理を主な仕事としている。と言っても、特に難しい事は無い。

 例えば、当日期限切れ商品の値引き。戸締り確認。金庫管理など、A4用紙が二枚ほどあれば書き切れる内容だ。これを夜の七時から九時までの間にこなす。

 十八時を少し過ぎた頃にシフト上の業務を終えた俺は、十九時まで休憩することにした。

「あ、渡さん。渡さんは初めての夜間店長だし、今からもうやっちゃいましょう」

 年下の先輩田代さんに声をかけられた。「やっちゃいましょう」というのは、値引きをしようということだろう。

「そうしますか」

 確かに、初めてでは分からないことが色々とある。教えられながら業務をすれば、二時間で終わらないのは明白だ。

 俺たちは休まず、夜間店長業務を始めた。

「それで、まず何からするんですか?」

 俺は、カット台車を押しながら、同じく前を歩く田代さんに尋ねた。

「そうだな。渡さんは惣菜の値引きから始めてもらっていい?俺は野菜の方からやるから」

「わかりました。半額で良いんですよね?」

「うん、そう」

 俺たちは、値引きの機械を持ち売場へと出た。 

 年下の先輩とは、どうにも絡みづらい。

 俺は、商品に半額シールを貼りながら、田代さんとの関係性について考えていた。

 俺は、田代さんとは業務以外であまり会話をしてこなかった。話しかけづらくて敬遠していたのかもしれない。

 年長者を敬えという儒学的な考えを刷り込まれている俺は、ある種のパラドックスに陥っている。年上を敬えという思想と会社の先輩を敬えという思想。この二つの命題が、俺と田代さんの上下関係を曖昧なものにしているのだ。

 曖昧な人間関係は、使う言葉をも曖昧にする。使う言葉が曖昧では、言葉一つで関係が崩壊しかねないという緊張が生み出される。

 だから、年下の先輩とは絡みづらい。そしてそれは、年上の部下でも同じことが言えるだろう。

 まったく、学問と社会とは相容れないものだな。

「チッ、遅えなあ」

 変なことを考えながら値引きをする俺の背後で、そんな捨て台詞が吐かれた。

 俺は、その人が離れたのを察知して一瞥する。

 老人の男性だった。老人はよれた衣服と鍔の歪んだキャップを身につけ、片手に買い物カゴをぶら下げていた。その中には俺が値引いた惣菜が幾らかだけ入っているように見えた。

 哀れな奴。正直そう思った。捨て台詞のお返しに、鼻で嘲笑ってやったのだ。

 ふと、俺は値引きで辿った通路を振り返った。つい先程まで、そこには多くの商品が残っていた。しかし、今はもう陳列が穴だらけで閑散とし始めている。そしてまた、見知らぬお客さんが、虚ろな目で値引き商品をカゴに収めていった。周囲の一人客は、皆似たような目をしていた。

「あの、これも値引いてもらえませんか?」

 声のする方へ振り向くと、仕事帰りと思われる子連れの女性が、まだ値引きのされていない商品を差し出して、バツの悪い顔をしていた。彼女の手にある商品は、今日で期限切れだった。

「構いませんよ」

 俺は笑顔で応対した。マスクをしているため、相手の目には映らないだろうが、我ながら上出来の笑みだと思った。商品を値引いて渡すと、女性は嬉しそうに礼を述べて、子供と歩いていった。

 すると、周りにいたお客さんが次から次へと値引きを迫り出し、いつの間にか、値引きを待つちょっとした列ができた。俺はマニュアル通り、今日で期限切れの商品を値引いた。中には明日で期限切れの商品を差し出すお客さんもいたが、それは断った。それでその接客は終わりかと思ったが、そのお客さんは、すぐに今日切れの商品を選び出し持ってきた。

 みんな安い物に飢えていた。半額という刺激に引き寄せられる、ハイエナの如き動物に見えた。

 俺は終始笑っていた。機械のように固く笑った。そうしないと、冷ややかな視線を送っていることがバレてしまう。

 俺は嗤っていたのだ。

 笑顔の裏で何を思っているのかなんて、他人には分からない。それは当の本人しか知り得ないのだ。

 上辺のものが常に真実であるとは限らない。たとえ表面が白く見えても、その奥深くには真っ黒なものが蠢いていることもある。

 しかし、上辺が感触の良いものほど信じたくなるのが人の性というものだ。

 だから、俺は騙され続け、騙し続けている。感情を偽るのは人間の十八番だ。

 狐も狸も化かすのが上手いそうだが、人間には敵わない。

 俺は人間の本能的低俗さを見て、そう思った。

 

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