気づけば正午を過ぎていた。この職場ではよくあることだ。やることが多いと時間の経過も早い。

 それに、物思いに耽ると時間はさらに早く過ぎる。

「中島さんの退職、酷い話ですよね」

 俺は近くにいた加藤さんに話しかけた。

「酷いって?」

 加藤さんは小首を傾げた。どういう意味なのか考えあぐねているようだった。

「だって、腰を痛めて辞めたんですよ?あんなに忙しなく動き回って、重い物を持って。労災ですよ労災」

 俺は午前中そればかりを考えていた。確かに、何も言わなかった中島さんを擁護することは難しいし、擁護したくもない。だけど、決して若くない中島さん独りに重労働を負わせた責任は俺達にもある。考えた末に、俺はその結論に至ったのだ。

「でも、中島さんの仕事に俺たちがズケズケと介入しても良くないんじゃん?中島さんの仕事を取っちゃうわけだし」

「それは、そうですけど……」

「それに、体を壊して辞めるのは、サンカイじゃよくあることだよ」

 加藤さんの言葉に、俺は耳を疑った。

「よくあることなんですか?」

「そうそう、よくあるよくある」

 俺は加藤さんに聞いたのに、何故か売場から戻ってきていた高山さんが答えた。どうやら話に混ざりたいようだ。

「いやいや、山さん何の話してたか知らないでしょ」

「うん。何の話?」

 高山さんは、話を遮ることを特に気にせず、戯れて楽しもうとする子どものような顔で聞き返した。

「体を壊して辞める人多いよねっていう話」

「ああ。まだ辞めてないけど、鮮魚の橋本さんとかベイカリーの坂口さんとか、どこか痛めてる人は多いよ。病院行こうにも仕事で行けなくて悪化した人もいるし。そもそも、健康診断受けてない人もいるんや。因みに俺も五年くらい受けてないんや」

「そういや、俺も最近行っとらんな」

 加藤さんと高山さんの会話に、俺は返す言葉を失った。体の具合の悪い人が多いことにではない。ここに勤めている人間の多くが、危機感を抱いていないことにである。

 体を壊して辞める人が多いというのは、理解しようと思えばできる。スーパーは肉体労働だ。一日中立って歩き回って作業をするから、多い人は一日に二万歩ほど歩く。しかも、単に歩くだけではなく、重い荷物を運搬することも多い。若い内はそれもこなせるだろう。だが、年を重ねるに従って難しくなるから、体を壊すことは当然考えられる。

 そうではなくて、俺は、加藤さんや高山さんがその現実を認識しておきながら、特別の危機感を抱いていなければ、個人も会社も、何の対策も施していないことに絶句したのだ。

「そ、そうなんですね。あ、ちょっと俺休憩してきますね」

 俺は足早に作業所を出た。

「あんたら馬鹿なんじゃないの?」

 関係に終止符を打ちかねない言葉が喉元まで出かかっていた。

 俺は休憩室へと向かった。一時間半休憩の者は一時間の休みの他に三十分の小休憩が認められている。加藤さんがそれを取っているところは見たことがないが、俺は権利をしっかりと行使することにした。

「あ、渡君お疲れ〜」

 休憩室の扉を開けると浜部さんがいた。浜部さんは俺に気づき手を振った。

「お疲れ。どう、調子は?」

「うーん、普通かなあ」

 浜部さんは笑顔を絶やさず答えた。

 女性は本当に凄いと思う。

 勿論、みんながそういう訳ではないのだろうが、笑顔を絶やさない女性が多く見受けられる。それが単なる社交辞令の愛想笑いなのか、本気で笑っているのか、男の視点では見当もつかない。

 そういえば、あの人も笑っていたっけ。

「レジもこれから大変やね。中島さん辞めちゃったし」

「ん?」

 浜部さんは笑顔で細めていた目を開いて、キョトンと首を傾げた。

「中島さんって、誰?」

 そう聞かれて今度は俺が首をかしげた。すぐに同じ人物を共有できると思っていた。

「え?ほら、いつもトレー回収とかカゴの回収をやってた人だよ」

「ああ、あの人?へえ中島さんって言うんだ。最近カゴやカートが戻って来ないなと思ってたけど、辞めちゃったんだ」

 浜部さんは、特に取り留めることも無くそう言った。

 背筋が凍った気がした。思わず右手を後ろに回してさすってみたが、何ともない。だが、背筋は相変わらず凍っていた。

 怖い。そう思った。

「どうしたの?」

「あ、ううん。何でもない。それじゃ」

 俺は浜部さんから目を逸らし、碌に休むことなく休憩室を出た。とてもあの空間に居座っていられなかった。

 なんで、レジの浜部さんが中島さんの名前を知らないんだ。いつも、レジが困らないように下支えしてくれていたじゃないか。中島さんの頑張りを一番認知して然るべき立場の人、誰よりもまず中島さんを認めてあげなければならない人が、どうして中島さんの名前すら記憶していないんだ。

 頑張っているのに報われないことは多い。報われないだけならまだ良い。目の前で起こっているのは、報われないどころか、存在の認知もしてくれない現実だ。

 中島さんの存在がどうでも良いということは、トレーは片付いていて当然、カゴはあるべき場所に戻って当然だと思っている、ということではないか。

 ちょっと待てよ。勝手に物が整理されるわけないだろ。自分の為に頑張ってくれている人をどうでも良い存在としか認知しないだなんて、そんな残酷なことがどうしてできるんだ。

 作業所に戻る俺の足取りは速くなるばかりだった。

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