第2章 現場と理念

「ちゃんと聞いとんのかワレェ!」

 俺は、野菜の品出しのために俯いていた顔を上げて声のする方へ振り向くと、見知らぬ老人がこちらを見ながら立っている。どうやら、老人は俺に向かって怒鳴っているようだ。

 俺は老人に近寄って、目を合わせないようにしながら尋ねた。

「どうしましたかお客様?」

「だから、ここにあるはずの「森で育った卵」はもうないんかって聞いとるんや!」

 老人は「だから」をゆっくりと強調して文句を言った。

「ああ、そちらの卵ですね。ただいま在庫を確認してきますので、少々お待ちください」

「早よせえまいや鈍臭いなあ」

「申し訳ありません」

 俺は作り笑顔でそう言い残し、バックヤードへと下がった。

 確認するとは言っても、俺は青果部の研修中で、卵の保管場所など知るはずもない。そこで、食品部のチーフを探すことにした。

 しかし、チーフはどこを探してもいない。暫くして、喫煙所に行き着いた。そこに食品部のチーフはいた。

「すいません。お客様が「森で育った卵」をお求めなんですけど」

「ああ、あれね。あれ今ないげんて。今日はもう入って来んね」

「そうなんですか」

「うん。お客さんにもそう伝えといて」

 食品部のチーフは、タバコをふかしながらそう言った。

「え、僕がですか?」

「え?他に誰がおるん?」

「わ、わかりました」

 納得のいかない対応に悶々としながらも、俺は喫煙所から売場まで走った。走りながら、嫌な気持ちになる。次に何を言われるかは、想像に難くなかった。

「遅えな!卵取ってくるだけでどんだけ時間かかっとるんや!」

 老人は、唾がマスクを貫通して飛んできそうな勢いで怒鳴った。

「申し訳ありません」

 俺は深々と頭を下げた。

「それで、卵は?」

 せっかちな老人が尋ねた。

「それが、後ろに在庫はもう無いそうで、今日中に入ることも無いそうです」

「はあ?無い?」

 老人はキョトンとした。怒鳴れば絶対に手に入るとでも思ったのだろうか。無いという答えを想像していない顔つきだった。

「ワシはあの卵を買うためにわざわざこの店まで足を運んだんやぞ!なんに無いとか困る!どう責任取るんや!」

 老人は血相変えて捲し立てた。

「申し訳ありません」

 俺は平に謝るしかなかった。

「申し訳ないげんたら、早よ卵持って来いや!」

「ですから、その卵はここにはもう無いんです。別の卵ではいかがでしょうか?」

「ワシはあの卵を買いに来たんや!他の卵を買う気なんか無い!だからあの卵が無いと困るんや!」

「ですから……」

 この老人は、俺にどうしろと言うのだろうか。ここで卵を吐き出すマジックでもすれば良いのだろうか。そんな思考が脳裏を過ぎる。

 何を言っても、老人は納得しなかった。無いと言って謝っても出せの繰り返し。一体これはいつまで続くのだろうかと思ったが、不満を吐き出して満足したのか、老人は「品揃えの悪い店やな」と悪態を吐いて、どこかに行ってしまった。

 俺は取り敢えず、食品部のチーフに事の顛末を報告することにした。

「あ、そう」

 チーフの言葉はそれで終わりだった。

 報告したにも拘らず、何もフィードバックをしないのは怠慢ではないか。他に言うことがあるだろうと俺は思った。

 思ったが、口には出せなかった。

 ピンポンパンポーン。

「いらっしゃいませこんにちは。従業員の方はレジ応援お願いします」

 店内放送で、レジ部の人が早口で喋った。どうやら、レジは相当混雑しているようだ。早く行かなければならない。

 俺は、また走った。レジへは俺が一番乗りだった。

「次でお待ちのお客様はこちらへどうぞ!」

 俺は、空いているレジで会計を始めた。

 レジ打ちには多少の心得がある。何しろ、大学生の時はレジのバイトをしていたのだ。まあ、スーパーではなく飲食店だが。

 とは言え、卵の在庫を確認するよりも、こっちの方がやりやすい。

「そこのそれやって!」

 また怒鳴り声が聞こえた。ちらっと声のした方を見ると、向こう側のレジに、先程の老人と応対に困っている浜部さんがいた。

 老人はタバコの入れられたガラスケースを指さしながら怒っている。どうやら老人は、ガラスケースの鍵の在処も、老人がどのタバコを欲しているのかも理解していない浜部さんにイライラしているようだ。

 レジ部の誰かが助けてくれれば良いのだが、忙しくて誰も構っていられない。

「暇な時に、ガラスケースの鍵がある場所を聞いておこう」

 俺はそれだけ思って、手前に視線を戻した。

 少しして、誰かが浜部さんに代わって応対したようだ。

 時間は、今日も瞬く間に過ぎて行った。

 働き始めてもうじき二ヶ月になる。暑さのため、入社時に来ていた赤い制服は家の箪笥に仕舞われ、俺は今、通気性の良い黒の制服に身を包んでいる。

 その変化に合わせるように、俺の熱量は、現実によって冷やされる一方だ。

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