第47話 上杉神子3

 上杉神子が、「教授!」と縁側に呼んでも、猫は知らん振りだ。彼女は鞄からノートを取り出して、教授へ見せる。教授は、やはり動かない。まるで彼女には興味を示さない。それでも、彼女は構わなかった。紙芝居みたいにページを開いて、ノートを突き出すようにする。

「教授、見て下さいよ、私のノート」

「どうです。上手く書けているでしょ?」

「みんなが私のノートを見せろっと言うんです。でも、私が見て欲しいのは教授だけなんです。ねえ、教授」

 縁側の猫は、上杉神子が何度話し掛けても、ぴくりともしなかった。彼女はしばらく一人で猫に話してから、ようやくノートを鞄にしまった。


「教授。それでは、さようなら。また明日来ます」

 猫は、やっぱり何も答えなかった。それでも良かった。上杉神子は、猫と話して少し気分が楽になった。不思議な猫だ。何もしなくても、彼女の悩みを和らげてくれる。友達に相談しても、ここまで穏やかな気持ちにはなれなかった。それが、どうしてだか彼女にも分からなかった。

 猫は相変わらず縁側で眠っていた。が、本当は耳をそばだてて、話を聞いていたのだと彼女は思っていた。


 翌日、上杉神子は大切なノートを無くしてしまった。同じクラスの生徒にとっては、大した事件ではなかったが、彼女には大変な事件だった。いや同じクラスの生徒にとっても、大変な事件だったかもしれない。なぜなら神様のノートが失われたからだ。しかし、彼女の不注意から無くしたのではない。


「ねえ、私のノート知らない」

 上杉神子が誰に聞いても、分からないという答えしか返ってこなかった。

「豊田くん、あなたに貸したよね」

 彼女は確信を持って、豊田弘樹に尋ねた。最後に貸したのは、彼だと覚えていた。

「俺、上杉さんに返したよ」

「えっ、返ってきてないけど。誰かに貸したの?」

「いいや。絶対に返したから、俺知らないよ」

 結局、授業が始まっても、上杉神子のノートは見つからなかった。彼女は、ちょと塞ぎ込んでしまった。明るい日差しの入り込む教室の中で、彼女だけが自分の体の一部を無くしてしまったような喪失感を覚えた。もう誰にもノートを貸すのは、止めようと思った。無くしたのは、数学のノートだ。彼女のノートの中で数学のノートは、一番人気が高かった。ノートが勝手になくなるはずがない。だから、誰かが取ったのだ。そうとしか考えられない。


「上杉、大切なノートをなくしてしまったんだって」

「誰かが返すのを忘れていたんじゃないか?」

「そうだな。それを一々聞いて回るのはきついよな」


 授業が終わると、数人の生徒が上杉神子の席にこぞって集まってきた。我先にと、彼女のノートを借りにきたのだ。早速、遠慮なく手を出した。みんな当然のように、ノートを借りられるものだと思っていた。

「上杉さん、ノート貸してくれない」

 黒縁眼鏡の男子生徒が、教室に響くような声で言った。堂々として、遠慮のない態度だった。いつもぽつんと座っている生徒が、首を伸ばしてこちらを見た。

「ノートはもう貸さないと決めたの」

 上杉神子は、その申し出を拒否した。

「どうして?」

「ノート、取られたの」

「取られた。いつ?」

「さっきの休み時間。それも数学のよ」

「あちゃ、俺それ借りようと思っていたのに。どうする?」

「だから、貸して上げられないの」

「他のノートはあるだろう」

 男子生徒は、食い下がらなかった。彼女も譲らなかった。強情なのは、どの生徒にも負けなかった。


「駄目よ。そうしたら私のノート、全部無くなってしまう」

「それは困るよな。はああ、仕方ない。諦めるしかないか」

 上杉神子は、ほっとした。煩わしい問題が一つ解決したように思えた。でも、ノートを無くしたことは、彼女の華奢な体を押さえ付けるように、頭を悩ましていた。気が晴れなかった。


 神様のノートは無くなった。もう上杉神子に頼んでも貸してもらえないと、みんな分かっていた。何人かが頼みに来たが。彼女の意思は堅かった。それを変えるような理由は、誰にも思い付かなかった。原因となった失われたノートを、探そうという生徒もいた。誰かが故意に取ったとすれば、それは用意には見つからないだろう。


 放課後、上杉神子が教室に戻ってくると、彼女の机にはノートが寂しい雰囲気を漂わせながら置かれていた。無くした数学のノートに間違いなかった。誰かが見つけてくれたのか。それとも持っていった、生徒が返してくれたのか。上杉神子は、それを詰まらない物を見るような目で見た。ノートは返ってきても嬉しくなかった。いっそ無くなったままの方が良かった。彼女は、そのノートを教室の後ろにあるゴミ箱まで行って捨てた。胸がすーとして、気分が軽くなった。放課後の教室に、カーテンを揺らす新鮮な風が吹くように思えた。


「なあ、上杉。お前の気持ちも分からないでもないな。これで付きまとわれることもないだろ」

「でも、それで良かったのか?」

「だったらいいんだ。誰にでもそういう時はあるさ」


 それから学校の帰り、書店に寄って新しいノートを一冊買った。上杉神子の足取りは軽かった。誰にも見せていない、秘密のノートを作ろうと思った。この事は、教授とだけの秘密にしよう。

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ぼくのいない物語 つばきとよたろう @tubaki10

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