第14話 春川幸恵2

 いつもの女子生徒たちが、誰かの話をしている。そういう時は大概、豊田弘樹の話をしている。休み時間には、必ずと言っていいほど、豊田弘樹はざわつく教室からいなくなる。それをいい事に、女子生徒たちは豊田弘樹の悪口を言いたい放題だ。彼は同じクラスの生徒と、つるんでいるところを見たことがない。一匹狼というより、一匹の野良犬だった。豊田弘樹は、群れるのを好まない宇宙人だ。大胆なことを平気でするから、個性をつぶすような群れには向かなかった。


 春川幸恵は学校帰りに手を緑色に染め、河童みたいな手をしている。


「春川、今日も探したのか?」

「なかなか長続きするじゃないか。ぼくは、とっくに諦めたかと思っていたぞ」

「それにしても、見つからないものだな」

「それは見つけようとするからなのかもしれないな」

「見つけようとしない時に、見つかるの物なのかもしれないぞ」


 昼休みになると、騒がしくなった生徒の声に押し出されるように、豊田弘樹は教室を出て行った。購買にパンを買いに行く。家から弁当を持ってきているようだけど、なぜか昼休みには購買で手に入れたパンを豪快にかじっている。


 春川幸恵は、小さい弁当箱を静かに開いた。お数も碌に見ずに、豊田弘樹の横顔ばかり眺めている。数分も経たないうちに、豊田弘樹は買って来たパンを平らげて、すぐ教室を出て行った。どこへ向かったのか、春川幸恵は箸を止めて心配した。豊田弘樹が教室からいなくなると、ようやく彼女は下を向いて、お預けされた子犬のように弁当をぽつぽつ食べ始める。


 くすくすと、男女の交じった生徒の笑い声が、授業中の教室に起こった。特に三人の女子生徒の声が目立ったと、春川幸恵は感じた。豊田弘樹が古文の授業中に先生に当てられて、答えられなかったのだ。豊田弘樹は、先生の質問も分かっていなかった。頓珍漢なことを口にして、みんなに笑われた。彼女だけは笑っていなかった。豊田弘樹は頭を掻いて席に座った。念入りに手入れした、あちこちに跳ねたあの頭だ。豊田弘樹を置き去りにして、別の生徒が当てられ授業は進んだ。何がおかしかったのだろう。彼女の心も置き去りにされたように思った。


 その日は、女子生徒たちの噂話が一段と盛り上がっている。何があったのだろうと、春川幸恵は体中の神経を研ぎ澄ます。豊田弘樹の顔が浮かぶ。彼女が浮かべる彼の顔は、泣きそうなくらいしょぼくれていた。だが、それは彼女の期待と誤解だった。


「豊田弘樹、とうとう付き合い始めたんだって」

 いつもの三人の声が聞こえた。

「本気?」

「十三度目の正直だね」

「何やってるんだろ。最悪だわ。気持ち悪い」

「でも、よく付き合う気になったね。何でだろう」

「一人くらいは、そんな子いたんじゃない」

「変わり者だわ」


 豊田弘樹に春が来た。女子生徒たちは非難轟々で、野獣が子羊を捕まえたみたいな声を上げた。付き合っているのは、誰だろう。春川幸恵は肝心なところを聞き逃してしまった。いや、聞こえなかったのではない。言わなかったのだ。いいところで予鈴が鳴って、話が中断してしまった。


 休み時間が始まったら、豊田弘樹は急いで教室を出ていく。まめに彼女の所へ通いに行くようだった。だからといって、追い掛けるわけにはいかない。春川幸恵は椅子から腰を浮かせ、一瞬立ち上がりそうになって、また腰を下ろした。豊田弘樹がどんな顔をして、彼女と会っているのか見たくはないが、誰と付き合っているのかくらいは確認しておきたかった。虚しくなるのは分かっている。


 豊田弘樹の彼女は、すらりとした背の高い可愛らしい女の子だという噂だ。春川幸恵は、豊田弘樹の彼女を実際に見たことがなかった。見たくないと言えば嘘になるが、見たからといって、どうにもなるものではなかった。心が湿っぽくなるだけだ。


 春川幸恵は尾行しようと思った時、トイレに行く振りをしたことがあった。教室を飛び出したところで、トイレと反対側の方だということが分かった。その時は、何て運が悪いんだと落胆した。春川幸恵は、豊田弘樹が彼女と会っていると考えると、空に架かる吊り橋を渡っているくらい、気が気でならなかった。


 放課後、川の土手に行って、春川幸恵は落ち着かない気持ちで、独り草の中を探した。手が青臭くなるまで草を掻き分けた。それでも見つからない。幾ら追い求めても、何もならない。諦め切れないのは、自分が情けないからだ。


「どうした、春川。元気ないじゃないか」

「それほど豊田弘樹のことが、気になるのか?」

「自分の気持ちが分からないなんてことは、よくあることだろ」

「心配しなくても、いつかは見つかるさ」


 いつもの女子生徒三人が、話に花を咲かせている。話している内容は、やっぱり豊田弘樹のことだ。きゃきゃと騒ぎながら、一段と声の調子を高くした。


「あいつ、もう振られたの?」

「やっぱりね」

「振られると思ってた。大体あいつが、女子と付き合えるのがおかしいのよ」


 豊田弘樹が、彼女と付き合っていられたのはわずかに一週間だった。春川幸恵にとって、この一週間は、時計が壊れたように、堪らなく長いものだった。その結末は、彼女が願ったことではない。それは、いつも振られて落ち込む、豊田弘樹を見ている気持ちと、少しも変わらなかった。


 その日の帰り道で、春川幸恵は土手の下草を、手荒に掻きむしった。鷲掴みにした緑の葉っぱの中に、四つ葉を見つけた。よく調べれば、辺り一面四葉の群生だった。

「私、おめでとう」と何となく高揚した心の中で呟いた。

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