第13話 春川幸恵1(はるかわさちえ)

 幸運を手に入れることは、ちょっとした発想の違いだったり、誰も見向きもしない発見だったり、案外そう言ったことなのかもしれない。


 自分は運が悪いとか、運がないとか悲観する人も多いだろうが、幸運は雲を掴むようなことだ。雲を掴むことはできない。が、発想を変えてしまえば、簡単にできる。それは、誰もが忘れてしまった子供の発想だ。子供にできて、大人にできないこと、それを考えればいいと思っている。あるいは子供の気持ちになって、考えてみればいいということだ。


 雲を掴むことは簡単だ。片目をつぶって、空に向かって手をかざし、童心に帰ってちょっと雲を摘んでみればいいことだ。

「なあ、春川。子供の頃、お父さんといつ頃まで一緒にお風呂に入っていた?」

「悪い。それは、女の子には禁句だったな」


 春川幸恵は、通学路の途中にある川の土手で探し物をした。落とし物を探すように、下草の中に腰を屈めている。時折、眼鏡がずり落ちるのを気にしながら、図書室で借りてきた植物図鑑を片手に、必死に草の中を掻き回していた。


 確かにこの中にあるはずなのだが、どれも同じ姿をした草ばかりで見つからない。春川幸恵は、植物図鑑をひっくり返して、もう一度確かめた。クローバーとシロツメクサの違いは分からなかった。


 いい加減、景色が闇夜に溶けかかっている。春川幸恵はこの当てのない捜索を、二日間続けている。これだけ広い土手一面に、緑の葉っぱが群生しているというのに、一つも見つからないなんて運がないに決まっている。彼女自身の思い付きで始めたことだから、なかなか諦めが付かなかった。


「分からないな。それだけ希少な物だということだろ」

「あまりそれに、こだわる必要はないんじゃないか。あくまでも偶然の幸せなんだ。張り切ったからって仕方ないだろ」

「だったり気長に探すしかないだろ。果報は寝て待てというだろ」


「富田くん、また振られたんだって」

 同じクラスの女子生徒三人が、大っぴらげに噂しているのが、春川幸恵には筒抜けに聞こえた。自分には関係ない話だと分かっていたが、野良猫の耳のように聞き耳だけはしっかりと立てていた。できればその女子生徒たちよりも、一足早く豊田弘樹の噂を聞き付けたかった。


「隣のクラスの蒼葉ゆきだって」

「これで何人目」

「もう十人以上はいってるって」

「あいつもこりん奴だな」

「ああ、肩凝った。藤本の授業は緊張するな」


 ふふふと小気味良い笑い声が、休み時間の教室に響いた。賑やかな教室では、掻き消されそうな声だった。それだから、こんな話盗み聞きしているのは、春川幸恵のようにじっと我慢して教室の席に座って、何もしない生徒くらいしかいなかった。


 豊田弘樹が、また振られた。春川幸恵はそんな話を聞くたびに、細い体が中空に浮かんで、それからすっと降りてきたような開放感を覚えた。春川幸恵は着地と同時に机に体を伏せて、ふーと息を吐き出した。休み時間が、いつもより長く感じられた。豊田弘樹の悪口を聞かされるたびに、心を掻き乱されるが、嫌ではなかった。もっと彼女の知らない、豊田弘樹のことを聞かせて欲しいと思っていた。


 いつも同じ女子生徒三人が、中心になって話をしている。男子の容姿や態度についての話だった。最初は、誰のことだか分からなかった。

「あの髪型、絶対に女子意識しているよね」

「制服も、ちょっと決めてるって思っているでしょ」

「あいつ、自分で格好いいと思っているんだから」


 最初は女子生徒の間なら、ありふれた会話だと思っていた。が、春川幸恵は豊田弘樹の噂話を聞くたびに、なぜだか彼に興味を持つようになった。不思議に思ったのは、彼女らがどこからその情報を仕入れてくるのかということだった。当事者しか知り得ない情報も多かった。


 豊田弘樹は、制服のちょっと長めの袖を折り返している。酷い癖っ毛であらゆる所へアンテナを張り巡らせているように、あちこちに飛び跳ねている。それが寝癖みたいにだらしないようにも、格好を付けているようにも見え、学生にしては気取っている。


 豊田弘樹は同じクラスにいて、ちょっと浮いていた。春川幸恵は、明らかに沈んでいる存在だった。目立つ所は特にない、のではない。何もないのだ。


 豊田弘樹の姿が見えなかった日があった。その時もいつもの女子生徒たちは、恋煩いで欠席したのだと話していた。春川幸恵は通学路沿いの川の土手で、三つ葉のクローバーを探した帰りに、豊田弘樹の家へ寄ってみた。本当に恋の病で、体調を崩したのか確かめたくなった。家の近くまで来て、勇気が出ずに引き返してきた。本当にその家が、豊田弘樹の家なのかもはっきりしなかった。


「今日、あいつ。宿題、忘れてきてただろ」

 女子生徒の一人が蔑むように言った。その子の席を囲むように、二人が集まっていた。

「忘れてきたの一人だけだったよ。恥かいてんの」

「何で忘れてきたんだろ」

「知らない。昨日、何かあったのかな」

「そんな話聞いてない」

「聞いてないか。じゃあ、今日なんじゃない」

「今日? あいつもこりないね」

「どうして、どうして。気掛かりで、何も手につかなかったわけ」

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