第18話

 魔法博士、ニール。

 魔法香水の研究を主に、今はディアトン国立魔法研究所で働いている。33歳。男性。

 12歳で飛び級制度を使い、魔法を専門に扱う大学に入学。そのまま何の苦労もすることなくストレートに博士号を取得している。

 この研究所に来る以前は化粧品専門の研究所に勤めており、いくつか香水関係の研究に参加していたらしい。


 香水の研究……ニールの調香したパフュームを味わった身としては、とても興味をそそられる。

 だがそれだけだった。


 魔法協会のデータバンクに掲載されたプロフィールを眺め、ヒオリはパソコンの前でため息をつく。

 傘下の研究所に勤めている職員なら、所属中の他博士の略歴を観覧することが許されていた。

 しかし自室に返って早速ニールの学歴と研究略歴を調べたのだが、予想以上に十人並みで少々肩透かしを食らっている。


 無論ここに書いてあることが彼の人生の全てではないが、特別問題に思うことは無い。12歳で飛び級とは、なかなか優秀だったんだな、と感心するくらいだ。


(特に妙な点は、ないか……。普通の魔法博士ね)


 パソコンを食い入るように見つめて画面をスクロールしていくが、特筆すべきことは見当たらない。

 やはり考えすぎなのではと思い始めたころ、ふと最後の方に記載されていた『ヴォタニコス』の文字に軽く目を見開いた。


(ヴォタニコス市出身……。同郷だったのね)


 マウスを動かす手を止めて、ヒオリは画面に書いてある文章をじっくりと読み込んだ。

 簡易的な紹介文であり、ニールがヴォタニコスの街で幼少期を過ごし、そこで魔法香水を調香する楽しさに目覚めたとだけ書いてある。


 『ヴォタニコス』はこのディアトン国東部に位置する小さな市で、ヒオリもまたそこで幼少期を過ごした。

 中心地に比べればいささか田舎であるが、非常に気候が良く農業が盛んな地域である。草花も豊富で、ヒオリは幼い頃からその香りの虜となっていたのだ。


 出身地も、香りに目覚めた経緯も己と類似点がある。

 ぐっと眉間に深いしわを刻み、ヒオリは人差し指を神経質に動かしてとんとんと机を鳴らす。


(あの人、昔私たちが出会ったような言い方をしていたわよね。もしかして私が忘れているだけかしら?)


 そう考えしばらく過去の思い出を探ってみたが、子供のころ彼と邂逅していた記憶はない……気がする。


 小さな街とは言え人口は少ないとは言い難いので、同郷と言えど顔見知りとは限らない。

 それにニールはあの見た目の良さである。もし出会っていたとしたら、簡単に忘れられるものではないだろう。


 記憶力は悪い方ではないから、やはり自分の気のせいか。

 それでも胸中に漂うもやが晴れず、ヒオリは険しい顔のままパソコンの横に視線を転じた。


 そこにはカフェテリアでニールに貰ったアトマイザーが、ちょこんと可愛らしく鎮座している。

 ほのかな薔薇色に色づくそれをしばらく見つめ、ヒオリは本日何度目かわからぬため息を落とした。


 今一度香水の匂いに包まれたい、と言う誘惑に勝てず、アトマイザーを手に取るとニールにしてもらったように振りかけた。

 甘く切ない薔薇の香りが己の体温とともに広がって、思わず深く呼吸をする。


 様々なアロマの香りを嗅いできたが、これほど自分の好みに合うものも珍しい。

 そのまま香りを堪能しつつ深呼吸をしていると、次第に心に落ち着き、にわかに眠たくなってくる。

 ニールがかけた魔法はしっかりと効いているようだった。


(直接聞いた方がいいのかもしれないわね。私の疑いを彼に暴露することにもなりかねないけど)


 心地いい気分に浸りながらそう考えて、ヒオリはパソコンを閉じる。

 最後に念のため、ホームページの他に魔法研究関連の事件、事故を調べたが、ニールの名前が出てくることは無かった。


 明日の朝一番に、ヴェロニカ女史に言われた言葉と共に疑問を投げかけよう。

 ニールはどういう顔をするだろうか?案外何事もなくあの胡散臭い笑みを浮かべて、誤魔化すかもしれない。


 だがその笑顔の下で、ヒオリに不満を抱き、不信感を覚えるようになってしまったら……。


(駄目だわ……)


 ヒオリは眉間にしわを寄せ、感情を振り払うように椅子から立ち上がる。

 調査の足並みが揃わなくなることよりも、彼との交流が無くなってしまうことが惜しいと一瞬思ってしまった。


(あの人の素性がはっきりするまで、個人的な感情は封印しておくべきだわ)


 過剰な思い入れは研究結果にも影響が出る。

 ままならない感情に振り回されながら、ヒオリは肩を落としてバスルームに向かった。


 香りを洗い流すように念入りに体を洗って風呂を出、余計なことを考えないように無心で昨日と同じ状況を作り出す。

 カメラ(昨晩撮れたのは自分の寝姿のみだった)を設置、アロマをデュフューザーにセットして、さてベッドに入ろうとした瞬間、ふと動きを止めた。


 微かだが、ドアの外で何か物音がしたような気がしたのだ。


(誰かいるの?)


 共同宿舎なので当然自分以外の博士はいるはずだが、何か妙な感じがする。

 いまだに断続的に聞こえてくるその音は、大きな何かがずるずると床を這っているもののような気がするのだ。


 しばらく無言で聞いていたが、やがて這いずる音はヒオリの部屋の前を通りかかる。

 恐ろしさを感じる。しかし意を決してヒオリはドアへと近づき、隙間からそっと外を覗いた。


 その瞬間、ふいに鼻腔に甘ったるく怖気の走る匂いが届く。


 ───夢の香りだ。

 危機感が思わずヒオリに扉を閉じさせかけたが、しかしふと気づく。


 常夜灯のみがつけられた薄暗い廊下……部屋の扉の前で誰かがうずくまり、唸っている様子が見えたのだ。


§


 小刻みに体を震わせて、何かを掴もうとするように腕を前へ突き出す人影に、ヒオリはぎょっと目を見開く。

 明らかに尋常ではない。夢の香りは気になったが、ドアから身を乗り出して震える背中に声をかける。


「だ、大丈夫ですか?」

「う、うう」

「しっかりしてください!……あ!」


 慌てて彼女に駆け寄り、顔をのぞき込むとさらに驚いた。


 脂汗を浮かべているのは、理知的な広い額とスクエア型の眼鏡が特徴的のややきつい顔立ちの女性。

 魔法道具部門、玩具研究室所属のキリノである。

 キリノはまるで悪夢でも見ているかのように目を閉じて、それでも何とか前へ進もうと体を動かしていた。


「と、とにかくこっちへ。立てますか?」


 ヒオリはキリノに肩を貸して自室に招き入れると、いまだに呻く彼女を椅子に座らせる。

 体に触れた際、どうやら香りはキリノから漂ってきているのだと気付き、眉間にしわを寄せた。


 この香りを何処でつけてきたのかは気になったが、まずは落ち着かせるためにしばらく背中を撫でていた。

 10分もしないうちに、少しずつだが彼女の呼吸が落ち着き、目の焦点が合ってくる。


「水か何か、ご用意しましょうか?」

「……いいえ、はあ。少しだけ、良くなったわ」


 いまだに顔は真っ青だが、脂汗は引いたようだ。

 体は少し震えており自らを抱くように腕をさすりながら、大きく息を吸い肺を新鮮な空気で満たしている。


「ご気分が悪くなっていたんですか?病院へ行った方が?」

「ごめんなさい、帰ってからずっとこんな調子で……そうね、明日医者に診てもらおうかしら……」


 独り言のように呟いて、キリノは深く息を吸い込む。

 その際何かに気付いたのか、視線がちらりとアロマデュフューザーの置いてあるベッドへと向けられた。


「この香り、素敵ね。これを嗅いでいると何だか落ち着いてくるわ」

「香り……?ああ、アロマですね」


 アロマデュフューザーに精油を入れたばかりだから、部屋には濃く香りが漂っている。

 安眠作用のあるものだから落ち着くだろうかと考え、デュフューザーのスイッチを押して、香りをさらに部屋中に充満させた。


「鎮静作用の強いアロマもご用意できますよ。イランイランやカモミールとか」

「いいえ、これでいい……いえ、これがいいわ。嗅がせてちょうだい」


 キリノは深く呼吸を続けている。

 よほどアロマが気に入ったのかと思ったが、それだけではないように感じる。

 ぐっと眉間にしわを寄せ、彼女は必死に息を吸うことで何かに縋り、逃れようとしているかにも見えた。


 尋常じゃない様子に違和感を覚え、ヒオリは言葉を選びながら彼女の横顔に問いかける。


「今日の、リリアン女史のことで、クロード所長に何か言われたんですか?」

「リリアン……?」


 はっと顔を上げたキリノが、唇を震わせる。

 心なしかまた顔色が悪くなっているようだ。ぎゅっと体を縮め込み、何かをぶつぶつと呟きはじめる。


「そうよ、私、リリアンに怒られて……それで、私、何かをされて……でも、一体何を……?」


 やはり何かおかしい。

 呟かれる言葉にぞっと背筋を震わせていると、やがてキリノはうつむいて黙り込んだ。


 何かを考えているのか?不気味な沈黙が訪れる中、ヒオリは様子を見守る。

 眼鏡の女性博士は虚ろな目で自らの手元を見ており、再び声をかけることははばかられた。


 居心地の悪い時間がしばらく過ぎ、口火を切ったのはふと前を向いたキリノであった。


「……リリアン、あの子、何かおかしいわ」

「え?」


 呟かれた言葉に、ヒオリは目を見張る。

 キリノの口から発せられたのは、リリアンを否定するかのような言葉だったからだ。


 昼間の彼女はあの可憐な女性博士の信奉者であったはず。それがいったい、どういう心変わりだろう。昼間の件でクロードに叱られ、目が覚めたのか?

 疑問を頭の中で巡らせるヒオリを置いて、キリノは再びぶつぶつと小さな呟きを漏らした。


「そうよ、そりゃあ最初は境遇を聞いて同情したけど、それだけだったはず……。私、どうしてあんなに彼女をかばっていたのかしら?」

「あの……?」

「ねえ、私は……おかしかったわね?」


 真に迫る表情で問われ、ヒオリは思わず口ごもる。

 その沈黙が何より質問の答えになったようで、キリノはばつが悪そうに顔を背けてため息を落とした。


 しばらく何かを思案するように視線を彷徨わせていたが、やがて彼女は顔を上げてヒオリに申し出る。


「ねえ、このアロマ、少しわけて頂けないかしら?嗅いでいると冷静になれる気がするの」

「それはもちろん、構いませんが……」

「悪いわね。……ああ、少し落ち着いてきたわ。そろそろお暇するわね……」


 言って立ち上がったキリノに、ヒオリは慌てて同じブレンドの予備のアロマを手渡し、彼女を見送る。

 キリノは何度も礼を言って、部屋を去っていった。


「……何だったのかしら」


 不穏なものを感じて、ヒオリは小さく嘆息する。

 解決しない疑問が胸の中に残って気持ちが悪かったが、ぼんやりもしていられないと寝仕度をしようとして……ふと気づく。


 キリノが先ほどまで座っていた椅子の上に、何か葉のようなものが乗っていた。

 彼女の体についていたものだろうか?と何気なくそれを持ち上げて……ヒオリの心臓がぎくんと跳ねる。


 それは間違いなく、温室に生えていた植物と同一のものだった。

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