【第3章】変転

第6話

 9.


〈ノワール……〉気遣わしげにヴィオレッタ。〈……大丈夫……?〉

 ミニ・クーパーのドアを閉め、ノワールがエンジンに火を入れる。「……疲れは、それほどじゃない――判るかい?」

〈ええ……〉ヴィオレッタの声、ノワールの裡から届くその表情は晴れない。〈……〝大悪魔の爪〟ね。力が……共鳴してるような……〉

「……そういうことか」ノワールが機械的にギアを入れ、アクセルを開ける。「少なくとも、ただのガラクタを掴まされたんじゃなさそうだ」

〈……信じるの?〉ヴィオレッタが心配を滲ませる。

「疑ってるよ」ノワールが即答、無表情。「『老獪や狡猾』、連中の言葉だからね」

 ウィンドウの外、寂れた夜の気配が流れ始める。

〈でも、〉言葉を探してヴィオレッタ。〈……使うの?〉

「……考えてるさ……」ノワールも思考を巡らせるように、「……多分、最後の最後まで」

〈……そう……〉そこでか細く、ヴィオレッタ。〈……訊かないの……?〉

「訊くべき……だったのかな」ノワールの声にも張りはない。「どうして君が――君の魂が、ダブリン大学の、あの電磁気の中で……無事でいられたのか。あの地獄から、どうして……僕を救けることができたのか」

〈……訊きたい?〉ヴィオレッタの声が濡れている。

「君を……救いたいだけなんだ」乾いた呟きを一つ、ノワール。「泣かせたかったわけじゃない」

〈……聴いて……〉心に細く、ヴィオレッタ。

「――悪魔の〝力〟、だね?」静かにノワールが先回り、「君が魂に宿しているのは」

〈……悪魔、そのものよ〉そこでヴィオレッタの堰が切れた。〈〝取り憑かれてる〟どころの話じゃないわ。溶け合ってるの! どこからどこまで自分なのか、どこまで悪魔になったのか、もう自分でも分からないの!!〉

「君は、君だ」そこでノワールが言葉を挟む。

〈『悪さを働かなきゃいい』って言うんでしょ?〉ヴィオレッタは止まらない。〈〝悪さ〟どころの話じゃないわ。とっくの昔に〝喰らって〟いるのよ! 人間を! 魂を! 止められなかったの!!〉

「訊かなかった僕が悪い」ノワールが、言葉を置く。

〈悪いのは私よ!〉衝き動かされるようにヴィオレッタ。〈悪魔の誘惑だったのか! 自分の欲望だったのか! もう見分けがつかないの!!〉

「……でも君は、」無表情のままにノワール。「僕を救けてくれた」

〈餓えてたの! 渇いてたの! 止められなかったの!!〉ヴィオレッタが哭く。〈自分を見失って! 人を〝喰らって〟! 今度はノワールまで〝喰らい〟尽くすのよ!? そんなのいや! もう消して! 殺して! 滅ぼして!!〉

「頼むよ」細く、ノワール。「僕を、独りにしないでくれないか」

〈――!〉ヴィオレッタがそこで息を洩らす。

「これから僕はクリムゾンを滅ぼしに行く」ノワールは眼を道の行方に据えながら、「ずっと、ずっと、だまされてた。君を、人を、この手で救えると信じてた」

〈……やめてよ……〉ヴィオレッタが力を失う。〈……このままじゃ、私があなたをとり殺すのよ? 私に……あなたを……殺させないでよ……〉

「君に罪があるとするなら、」ノワールが静かに、「僕にだって咎がある。あいつを野に放ってしまったのは、他でもないこの僕だ」

〈……ひどいわ……こんなに……!〉ヴィオレッタが気配だけですすり泣く。〈……こんなにあなたを想っているのに……!!〉

「……そうだな、」ノワールは思い出したように、「なら二人で――せめてもの罪滅ぼしに行かないか?」

〈……それで、〉ヴィオレッタからか弱く問い。〈何か……変わるの……?〉

「クリムゾンを滅ぼして、」ノワールが、さ迷うように言葉を並べる。「あいつの野望を食い止めて……全てはそれから考えよう」

〈それじゃただの先送りよ〉打ちのめされてヴィオレッタ。〈私たちの救いにはならないわ〉

「お互い、確かに過去は拭えない――でも、」そこでノワールの声に、力。「――救える命を、救うんだ」

〈!〉ヴィオレッタが、息を――呑む。

「そうだよ、ヴィオレッタ」ノワールが思い出したように、「たとえ結末を変えられなくとも、自分の心だけは変えられる。後悔に沈んで終わるのと、一矢報いて果てるのと――ヴィオレッタならどっちを選ぶ?」

〈……強いのね、ノワール〉迷いを引きずりヴィオレッタ。

「僕は弱い人間さ」ノワールが生気を取り戻しつつ、「だけど自分の弱さを知らないヤツは、相手の弱さを知ることもできないんだ――つまり強くなれないんだよ」

〈強引なのね〉ヴィオレッタの気配から泣き笑い。〈でもノワールらしいわ〉

「ありがとう、ヴィオレッタ」ノワールの声に笑みの色。「君がいたから気付けたんだ。だから一緒に、心の救いを求めて行こう――〝忘れられた教会〟へ」



 10.


「思ったより早かったじゃないか」〝忘れられた教会〟、宵闇に沈む石造りの教会横――墓地からクリムゾンが振り返る。「3日はかかると思ってたよ」

「何もかも〝お見通し〟ってわけか」ノワールは歩を進めながら、「思わせぶりなヒントをばら撒いておいて――僕を操ったつもりかい?」

「期待はしたさ」クリムゾンがノワールへ向き直る。「〝力〟も渡した。〝右眼〟は役に立ったんじゃないかな?」

「確かにね」ノワールはさらに前へ。「余計なものも見えたようだけど?」

「面白いじゃないか」クリムゾンに、穏やかな笑み。「話してごらんよ」

「〝地獄の門〟、」歩を踏み、ノワール。「〝セフィロトの樹〟の儀式で誕生する〝完全体〟――今まで僕をだましていたんだな?」

「〝契約〟にあるのは、こうだ――」クリムゾンは小首を傾げて、「――『〝契約〟者には嘘をつかない』。破った覚えはないけどね」

「どの口で、」足を止めたノワールに――感情。「その科白を吐いている!?」

「考えてもごらんよ」クリムゾンは小揺るぎもしない。「ヴィオレッタを救うのに〝セフィロトの樹〟の儀式は必要なんだ」

 そこでクリムゾンは声を低めて、「ここに、どんな、嘘が――あるんだい?」

「『隠さない』とは言わなかった――と、」ノワールの声が怒りに冷える。「つまりはそう言いたいのか?」

「私もキミも独立した〝個〟だ。溶け合っているわけじゃない」クリムゾンは指を一本振りつつ、「全てが伝わる――などという思い込みは、傲慢ってものだよ」

「そこに付け込んで僕を利用するのは、」ノワールの声が能面さながら無表情。「傲慢じゃないってのかい?」

「いいね」穏やかに笑みつつクリムゾン。「〝個〟――つまり〝魂の壁〟の示す本質は、〝断絶〟であり〝かけ違い〟でもある、というわけだね」

「何が言いたい?」ノワールが吐き捨てる。

「つまり理想というものは、」クリムゾンが掌を、上へと開く。「本来誰とも共有できない、ということだよ。要するに〝個〟は、どこまで行ってもエゴの塊というわけさ。本質においては〝魔女狩り〟と――つまりは〝完全体〟の〝力〟を独占しようとするエゴと、ちっとも変わるところがない」

「僕の望みは〝力〟じゃない」ノワールの声に怒りがくすぶる。

「だけど〝力〟なくしては叶わない」穏やかに返してクリムゾン。「いいかい? 〝目的〟を見据えて、〝手段〟に――つまりは〝力〟に、呑み込まれないようにすることさ。それでこそ〝魂の純度〟は研ぎ澄まされる」

 途端、ノワールの眼に力。「今度は何をするつもりだ?」

「私は、」涼しくクリムゾン。「成すべきことを成すだけさ――私自身の、〝目的〟のためにね」

「この世界を――」ノワールが昂ぶる。「――地獄に叩き落とすつもりか!?」

「〝地獄〟の定義にもよるね」冷笑、クリムゾン。「私には私の考えがある。他人の〝理解〟とやらにすがり付くのは、つまりは〝弱さ〟に他ならない」

「……話す気はないわけか」眼を細めつつ、ノワール。

「〝個〟というものを尊重しているだけだよ」風と受け流してクリムゾン。「〝理解〟とやらに過剰な期待を抱いていない、ただそれだけのことさ」

「……残念だよ」ノワールが大地を踏みしめる。

「私を仕留める気でいるのかい?」クリムゾンが掲げて左手。「私が与えた、その〝力〟で」

「〝力〟は〝手段〟なんだろう?」不敵にノワール。「なら、〝目的〟のために使うまでさ」

「魂も〝喰らって〟いない貧弱な〝力〟で?」クリムゾンが嘲笑一つ、「それに詠唱の隙を、私が与えるとでも?」

「隙なら、」ノワールが拳を固める。「こじ開けてみせるまでさ」

「いい眼だ」クリムゾンはにこやかに、「そうでなくてはね」


 地を蹴る。ノワール。前へ。踏み込む。

 左手。クリムゾン。圧を張る。低くノワールがそこへ突っ込み――、

 抜けた。無力化。潜り込む。ノワールが下から踏み上げる。クリムゾンの左脇、指先を固めた貫手を衝き込み――、

 反った。よけた。クリムゾン。胸先、かすめるノワールの貫手を――、

 掴む。手首。右手一本、悪魔の怪力。クリムゾンがねじ上げ――、

 地を蹴る。ノワール。跳び上がる。追随、クリムゾンの右手首。掴み返す。身を踊らせる。重量、勢い、ともに乗せ――、

 なお掴む。クリムゾン。残る左手でノワールの手首。踏ん張る。支える。上から振り回し――、

 勢い。ノワール。なお加速。宙で身を振り回し、脚を駆使して下を向き――、

 着地。ノワール。踏みしめる。互いに相手を持ち上げようと〝力〟と〝力〟がせめぎ合い――、

 不意にノワール。間を詰め――頭突き。頭突き。なお頭突き。

 クリムゾンが軋らせ歯、突き返そうとし――たところで。

 足を刈る。ノワール。虚を衝き、押し出し、倒し込み――、

 落ちる。クリムゾン。後頭部。地へ――、

 激突。衝撃。手が緩む。

 ほどいた。ノワール。右の袖からコンバット・ナイフ。刃に銀――を、

 衝き込む。眉間。急所――を。

 遮る。クリムゾン。左の掌。

 貫く。銀が肉を衝く。通る。迫る。眉間へと――、

 止まる。埋まる。刃が尽きる。わずかに数ミリ――届かない。

 握る。クリムゾン。左の手。掴む。鍔ごと――ナイフの柄。

 戦慄。ノワール。手を放し――たところを、

 もぎ取る。クリムゾン。代わりに右手を――、

 伸ばす。ノワールの顔面へ――、

 かわす。ノワール。右へ――だが。

 蹴り出す。クリムゾン。捉える――ノワール、その胸板。

 吹き飛ぶ。ノワール。地へ転がる。二転、三転、なお勢い――を。

 止める。ノワール。勢いを利す。地を踏み、身を立て、一挙動。

 クリムゾンが跳ね起きる。ノワールが再び地を――、

「やるね」そこで、クリムゾンから言葉の圧。「だけど詰めがまだ甘い」

 ――止まる。ノワール。呪縛に陥ちる。

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