第16話 最後の階段

「おはよ」

「あ、おはようございます」


 まさか校門の前で待ち伏せされているとは。

 久々に聞く声に、胸がドキドキする。


「もう出した?」


 待っていた相馬先輩の問いかけに、私は首を振る。


「いえ、今日の帰り道に郵便局に寄ります」

「お、ギリギリじゃん」

「ギリギリまで、頑張ったんですよ」

「すごいじゃん」


 やれる事は、全部やったと思う。モモちゃんにも、昨日は随分遅くまで付き合ってもらった。

 それでも迷いも沢山あって、まだこれでいいのかどうなのか、出すべきか出さないべきか何度も何度も立ち止まったりした。けど、今私が持っているこの鞄の中には茶色い封筒に包まれた原稿があって、その封筒には出版社の宛先が書かれある。

 揺れる心を止めるのは、いつだって自分の覚悟と決意なんだ。


「お陰で、眠いですけど」

「俺も、眠い」

 

 隣で先輩が欠伸をした。


「先輩も夜更かしですか?」

「んー。なんて言うか、流れで?」

「ゲームですか?」

「いや、もっと面白い事。それに、遂に明日伊鶴の戦いが終わるんだなって思うと、感慨深くなって寝れなかった」

「取って付けたかのように言いますね?」

「そんなわけないだろ。俺もドキドキしてんの。あれだけ付き合って、他人事ってことはないだろ?」

「その節はお世話になりました……」


 そういえば、全てはこの小説のために生徒会室の扉を開けたのが始まりだったんだった。

 取材を重ねなら先輩と校舎を回って、水族館に行って、ドキドキしたり、笑ったり怒ったり、嫉妬したり。それも全て、この小説の糧にした。何一つ無駄にはしなかったと胸を張って言える。

 あのまま先輩と会わなくても、私は小説を書けたかもしれない。けど、顔をあげようと思わなかったかもしれない。こんな気持ちで、この日を迎えれなかったかもしれない。


「先輩にはとても感謝してます。先輩のお陰でいいのが書けましたよ。ねぇ、先輩。ご褒美の約束、覚えてますか?」


 あの日から、随分と時間は経ってしまった。

 随分と待たせた恋心は、とても穏やかで、それでいて晴れやかだ。あの嵐の中を忘れたように。

 でも、あの嵐の中灯った火は今も燃え続けている。それは、嫉妬という激しい炎ではなくなってしまったけど、私の心を照らす唯一の優しく光になった。

 どんな返事が来ても、どんな結末になろうとも、怖いと怯えて泣くには、そこは随分と明るすぎる。


「覚えてるよ」

「明日の放課後、また生徒会室で待っててくれますか?」

「明日でいいの?」

「明日でいいんです。今日は流石に出したら帰って寝ます」

「はは、現実的。いいよ、じゃ、また明日な。最後まで、頑張れよ」

「はい。気合入れて、出して来ます。また明日」


 まだ朝だと言うのに、私と先輩は手を振って別れた。

 先輩がいなくなると、私は小さく頬を叩く。

 あと少し、この封筒を出したら次は私の番だ。


「頑張ろう……」


 少しだけ痛い頬を、少しだけ冷たい風が撫ぜて行く。


 ✳︎ ✳︎ ✳︎


「遂にじゃんっ!」

「遂にだよっ!」


 眠さに負けそうになった一日をやっと終えると、部活へと向かう前のクマと泉美が私の席までやってくる。


「頑張ってね!」

「いや、郵便局行くだけだし」

「気持ち負けないで!」

「いや、出すだけだし」


 二人とも、随分と郵便局までついて来たかった様だが、流石に部活を休んでまでも付き合ってくれるほどの大事でもないし。丁寧にそれは辞退させてもらった。

 そのせいか、応援が戦地に送り出す様になってしまっているが、それぐらいなら甘んじて受けようじゃないか。


「二人とも、そろそろ部活遅れるよ?」

「そうだけど……」

「何か、私達もドキドキしちゃって……」


 先輩もモモちゃんも、クマも泉美も皆んな同じことを言う。

 それが面白くて、それが嬉しくて。


「はは、ありがとう。でも、大丈夫だから。最後くらい私一人に任せてよ」


 これほど頼りないちっぽけな私が、最後まで書けたんだから。


「……伊鶴」

「そうだね。クマちゃん、行こうか」

「え、泉美?」

「私達部活に行くけど、心細くなったらいつでも来て。いつでも抜け出せるから」

「わ、私もっ! 先輩達、そんなことじゃ怒んないから!」

「ありがとう。また明日ね、二人とも」

「うん、また明日ね。伊鶴」

「気を付けて行っておいでねー!」


 二人が教室から出て行くのを見守ると、私はゆっくりと自分の席に座る。

 今から行けば十分に間に合う。

 少し、呼吸を整えて、もう一回宛先を確認して……。

 そう思って鞄を開けると、そこにはあるはずのものがなかった。


「え……?」


 鞄の中に、茶色く分厚い封筒がないのだ。その中に入った原稿すら、どこにもない。

 さっと顔から血の気が引く。

 ど、どうして!?

 可笑しい。確かに、持って来ていた。見つかりにくい場所に入れたけど、お昼休みにもあることは確認してた。

 ちゃんと、あった。朝入れたまま、あったはずなのに。

 なんで、今、それがないのっ!?

 鞄の中をひっくり返して探してもどこにもない。

 なんで? どうして!?

 焦り混乱が広がる。そんな私の近くでクスクス笑う声が横切った。

 はっと顔を上げると、クラスの別グループに属する子達が私を見て笑ってる。いつも、私のことを見下して馬鹿にしてくる子達だ。


「可哀想っ」

「やだ、酷いことするじゃん」

「泣いちゃうよ?」


 そう、小馬鹿にした言葉が私を横目に見ながら流れてくる。

 まさか……。

 人を疑うのは良くない。けど、もう形振りは構っていられなかった。少しでも何か知ってるなら、教えてほしい。


「ま、待って!」


 私は椅子を倒して立ち上がる。


「やだっ、こっち見てるっ」

「うわっ! 怖っ!」

「ヤバいってー。返してあげなよー」


 高い笑い声を置き去りに、彼女達が走り出した。

 返してあげなよ?

 やっぱり、あの子達がっ!


「っ!」

 

 何で、どうして、いつ!?

 疑問が泉の様に湧き起こる。でも、そんな事を考えてる暇はない。

 

「返してっ!」


 私は彼女達を追って廊下を走った。

 どうしても、それは返してもらわなきゃ、今日に出さなきゃいけないんだ。

 今じゃないと、いけないんだ。


「返してだって! 返してあげなよー!」

「えー! 何をー?」

「怒ってるじゃん! かわいそー!」


 遠くを走る彼女達の笑い声。

 私はそれに必死で食らいつく様に廊下を走った。

 でも……。


「あれ……? いないっ?」


 息切れする喉から捻り出した事実が、私を絶望の淵へと立たせた。

 曲がり角、階段か二年の校舎に続く廊下に出た瞬間、彼女たちの後ろ姿を見失ってしまったのだ。

 そんな、どこに行ったんだ?

 二年校舎への渡り廊下にも、階段にも、彼女達の姿は何処にもない。

 どうしよう。どうしようっ!

 焦る気持ちが、私を余計混乱に導いた。

 クマを呼びに行く!? でも、第二体育館はとても遠い。泉美は? 泉美の家庭科部は校舎の外の特別校舎だ。そこにいくにも時間がかかる。

 そのうちに、彼女達が私の原稿を……。

 想像するだけで、ぞっとした。

 私達の頑張りを破り捨てる姿を考えるだけで、怒りよりも恐怖が湧き起こる。

 探さなきゃ。私は闇雲に校内を駆け回る。

 けど、どれだけ行っても彼女達の姿はない。似た後ろ姿に立ち止まるだけで、時間が過ぎ去ってゆく。

 一時間も経った今でも、彼女達を探しきれない自分が情けなかった。

 もう、捨てられたかもしれない。破られたかもしれない。そもそも、もう彼女達は帰ってしまってこの学園に原稿なんてないのかもしれない。

 ダメな可能性ばかりが浮かんでいく。

 でも、それでも。

 私は諦めきれなかった。はい、そうですかと諦めきれなかった。

 足が何度止まっても、探し続けた。悪足掻きで、無意味で、ただの徒労で終わることかもしれないけど。

 だからって、諦められなかった。

 何度も上がっては降りる階段に、上がる息。限界に近い足。

 悪魔の囁きが、それを自覚する度に聞こえてくる。

 もう、十分探したよ。皆んなに言えば、皆んなわかってくれる子達ばかりでしょ? 諦めて、慰めてもらいなよ。それがいいよ。

 その度に、私は足を振り上げ呼吸を止める。

 そんなことはわかってる。

 でも、これは皆んなのためなんかじゃない。私が、私のためにしていることなんだっ!

 強い決意を長く吐き出した呼吸から、悪魔の囁きを消す様に、それでいてドラゴンが熱い炎の息を吐く様に。

 私はまた一歩、また一歩と駆け出した。

 でも、二年の校舎にも、あの子達の後ろ姿はない。

 次は、三年。三年の校舎に……。

 よろめく足を叱咤して、私は階段を降りようとした。

 その時だ。


「あれ、伊鶴? まだ学校に……」


 相馬先輩がそこにいた。


「相馬、先輩……っ」


 ああ、先輩だ。相馬先輩が、いる。


「おい、どうしたっ!?」


 思わず、堪えていたものが全て流れ出しそうになった。

 声が、つっかえる。

 先輩はそんな私を見て、持っているものを投げ出して駆けつけてくれた。

 その姿に、どうしようもなく涙が弾ける。

 ずっと耐えてきて、押し潰されそうになってもどこまで不安でも、心細くても。どつしようもない私の心の弱さが、弾けてしまった。


「げ、原稿、クラスの子に、隠されて……っ」

 

 込み上げてくる嗚咽が、止まらない。

 情けない自分の姿に涙が、止まらない。

 

「郵便局、いけなくて、出せなくて……」


 まとまらない言葉が、止まらない。


「……は?」

「私が、わたしが、ちゃんと見てなくて……、いつ取られたのかも、わからなくて、その子達、見失っちゃって、ずっと探してるのに、見つからなくて……ごめんなさ、いっ。皆んな応援してくれたのに、私……っ」


 もう、ダメなんだ。

 ダメだと思う。そう、言いかけた言葉を相馬先輩が止めてくれた。


「伊鶴は何も、悪くないだろっ! 謝るなっ!」

「……っ」

「悪いのは、そいつらだろ! 伊鶴は今必死に探してる。伊鶴が謝ることなんて何もないっ!」

「先輩……」

「俺も一緒に探すっ! ほら、行くぞっ! 絶対俺が見つけるからっ!」


 力強く手を引かれ、私達二人は階段を駆け降りた。

 涙がとめどなく流れるのに、気持ちが落ち着いて行く。

 焦っていたのに、もうダメだと諦めそうだったのに。

 先輩の手からまるで力を分けてもらう様に。


「見失ったのはここ?」

「はい……」

「犯人は、一年だよな?」

「た、多分。確信はないですけど、よく嫌がらせはされてたので、あの子達なのかなって、思います……」

「……校舎内は?」

「廊下や階段には、どこにも……」

「教室の中は?」

「中に入って探してはないです。でも、他のクラスにいないは窓越しに見ました」

「……それって、クラスだけか?」

「はい」


 先輩が、ふぅと息を吐く。


「伊鶴、お前はここで待ってていい。校内探し回って、疲れただろ? 俺が取り返してくる」

「え? でも、もういないかも……」

「多分、一年が逃げ込む場所を俺は知ってる。けど、そこまで行くのは辛いだろ? 終わったら、郵便局まで走らなきゃいけないんだし、体力残しとけって」


 そう言って、先輩は笑ってくれた。

 そうだ。取り返した後だって……。でも。


「い、嫌ですっ! 私も、私も行きますっ!」


 私は必死に先輩の腕にしがみついた。

 ここで、一人待つのなんて嫌っ。全てを先輩に任せたまま、ここで一人で待っているのなんて、出来ないっ!


「私の、私の小説ですっ! 私が取り返したいっ!」

「伊鶴……」


 先輩のため息が落ちた。それと同時に、頭に温かくて大きな手が降ってくる。


「……わかった。無理なら途中でも、足を止めろよ。けど、時間もないから急ぐぞっ」

「はいっ!」


 私達は階段を駆け上がった。

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