第7話 咲かない蕾

「じゃ、気を付けて帰れよ。写真は月曜に学校で渡すから」

「はい。今日はありがとうございました」


 駅の改札越しに、私は深々と頭を下げる。


「また月曜日な」

「はい、また月曜に」


 自宅の最寄り駅の改札で手を振って別れる。

 なんともない、当たり前の風景。

 相馬先輩の背中が見えなくなるのを待って、私は思わずその場に顔を隠してしゃがみ込んだ。

 利用者の少ない駅でよかったと、はじめて思う。いつもは電車の本数が少ないと、文句を言っているぐらいなのに。今だけはそれに救われた。

 なんともない、当たり前の風景なのに、息の仕方を忘れるぐらい緊張を覚えた。何でこんなに緊張しているのだろうか。何でこんなに、胸が爆発しそうに高鳴るのだろうか。私は、ふと自分の手を見る。

 そう、あの後からだ。あの後、先輩と手を繋いで写真を撮った後から。

 あの写真の後、最早取材どころではなく頭の中がずっとパンクしていた。いや、違う。今もパンクしている。

 あの後食べたオムライスの味がしなかったのも、そのせいだ。

 一体、何がどうしたと言うんだ。

 気がそぞろであの後取ったメモの文字は、誰も読めない。私が書いたと言うのに、きっと今の私にも。


「帰ろう……」


 ポツリと呟き、一人立ち上がる。

 何も考えられなかったのに、まだ帰りたくないなと思う気持ちだけはずっとあった。でも、一人になったらそんな気持ちすら湧かなくなってしまうのは、どうしてだろうか。

 帰り道、私はじっと掌を見る。

 石川啄木は労働の苦悩を何も掴み残らない手を見る事で表現した。私は今は何も掴んでない手を見て、掴み損なった大きな手を思い出す。

 握り返せなかった。

 恥ずかしさと、高揚感がわたしの手を動かしてはくれなかった。

 あの手の感触と暖かさを思い出しながら、夕日が暮れる道をそっと歩いた。

 家に帰るまでには、忘れるように。日が沈むように。じゃなきゃ、小説なんてとても考えられないよ。


 ✳︎ ✳︎ ✳︎


『違和感をこのデートで出したいなら、イルカショーは前半。後々学園生活で尾を引くように際立てたいなら私なら最後に持ってくるかな。どちらにしろ、今後の展開によってかわるよね』


 ご飯も食べて、お風呂にも早々と入り自分の部屋で髪を乾かしているとプロットの相談の返信がモモちゃんから返ってきた。

 成る程。大まかなあらすじを見返して、私は唸る。

 この後の展開では一波乱用意されているが、イルカショーの事件を引っ張るかはまだ決めてない。後々影響はあるにしろ、その影響の大きさは悩むところでもある。

 

『モモちゃんならどっち選ぶ?』

『私なら、最後に入れる。段階的に、すれ違いを強調したいからここを登らせる階段のはじめにする。でも、アンズの意図とは違うし、私が正解なわけじゃないと思うよ』

『うーん』


 モモちゃんの言葉に、私はまたも唸った。

 どちらが正しいなんて答えはない。

 数学の問題みたいに、正しい解き方も、正しい答えも、何もない。

 それが小説だ。

 どちらの道を通っても、行き着くゴールは同じなのである。

 だけど、この選択肢でゴールに着く前の見える景色が変わるのだ。なんだ、そんなことか。そう思う人だって確かにいると思う。けど、そこが馬鹿にできない。

 景色を疎かにするればする程、人の心の機微がなくなってしまう。景色を見て、感動する。思いを馳せる。哀愁を覚える。常に感情は動き移ろい変わって行く。だから、人は成長する。映り変わる景色の中で。私は小説に、時に色めき、時に枯れ果て、時に嵐が吹き荒れる心情が好きだ。そして、嵐が過ぎ去った後の青空を抱き締める景色が一番好きなのだ。

 何故この人は、この人を想うのか。その気持ちが、どう変わって行くのか。そこから一歩踏み込んだ変わる文字と言う名の景色を私は愛したい。

 皆んなに、愛して欲しい。

 そのために、日夜指先を文字の海に溶かしている。


『モモちゃん、こういうすれ違い書くの上手いよね』

『突然だな。なになに、どうしたの?』

『今回の選択、選ぶの難しいなって思って』

『あー。それ、私でも迷うかも。シチュエーションはいいよね。聞こえない告白に、気付かない鈍感な主人公。すれ違いの場面では最高だと思う』

『ありがとう』


 モモちゃんに褒められるのは素直に嬉しい。

 少しだけ私みたいな下手くそが、少しだけ成長した気持ちになるからだ。


『でも、使い所は迷うよ。クライマックスへ駆け上がる階段の始まりに置きたいと私が思うのは、この後主人公達に待ち受ける試練がこれよりも上に上がれると思う確信が持てるから。でも、アンズはこの後の事に違うイベントを挟むなら話は別だと思うの』

『送ったあらすじでは、一波乱入れる予定だけど……』

『その一波乱のイベントによるよね。二人だけで巻き起こる波乱なら、これ以上のイベントはないと思うの。それぐらいなら、これを引きずった前提で話を進める。でも、逆に第三者を巻き込んだイベントなら、これ以上の強い波乱が起きる』


 第三者か。


『第三者を巻き込むイベントって? 例えば?』

『例えば、主人公にライバルが出てくるとか、第三者が二人の関係を感知して掻き乱すとか』


 流石、人気Web恋愛小説家。よく引き出しがあるな。


『それいいなって思うんだけど、でも、第三者を使う感覚がわからないかな。二人の恋愛で完結させちゃダメなの?』


 勿論、手法としては多くの例を読んできている。モモちゃんの小説にも、恋のライバルが出現する話は多い。

 不安に揺れる女の子は思わず寄り添いたくもなるし、ライバルが男の子を好きなった理由にだって心を痛める。でも、私にそれほどバックボーンを持ったキャラが複数書けて動かせるかとなると、疑問が残る。

 初心者故の動かすキャラクターには定員数が決まっているのだ。

 多過ぎると破綻することは、ノートに小説を書き続けている時に学んだ。考えられなくて、キャラクターを手の動くままと言う無責任さで動かしてしまい、収集がつかなくなって最後までいかない。サブキャラクターの中で気に入ったキャラクターの話にすり替わり本来の目的が果たされない。全て苦い思い出だが、自分の力量というものがわかって逆に良かったとはと今なら思う。キャラクターが勝手に動くタイプの書き手は実際いるわけで、私はそれになれなかっただけの話。

 だから、今回第三者を新たに出すとなると自分にできるか途端に自信がなくなってしまうのだ。


『いいと思うよ。アンズは二人の関係性を深めるのは上手いし、無理して出すことないと思う。それに、私の提案はあくまでも一例。合わなかったら無理することないから』

『ごめんね』

『いいのいいの。でも、第三者を入れる事で自覚はし易くなるよね』


 自覚?


『何を?』

『何をって、恋心に決まってるじゃん』


 恋心、恋愛感情。


『誰かに取られるかもっ! て、なると自分の恋心に正直にならざる得ない。取られたくないからね。恋心の自覚って、すっごく可愛いよね。私、そこが恋愛小説で一番楽しい所だと思うんだよね。出来るなら、そこを一番可愛く書いてあげたいの。そのためなら、ライバルだって何だって出しちゃう』

『モモちゃんが書く主人公の恋心の自覚の場面、毎回とても素敵なのはそのせいなの?』

『そー。気合い入れてるけど、アンズ以外には褒められた事ないんだよね』

『一番色めきだってるもん! 可愛いし、読んでる私の心まで色付くよ!』

『嬉しいー。恋愛小説のご酸味だよね!』

『うんっ』


 最初にモモちゃんの小説を読んだ時、私もこんな小説を書きたいと思ったのがWeb小説を始めたきっかけだった。モモちゃんの主人公が進む道は、どんな道でも輝いて見えた。文字の中で女の子の生き生きとした表情が画面越しに私の目に映る。初めて、文字の中で風に踊る長い髪を捉えた。初めて、文字と文字とのしじまに、頬の紅潮の色を見た。初めて、私なんかという言葉が、私もに変わっていった。

 モモちゃんは私にとって、神様の様な存在と言っても過言じゃない。そんな神様が私に助言をくれていることなんて、まるで夢のようだと仲良くなった今でさえ感じる。

 ももちゃんの人柄が好き。こんな私になんか優しくしてくれる彼女が好き。

 勿論、モモちゃんの話も前以上に好き。

 でもたまに。そう、たまに。

 モモちゃんがこうやって出してくれる提案を飲み込めない私を、モモちゃんは好いてくれているのか、呆れていないのか、どうしようもなく疑ってしまう気持ちがある。

 そんな時、決まって私は罪滅ぼしの様にモモちゃんを褒めてしまう。勿論、本心で褒めている。褒めているが、こんな場面で取引の様に出すのは良い事ではないのはわかっているのに。モモちゃんも、そろそろ気付いているのではないか。本当は、相談に乗るのももうウンザリしてるかも。

 一度気になり出すと、とことん底の底まで疑ってしまう自分が嫌になる。

 今も、まさに。そんな時だ。


『アンズは好きな人いる?』

『へ?』


 モモちゃんが唐突に私に問いかけてきた。


『好きな人』


 好きな人?

 このキーワードに先程までの落ち込んだ気持ちが全て吹き飛び、忘れようと頑張った夕日がまた私の中を照らしはじめた。

 それは、紅く。木々の葉が色付く様に。


『何で?』

『今回の話、凄くよく出来てるし、良いアイデアどんどん出すじゃん。好きな人でも出来たのかなって思って。あらすじや今できてるプロット読んだだけでも、私もドキドキするよ』


 好きな人。

 いや、でも。そんな。


『モモちゃんは好きな人いるの?』


 時間稼ぎの様な言葉が指から放たれる。


『え? 私?』

『うん。いつも、素敵な恋愛書くから、その、経験あるのかなって』

『えー! ないないっ! 小説は小説でしょ。私が一番心ときめいて面白いと思ってる事を書いてるだけだよ』


 笑い飛ばす文字に、思わず胸を撫ぜ降ろす。

 この話題は、終わったのだ。そんな安堵感が私の中に生まれた時、それをぶち壊すほどの力を持つ言葉が、桃ちゃんから飛んできた。


『でも、今好きな人はいるんだ』


 好きな人?


『えっ? 付き合ってるの?』


 終わらせたい気持ちよりも、モモちゃんの好きな人が気になる。

 モモちゃんとは毎日の様にこうして画面越しに文字で話しているが、モモちゃんの事は小説を書いている二つ上のお姉さんであること以外私は何も知らない。

 そんなモモちゃんが、好きな人の話をし始めたのだ。

 気になるに決まってる。


『うんん。付き合ってないよ。私が好きなだけ。けど、今日一緒にお出かけしてきたの』

『どうだったの?』


 思わず、ぐっと前のめりに聞いてしまう。

 リアルな恋愛話なんて縁がない陰キャラの私だ。いつも一緒にいるクマも泉美も恋愛話なんて私と一緒で縁がない。

 興味がないわけがない。


『すごく楽しかったよ』


 きっと、頑張ってお洒落をしたのかもしれない。昨日、私の服のことで相談に乗る中、自分の着て行く服も考えていたのかもしれない。

 悪い事をしてしまった。謝らなきゃ。でも、私が謝罪を打ち込む前にまたもモモちゃんからメッセージが届く。


『私、恥ずかしい話なんだけど初めて自分から人を好きになったの。毎日学校で会えるだけで楽しいの。その人が目に入るだけで幸せになっちゃうの。でも、今日はずっと一緒にいれて、ずっとドキドキしてた』


 恋愛小説の様に広がるモモちゃんの言葉に、私は思わず息を飲む。

 同じだから。

 私も、同じだから。

 毎日、会えるだけで楽しい。

 目に入るだけで、幸せな気持ちになる。

 一緒にいると、ドキドキする。

 これが何の気持ちなのか。初めて触れる、爆発する様な感情に名前を付けられなかった。

 知らなかったから。

 文字の上でしか、知らなかったから。

 こんなに爆発するような、激しい感情がそれだなんて、知らなかったから。

 そうか。

 そうか、私は、相馬先輩のことが好きなんだ。

 初めてわかった、自分の感情。

 これが恋かと、初めて掌の中に宿る熱を吐き出すように息を吐く。

 これが、好き。私が抱く、先輩への恋心。

 そう思うと、涙が出てきた。

 相馬先輩のことが好きだと分かったのに、同時に虚しさが込み上げてくる。

 先輩は、誰にでも好かれる。私とは違う。そんな私に好かれて、私かなんかに好かれて……。

 私が好きになって良い人じゃないのに。


『モモちゃん』


 私はモモちゃんの名前を呼ぶ。

 キラキラした、私とは違う可愛い女の子に。

 私とは違って、選ばれる貴女に。


『私も、好きな人いるよ』


 好きなのに、こんなに好きなのに。

 でも、先輩は私を選ぶことはない。こんな私を好きになってくれるはずがない。

 私は恋をしたことがないのに、恋について知っている事が一つだけある。

 それは、恋は二人同じ気持ちじゃないと愛にならない事だ。

 先輩は、同じ気持ちにならない。絶対に。

 今日、何も変わらなかった先輩が、その答えじゃないか。


『えっ!? どんな人!?』

『うん。手の届かない人なんだけど、すごく好きなの』


 握り返せなかった手は、何も掴めない。けど、元々掴める手なんてなかったんだ。

 色づいた恋心の花は、きっと咲かない。

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