第21話 白衣

 医務室の簡素な戸が開き、ヴァンは看守に入るように促された。

「ここで待っていろ」

 看守はヴァンを置いて、すぐに去っていく。戸の閉まる軽い音を背後に聞きながら、ヴァンは部屋のなかを観察した。ほの暗い部屋の中央には縦長の台があり、その周囲に金属製の器具や薬品が収納された棚があった。医学的知識の乏しいヴァンでも、それが治療に用いられるものだと容易に想像がついた。

 看守への脅しが成功したのだから、治療など不要であった。多少の傷など慣れっこだ。しかし、勝手に部屋を出るわけにもいかず、待っていると部屋の奥で影が動いた。

「また来たのね」

 灯りの下へやってくると、それが少女であることが分かった。まとっている長白衣は先が砂埃で汚れているし、サイズはぶかぶかでまるで合っていない。ここが鉱山でなければ医者だとは信じないことだろう。

「またって……俺は初めてここに来た」

「質問したわけじゃないわ。独り言よ」少女は呆れていった。「こういうところにいるとね。あなたみたいな人がたくさん来るの。無駄な喧嘩や諍いをして怪我の絶えない人種。だから、私はその度にいうの。また来たのって。親しみを込めて」

「それは悪かったな。常連にならないように気をつけるよ」

 少女は薄く笑って、「まあいいわ。私の仕事だから――ほら座って」と、ヴァンに台に腰掛けるようにいった。そのまま少女はヴァンの体を観察する。ヴァンは思わず身じろぎした。少女には……気づかれていない。フロイという例外もあるが同年代の少女は鉱山でも珍しかったため、ヴァンは少し気恥ずかしかった。

「こんなになっちゃって……。出血はある。でも深くないわ。腕の骨は……よかった。折れていないわね。じゃあ――」

 と、少女が太もものあたりを触ったところで、ヴァンは声をあげる。

「そこはいい」

 少女は苦笑して、「診察よ、足が折れていないか、確認するための。でも……ウブね。何を期待してるのかしら」

「いいといっている。ほら、折れてないだろう」

 ヴァンは足をぶらぶらと揺らし、異状ないことを示したが、少女はまだ薄く笑っていた。

 馬鹿にしやがって……ヴァンは心のなかで毒づく。ルデカルの街では生きるので必死だったのだ。色恋の余裕などないから、女に免疫がないのは仕方ないだろう。そもそも自分の周りにはサリュとイエーナおばさんしかいなかったんだ。同年代の女なんて数えるほどしか見かけたことが――。

「痛っ」

 腕に鋭い痛みが走り、ヴァンは顔を歪める。

「あら、ごめんなさい。考えごとをしているから平気かと思って」少女は悪びれることなくいった。

 少女の右手にはガラス瓶、左手には白い布。そこからつんと鼻をつく匂いがする。アルコールだ。確かルデカルの市場では果実酒として売られていることが多かったか。ヴァンは飲んだことはないが、よく男どもが列をなしていたのを覚えている。とにかく、そのアルコールを使って少女はヴァンの腕のみならず、上半身のあらゆるところを消毒しようとしてくる。

「もういい。治った。充分だ。礼をいう」

「なにいってるの。まだ終わってないわ。ちゃんと座ってて」

「でも」

「いいからじっとしてるの。仕事の途中で邪魔しないで」少女はいった。

 痛みに弱いわけではない。むしろ、擦り傷や切り傷くらいヴァンにとって日常茶飯事だ。けれど、服を脱がされるのは違う。未知の体験で、だからこそ怖い。

「ほら、我慢よ我慢。まったくあなたって人との接し方といい治療が怖いところまで、小さな男の子みたい」少女がヴァンの服を引っ張る。

「誰が!」

「こら、動かない! もっと痛くするわよ」

 つくづく少女のペースであった。少女が布を体に近づける。

 抵抗しても仕方ない。この少女は俺を眠らせてでも処置をするだろう。医者の責務とやらはこうも面倒なのか。

 ヴァンは諦めて指示に従うことにした。ボロボロの服を脱いで台の上に置いた。先ほどの喧嘩のせいで首と腕の穴の大きさが同じになってしまっている。新調しないと……と思ってここが鉱山だと思い至った。鉱山では新品の服を手に入れることは、砂漠で一粒の金を見つけることくらい難しい。

 少女は満足そうに処置を再開していた。時折、アルコールが粘膜に触れてしまうことがってヴァンは顔をしかめた。けれど、さすがに医者は侮れない。ヴァンがじっとしていると、そのようなミスは見られなくなった。

 ガラス瓶を傾ける音、衣擦れ……静かな時間が過ぎていく。そういえば、とヴァンは辺りに目を走らせる。医務室に他の患者はいなかった。もちろん他の医者も。

 傷口の縫合を受けながら、その理由をヴァンは考えていた。

「鉱山に女は珍しい?」

「なんだって」ヴァンはいった。

「聞こえなかったかしら。鉱山に女は珍しい、って聞いたの」

「そういうわけじゃ……でも確かに男に偏ってるな」

「やっぱり……。あなたの態度、ぎこちなさすぎるから」そういって、少女はヴァンの顔の血を布で拭った。血の染みこんだ白い布が、足元に積み重なっていく。「ここには穴掘り以外の人もいるでしょ」

「穴掘り?」

「鉱石堀りのこと。私みたいな女の人やお年寄りはそういう力仕事ができないから、彼ら鉱石掘りの生活の世話をしているの。バルザイ様から聞かなかった?」

「……思い出した。最近、大きな出来事がたくさんあって忘れていたが、同房の奴がいっていた気がするな。フロイ――同房の奴がアンタみたいな人が鉱山の影の功労者だと讃えていたぞ。鉱山は彼らがいないと回らないって」

「分かってるじゃない」少女は、ふふと笑った。「会ってみたいものだわ。その彼に」

 彼女、だけどなとヴァンは心のなかで呟いた。

「そうだ。だが、そいつはもう一つ大切なことをいっていた。鉱石掘り以外の人間はこの鉱山から出られない。すると、アンタはこの鉱山から出られないことになる。それでいいのか」

 その瞬間、少女の手が止まった。すぐに、何事もなかったかのように処置を続ける。

「私は出ようとは思わない。厄介事はごめんなの」

「これだって充分厄介事だろう。毎日、病人の相手をしているんだから」

「仕事だから」少女は遮るようにいって、「私はこれでお金を稼いでる。微々たるものだけど生活はできてる。それに、私は自分の仕事が好きで誇りを持ってるの。厄介だとは思わないわ」

「優しいんだな」

「分かってないのね。学問的興味よ。人間の体に興味があるの。関節の曲がり方とか……そうだ。試してみてもいい」

「遠慮しておくよ」

「そう」少女は残念そうにいった。

「外の世界でその探究心を発揮しようとは思わないのか。ここよりもっと色んな病人がいるだろう。アンタも退屈しないはずだ」

 少女の顔にさっと静かな怒りがよぎった。

「何がいいたいの。私は満足してるわ」

「一生出られなくても、か」

「あなた意地悪ね……。それじゃ女の人と接してなくても納得だわ」少女はため息をつく。「で、そんなこというなら、あなたはここを出たいの? ここはわたしたち移民の理想の町。ここから出たい理由は相当なものがあるはずよね」

「それは……」

 意趣返しされたヴァンは口ごもる。言うべきか……いや、迷う必要なんかない。フロイもレザルも俺の動機くらい知っていることだ。建前上のバルザイの褒美にもあるように、鉱山を出ようと思うこと自体は罪じゃない。もちろん、実際に出ることは罪だが。

 ヴァンは少女の目を見た。「妹がルデカルの街にいる。だから、俺は外に出なきゃいけないだ」

「なるほどね」少女は意味深に頷いた。「それで最良の鉱石を一所懸命になって探してるってわけね」

 ヴァンは苦い顔をする。鉱石を探し当てても鉱山からは出られない。この真実はヴァンたちしか知らない。歯がゆかった。

「そうだ。だから鉱石を巡って喧嘩も絶えない」

 少女は小さく笑った。「今度はもっと簡単な処置で済むようにしてね。――さあ、いいわ。これでおしまい。幾分マシになったかしら」

 ヴァンは立ち上がり服を着た。縫合された箇所からは出血が止まり、皮膚の色が見えるようになった。

「礼をいう。ええと――」

「ミホミよ。アンタじゃなく」

「ああ。ありがとう、ミホミ」

 部屋を去ろうとして、ふとヴァンは立ち止まる。

「どうしたの」不思議そうにミホミが尋ねる。

「なあ、アンタはなんで捕まったんだ。この鉱山にいるってことは原因があるんだろ」

「盗みよ。弟の盗みを庇ったの」

 ヴァンは一瞬言葉を失って、「そうか。教えてくれてありがとう」そういって、部屋を後にした。部屋の外には看守が待っていた。今にも「遅かったな」と口走りそうな表情を隠そうともしなかった。

 ミホミはいっていた。弟の盗みを庇って……。ヴァンはその境遇が自分に重なることをはっきり分かっていた。でも、だからこそ――弟が生きているか、死んでいるか、その答えを聞こうとは思わなかった。世の中には聞かなくてもよいことはあるのだから。


 房に戻ったヴァンは、フロイとレザルに看守の件を報告した。フロイは「心配したんだよ」と今にも泣きそうな顔で、一方のレザルは「でかした」と柄にもなくヴァンの手柄を褒めた。

「でも、よかったよ。ヴァンさん傷だらけだったから、ひょっとしたら僕またあのときみたいになっちゃうんじゃないかと思って」フロイが目を伏せる。その目の端にうっすらと光の粒が浮かんでいる。どうやらフロイは本気で心配してくれているようだった。チーノの件があったとき、最初に見つけてくれたのはレザルだったらしいが、看病してくれたのはフロイだ。そのフロイに心配かけるのは、心が痛んだ。……それとも、これも偽りなのだろうか。こうやって、人が弱っているところをチーノにつけ込まれたんだ。――そうだ。もっと慎重にならなければ。一つのミスがこの鉱山では命取りになる。

「手当は医務室で受けたんだよね」フロイがいった。

「ああ」ヴァンは頷いた。「ミホミという名前の女だ。医者としての腕は立つがずいぶん気の強い女だった」

「もしかして作戦に加わってくれるかな」

「どうしてそう思うんだ」

「だってあの医務室一人しかいないでしょ。そのミホミさんだっけ? 食堂でお客さんが話しているところを聞いたんだけど、あそこ来る日も来る日も患者が運ばれてきて酷い環境だってさ。不満溜まらないかな」

 フロイは指で唇を掻いて上を向く。ヴァンもつられて見上げるが、そこには暗闇しかなかった。

 このフロイ、妙に鋭い。なんというか、普段はゆったりとしているのに時折鋭い視点から一発を繰り出すのだ。

 油断できないな。俺のことは? 見破られていないだろうか。

「残念だが、不満はないみたいだ」ヴァンがいいきった。

「そうなの」フロイが口をあんぐり開けた。「それはびっくり。僕だったら二日でやめちゃうよ」

「ミホミは仕事が好きなんだそうだ。だから、患者が多ければ多いほどいいということなんだろう」

「ふーん。そんなものかなあ」納得いかなそうにフロイはいった。

「まあ、人それぞれ生き方があるからな」

 ヴァンは念押しする。もちろん手当を受けているとき、ミホミが動揺していたことは話さなかった。

「でも」と、さっきから黙っていたレザルが突然口を開く。「こっちから脱獄の話をしたわけじゃないだろう。機会を窺って、それとなく聞いてみるのも案じゃないか」

「それはダメだ」ヴァンは強くいった。「協力者はもういるだろう。看守以上の協力者はいやしない。いたずらに増やしても作戦が漏れるリスクが増えるだけだ」

「それはそうだが……」レザルが不満げにいう。

「さっきはレザルのいうことを聞いた。だったら今度は俺の番だろう。今すべきは協力者の増員ではなく、看守をどう活かすかだと思う」

 ヴァンはレザルを見据え、負けじとレザルも目線を逸らさなかった。たまりかねたように、フロイが割り込む。

「わかったって」フロイはレザルを振り向いて「ねえ、レザル。ヴァンのいうとおりにしようよ」

「フロイ!」と、レザル。

「だってさ、看守さんを取り込めたのはヴァンさんのおかげなんだよ。だったらさ、その看守さんの協力方法を決める権利くらいはヴァンさんにあげようよ」フロイはさらに続ける。「それでさ、その協力がダメだったときにレザルのやり方でいけばいいんじゃない。ほら、これで誰も傷つかないでしょ。さすが僕!」

 フロイは自らの胸を叩いた。

 黙って聞いていたレザルは立ち上がり、部屋の隅に置いてあった粗末な椅子に座る。

「わかった。ヴァンに従おう」

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