午後九時四十分の自覚

秋風の冷たい冷気が、背中をくすぐる。


雪音さんは、僕が話し始めるのを、黙って待っていてくれていた。


そんな心地いい沈黙に甘えている自分に喝を入れ、僕は話し始める。


「そのカメラは、僕の祖父が中学生の時にくれたものなんです。」


僕は当時の光景を思い浮かべながら話す。


「当時の僕は、特にやりたいこともなくて、親に言われた通りただ勉強していま

 した。いい高校に行くために。その頃の僕は、それが一番自分にとってもいい

 ことだと思っていたし、それくらいしか僕にはできなかったんです。」


僕はやや自虐的に語る。


実際に僕は、勉強以外にあまり取り柄がなかった。


小さい頃から体が弱かったのもあり、運動神経は悪かったし、美術や家庭科は、手先の不器用さが前面に出て、決して褒められるものではなかった。


また、コミュニケーション能力が著しく低かったため、周りに友達と言える人は一人もおらず、暗黒の中学時代を過ごしていた。


「このまま、ただ勉強する日々が続いていくんだろうなと思っていた時、写真好

 きの祖父が、僕に写真というものを教えてくれたんです。」


僕の言葉に自然と熱がこもる。


「祖父は僕に写真の撮り方はもちろん、写真の奥深さなども教えてくれ

 ました。」


祖父はカメラの使い方すらわからない僕に、一から写真というものを教えて

くれた。


僕は写真のことについて楽しそうに語る祖父が、大好きだった。


「そんな祖父に教わっているうちに、僕は写真というものにどんどんハマってい

 きました。そしていつしか写真を生かせる仕事につきたいと思うようになって

 いったんです。」


周りの木々が音を立てながら揺れる。


あの頃の僕は、本気で『プロ』というものになれると考えていた。


写真家なんて格好いいものでなくても、仕事にするくらいには。


けれど、現実はそんなに甘くはなかった。


「僕は中学3年生の進路選択のとき、家族に素直に自分の『将来の夢』について

 話しました。写真を仕事にするために高校は芸術系の学校に通いたい。もしく

 は大学で美大に行きたいと。」


僕は家族に、自分が撮った写真などを見せて、僕がどれくらい本気なのか、

熱弁した。


今思えば、あの時が一番、人生の中で家族と話した時間だったと思う。


「でも、両親は僕が最後まで話終わる前に『急に何を言うかと思ったら、そんな

 ことか。お前みたいなやつが無理に決まっているだろう。』と話を聞いてくれ

 ませんでした。僕は悔しくて、でも何もできなくて、どうしようかと迷っていた

 時、祖父が亡くなったんです。」


『亡くなった』と言う言葉を言った瞬間、雪音さんの目に、動揺が走ったのがわかった。


しかし、雪音さんは話を遮らないよう、何も言わずに僕の話に耳を傾ける。


「脳梗塞でした。いつものように、写真を撮りに出かけていた時に、突然、道端

 で倒れたらしくて・・・、通りがかった人がすぐに救急車を呼んでくれたらし

 いんですけど、病院に着いた頃にはもう手遅れでした・・・・。」


僕は無意識に拳を握りしめる。


「すぐに葬式が行われて、僕は現実を飲み込めないまま、参加しました。そこで、

 祖父が『写真家』だったと言う話を耳にしたんです。僕は、葬式が終わってから

 すぐに、そのことを母に尋ねました。すると母は諦めた様子で祖父が昔、売れ

 ない『写真家』だったことを教えてくれました。そして、驚く僕にこう言った

 んです。『あなたに、お父さんの二の舞になってほしくはない。だから、普通の

 高校に進学してくれ。』と。それを聞いた瞬間、両親がなぜ僕の言うことに反

 対していたのかがわかりました。母はきっと、祖父のような苦労を、僕にして

 ほしくなかったんだと思います。結局、泣きながら話す母に僕は『わかった。』

 と言うしかありませんでした・・・。だから、今は普通の高校に通って、写真

 は趣味程度でしかやっていません。」


僕は全てを話し終えると、力無く笑った。


「・・・。律君にとって、写真がどれだけ大切なものなのかは、わかった。」


僕が話している間、一言も喋らなかった雪音さんが初めて口を開く。


「でも・・・・・、だからこそ、本当にこのままでいいの?」


雪音さんは、僕の心の中を探るように聞いてくる。


『いいわけない。』


雪音さんの問いかけに、僕の心が叫ぶ。


けれど、僕の言葉は何本もの太い幹に絡まれたかのように、出てこない。


いや、出す勇気がないのだ。


あの時だってそうだ。


泣きながら話す母に、僕は反論する勇気がなかった。


『無理だ。』


と決めつける父に、歯向かう勇気がなかった。


僕は逃げたのだ。


周りに無理だと言われるのが怖くて、家族にまた否定されるのが怖くて、臆病な僕は、聞き分けのいいふり、諦めのいいふりをして逃げた。


自分の気持ちを押し殺してでも、自分が傷ついていく方が怖かった。


だから僕は、高校は地元でも有名な進学校に入学したし、親に変な心配をかけないよう、友達も作った。


そうやって自分を偽っていくうちに、自分がまた、つまらない人間になっていくのがわかった。でもそれでもよかった。


周りにとって害のない人間になることこそが、賢く生きる方法だと思ったから。


そして周りの人たちも、大半がそうやって生きていることを知ったから。


僕は弱いのだ・・・。


公園の砂が、埃と共に舞う。


僕は、無意識に握りしめ、しわくちゃになっていたズボンの布から手を離した。


「ねぇ、律君。」


突然、僕の隣から優しい声が響く。


「律君は、もう少しわがままになった方がいいと思う。」


雪音さんは僕の方を向くと春の日差しのような暖かい声で語りかけた。


「わがままに・・・ですか?」


彼女の思いもよらない提案に、僕は言葉を繰り返す。


「うん。律君は多分、優しすぎるんだと思う・・・。


だからこそ、人を傷つけることが怖くて、自分の本当の気持ちを言えない。


雪音さんはまるで正解を知っているかのような顔で答える。


「雪音さんは、僕を『買い被り過ぎ』なんじゃないですか。僕はそんなにいい奴

 じゃありませんよ。」


そんな彼女の意見を、僕はたまらず否定する。


雪音さんが言う優しさは僕の弱さであって、決して優しすぎるのではない。


本当の気持ちを言えないのだって自分が傷つくのが嫌なだけで、相手が傷つくのが怖いわけではない。


「僕は弱くて、最低な人間なんです。」


僕は、自分の情けなさに笑いながら、言葉を吐き捨てた。


「それは違う!律君は最低なんかじゃないよ!」


僕の言葉を聞いた瞬間、雪音さんが今まで聞いたことのない声で叫んだ。


「律君は、一人でなんでも抱え込みすぎなんだよ。自分一人が我慢すればいいと

 思って。人のことを考えることも大切だけど、律君の人生なんだから、律君が

 我慢する必要なんかない!」


雪音さんの力強い声が胸の奥に響く。


あぁ、どうしてこの人はいつも僕が欲しい言葉をくれるんだろう。


家族にも友達にも誰にも言われたことがない言葉。誰からも応援されずに消えていった自分の夢。


僕は雪音さんに救われてばっかだ。


僕はブランコから立ち上がると、雪音さんの目を見て答える。


「僕、もう一度、ちゃんと家族と話してみようと思います。今度は絶対に諦めたく

 ないから。」


「うん。」


雪音さんは頷く。


そして、自分も立ち上がると、僕の手を握りながら


「私が、律君のファン第一号だね!」


といつもの調子で明るく笑った。


その瞬間、僕の中で何かがすとんと音を立てて落ちたのがわかった。


『僕は、雪音さんのことが好きだったんだ。もう、ずっと前から。』


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たとえ君がいなくても、僕は君を残したい。 月野木 星奈 @kouyou-yuki93

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