斬貂蝉

青龍

　曹操は激怒していた。

　劉備の屋敷を見張らせていた密偵が、貂蝉が昨夜起こした事件について詳細に報告したからである。彼女を使って三兄弟の仲を裂き、関羽を引き抜こうとしていた曹操は、

　――兄弟の仲違いの結果、劉備と張飛が殺し合うことになっても構わぬ。大事なのは、関羽を我が家臣にするということだ。あの男だけは殺すな。

　と、貂蝉に厳命した。

　ところが、女はあろうことか、張飛を操って関羽を殺そうとしたのだ。嚇怒（かくど）した曹操は、兵たちを雨の中出動させ、街に潜伏していた貂蝉を捜索した。

　日没後、貂蝉は丞相府に連行されてきた。

　曹操は庭に彼女を引き据えると、数十人の精鋭兵に貂蝉を取り囲ませた。曹操を含め全員が、黒い布で口を覆っている。

「……フフ。たった一人の女を相手にずいぶんと大げさなのだな、曹丞相」

「我が将兵を妖術で操ろうとしても無駄だぞ、化け物。余は、死んだ呂布の口から黒蛇が出て来たのをこの眼で見ている。刺客荊軻の呪いさえ防げば、美女西施など恐れるに足りぬ」

「私が関羽を殺そうとしたのが、そんなにも気に食わないのか」

「当たり前だ。この曹孟徳、裏切りは絶対に許さぬ」

「王の気を持つ英雄を殺し尽くす――それが、王に使い捨てにされた私、西施の欲求。そして、王を殺せずに果てた荊軻殿の欲求……。最初にそう説明し、お前はそれを承知した上で私と手を組んだはず。関羽は、過去に王だった。ゆえに、あの男もまた我らの標的なのだ」

「過去に王だった……じゃと？」

　意味が分からず、曹操は白粉を施した顔を歪ませる。

　その直後、彼は庭内の異変に気づいた。

　突如、庭の草木や花々が生気を失い、一斉に枯れ始めたのである。前触れも無く大木がどうと倒れ、数人の兵が下敷きになった。

　常人の眼には見えないが――貂蝉は艶めかしい口元から黒い靄を朦々（もうもう）と吐き出していた。あまりにもおびただしい量の邪気を浴びたせいで、耐え切れなくなった草木や花の精が死んでしまったのだ。

「こ、これは……！」と曹操が驚愕した次の瞬間には、不可視の靄は蛇の頭に変化していた。

　実体化した蛇の姿は、常人にも視認できる。曹操と兵たちは、いきなり空中に顕現（けんげん）した蛇の頭にギョッと驚いた。

　ハァァ……と貂蝉は息を吐き続ける。吐き出された靄は黒い鱗を持つ胴体となり、蛇は見る見るうちに巨大化していく。最終的に、蛇の頭は人間の背丈よりも大きくなっていた。

「曹操、死鬼（しびと）をあまり舐（な）めるなよ。大勢の兵に守られた己は殺されぬとたかをくくっていたか？　お前もまた我らの標的なのだぞ。我々の邪魔をするのなら、まずは貴様から殺してやろう！」

　割れ鐘のごとき蛮声が轟（とどろ）く。大蛇の正体は荊軻本人だった。

　大蛇は縦横無尽に暴れ、頑丈な塀を破壊し、倒した松明（たいまつ）の炎が丞相府の建物に燃え移る。兵たちの多くは怯えて逃げ出そうとしたが、次々と捕まって噛み殺されていった。曹操の命令で弓兵が一斉に射ても、鱗は鋼のように硬く、全く傷をつけられない。

　大蛇の頭が、曹操に迫る。「そうはさせぬ！」と曹軍きっての猛将である許褚（きょちょ）が立ちはだかり、大剣で蛇の頭を斬ろうとした。しかし、刃はあっ気なく砕け散ってしまった。

　曹軍の他の武将たちも挑みかかったが、大蛇は彼らを次々と薙ぎ払った。そして、とうとう曹操を食い殺すべく大口を開けた。

「……万事休す！」

　曹操は、死を覚悟して目を瞑（つぶ）った。

　三人の男が丞相府に颯爽と現れたのは、その時だった。

　彼らは馬から飛び降りると、それぞれ双剣、青龍偃月刀、蛇矛を構え、大蛇と対峙した。劉備・関羽・張飛の三兄弟である。

（この凄まじい腐臭、こいつが呪いの発生源の荊軻本体か）

　そう見抜いた関羽は、鳳凰眼（ほうおうがん）で大蛇を睨み、「死鬼に告ぐ！」と叫んだ。

「紅昌を解き放て。王允に真心を利用された彼女を哀れだと思わぬのか」

「アハ！　アハハ！　アハハハ！」

　大蛇は関羽の言葉を無視し、哄笑しながら襲いかかって来る。

　関羽と張飛は白銀の刃を煌（きら）めかせ、真っ向から立ち向かって行った。

「関羽！　いくらお前でも殺されるぞ！」と曹操は止めようとしたが、劉備に制止された。

「曹操殿。雲長は今、義憤の心火（しんか）を燃やしている。今の弟を殺せる者はこの世に存在しない」

「何を馬鹿なことを……。ただの人間があんな怪物に勝てるものか」

「貴殿は弟を有能な駒（こま）として評価しているようだが、理解が足りぬな。それでは、雲長は貴殿の武将（もの）にはならぬぞ。どんな計略を巡らしても、俺から弟は奪えぬ。諦めてもらおう」

　珍しく多弁に物を言う劉備が、勝ち誇った笑みで曹操に眼差しを向けた。

　こいつ、余の企みを見抜いていたか――そう察し、曹操は憎々しげに顔を歪めた。大量に流した汗のせいで、貴人の象徴である白粉は半ば剥（は）げ落ち、黒々と日焼けして野性味のある奸雄（かんゆう）の素顔が露（あら）わになっていた。何としてでも劉備から関羽を盗ってやる、と彼の執着心は膨らんでいた。

「張飛よ。我の呪いを吸って、再び傀儡となれいッ」

　大蛇が、おびただしい数の子蛇を口から吐き出した。

　張飛の前に立った関羽が「その手は食わん！」と吠え、大風を巻き起こしながら青龍偃月刀を振るう。一颯（いっさつ）の刃で十数の子蛇を屠（ほふ）り、数度の斬撃で全滅させた。

「何ッ⁉」と大蛇が驚いた次の瞬間には、強烈な痛みがその左眼に走っていた。闇を切り裂く流星のごとき勢いで跳んだ関羽が、青龍偃月刀を大蛇の目玉に突き立てていたのだ。

　激痛に耐え切れず、大口を開けてのたうち回っていると、今度は張飛が大蛇の長い舌に蛇矛をぶっ刺した。アギャァァァと化け物の悲鳴が響き渡る。

「ほぉら！　大蛇の一本釣りだぁ！　とっとと紅昌の体から出やがれ！」

　筋肉が隆々と盛り上がる両腕に渾身（こんしん）の力を込め、張飛はオオオオッと咆哮、大蛇の舌を引っ張った。恐るべき大力（だいりき）である。大蛇は尻尾の先まで引きずり出され、女の体から分離した。

「王を……王を殺す……殺さねば……。約束したのだ……。秦王政を殺すと……」

　大蛇は――いや、悪鬼荊軻はとうとう力尽き、蛇の姿を保てなくなった。張飛の足元に、秦王政に八つ裂きにされて唯一残った彼の肝が虚しく転がった。

「蛇の呪いと軽功術が使える荊軻は、貂蝉から離れた。次は西施……お前の首を斬る」

　関羽はそう宣言した。貂蝉は吐血している。荊軻を失い、弱っているようだ。曹軍の兵も彼女を包囲し、もはや逃げ道は無い。

　……そのはずなのだが、女はなぜか微笑んでいた。

「フフフ……。か弱い女だからといって、一度死んでいる者を簡単に殺せると思ったら大間違いだぞ」

　貂蝉の眼が妖しげに紅く光る。

　すると、「何を言っていやがる」と言いながら彼女に近づこうとしていた張飛が、蛇矛を手から落とした。それと同時に、庭にいた全ての者が次々と武器を手放し、膝をついた。劉備や曹操も例外ではない。関羽は驚き、「どうした、翼徳！」と叫ぶ。

「き……気力が……貂蝉に刃を向けようとすると、気力が萎えていくんだ……」

「フフフ。私は生前、この美貌で呉王の闘争心を奪った。どれだけ女色に淡白な男でも、私の眼を見ただけで気力を失う。首を斬るどころか、この柔肌に指一本触れることもできぬぞ」

「おのれ。まだそんな妖術を隠し持っていたのか……。だが見ろ。私は武器を捨てていない」

　関羽は青龍偃月刀の刃を突きつけ、紅く輝く貂蝉の眼を睨んだ。

「ほう……。さすがは関雲長。たいした精神力だ」と貂蝉は小さく驚いたようだが、その余裕の笑みは崩れていない。

「でも、そこから一歩も動けぬようだな。いくら南海龍王の生まれ変わりでも、男は男。美女の妖艶な眼差しには抗えぬものよ。……さてと、お前の眼前で劉備を殺してやるとするか」

　貂蝉はそう言うと、近くに転がっていた剣を手に取り、関羽の横を通り過ぎようとした。焚き染めていた麝香（じゃこう）の香りが雨で落ちたのか、貂蝉の首から邪気に満ちた腐臭が漂う。

　呪縛のせいで、女の首を斬れない。このままでは兄者が殺されてしまう。紅昌を救えない。

　そう焦った時、ドクンドクンという心臓の鼓動音が聞こえてきた。関羽の心臓の音ではない。これは……。

　――関羽様。私奴（わたくしめ）のために……ごめんなさい。私奴はもうこれ以上、誰かの命を奪いたくありません。だから、西施から体の主導権を一瞬奪い、この剣で自身の胸を突きます。長い間は外に出ることはできませんが、自害する余裕ぐらいはあるはず。私奴の心臓さえ止まれば……。

　関羽の心に響いたのは、紅昌の哀しげな声だった。彼女の心臓が、関羽の心臓に語りかけているのだ。それは駄目だ――と関羽は己の心臓を激しく動かし、紅昌の魂に叫び返した。

　――守ると決めた者は、最後まで守る。それが私の義（みち）だ。そなたをけっして死なせぬ。

　鳳凰眼を大きく剥（む）き、関羽は天を穿（うが）つ勢いで青龍偃月刀を振り上げる。

　その直後、夜空を覆っていた黒雲が、龍の吐息で吹き飛ばされたかのごとく忽然（こつぜん）と消え、満月が姿を現した。

　月影が地上を照らす。昼間の雨で湿った地面に、女の細い影がくっきりと浮かび上がった。

　皓月（こうげつ）明るく、青龍偃月刀を輝かせる。

　関羽は「その体に触れられぬならば！」と叫び、黄金の光をまとった大刀を貂蝉の影に振り下ろした。

「アハハ。気でも狂ったか、関雲長。お前が斬ったのは私の影…………え？」

　女の首は、音も無く落ちた。

　地に転がった西施の生首は、驚愕の眼で月を見上げていた……。