少女

 夕刻。

 関羽は、雨がんだ曇り空の下、芍薬の花々を眺めながら石に腰掛けていた。


 夜が来るのを待っている。「死霊の力は、陰の気が満ちる闇夜に高まる」と関羽は少年時代に自分を可愛がってくれた寺の和尚から聞いたことがある。行方をくらました貂蝉は、恐らく自身の能力を最大限に使える夜に動き出し、この屋敷を再び襲撃するはずだった。


 ――王の気を持つ英雄は、私と荊軻殿が全て殺します。


 それが、紅昌に憑く悪鬼たちの目的だという。


 ある宴の席で曹操が劉備に「この天下で英雄と呼べる者は、君と余だけだ」と語ったように、貂蝉の標的となりえるのは劉備と曹操だ。貂蝉が曹操の手先となっている今、彼女は劉備を狙うだろう。迎え撃ち、捕える算段だった。


(紅昌は、私に助けられたことがある、と言っていた。たしかに、昔、私は童女を助けた)


 昨夜から一睡もしていないためか、関羽は微睡まどろみ始めていた。芍薬しゃくやくの清らかな香りと雨後に煙る土の匂いが、関羽の鼻腔びこうをくすぐる。


 知らぬ間に、夢へと落ちていた。

 夢の中で、関羽は、自分に芍薬の花をくれた幼い少女と再会していた。








 黄巾の乱が起きる数年前――。

 関羽は、髭を伸ばし始めたばかりの青年だった。

 お尋ね者だった彼は、一人で諸国を放浪していた。

 その少女と出会ったのは、ある街の商家で護衛の仕事をしていた時のことである。少女は、商家の隣家に住む子供で、叔父夫婦に養育されていた。


(あの童女、両親はいないのか。叔父にずいぶん厳しくしつけられているようだが)


 毎日、叔父に殴られている少女を見かけた。食事もろくに与えられていないようで、哀れなほど痩せ細っている。いつか飢えに耐えかねて盗みを働くのでは、と関羽は心配していた。


 その予感は的中し、ある日、商家の扱う食品がいくつか消えた。

 隣家の少女が盗ったのだ、と商家の主人も見当はついていたらしく、護衛の関羽を従えて隣家に怒鳴り込んだ。


 事情を聞かされた叔父はチッと舌打ちし、妻に「紅昌を呼んで来い!」と命令した。手には、棍棒こんぼうを持っている。あんな物で殴られたら、幼い少女は死んでしまうだろう。


 義理の叔母に引きずられてきた少女は、涙を流しながら、偶然目が合った関羽に助けを求めるような眼差しを向けた。


 関羽は、とっさに「盗ったのはその子ではありません。私が盗んだのです」と叫んでいた。


「何だと? おい、お前。雇われている身でありながら……」


「申し訳ない。胃におさめてしまった物は返せぬゆえ、今までの給金を全額返金します」


 関羽はそう言うと、銭を入れた袋を懐から取り出し、主人の胸に叩きつけた。


 そして、どうせ解雇されるだろうと思い、自ら商家を立ち去った。この街とも、おさらばである。孤独な身の上なので、居場所を失うことなど別に恐くはない。


 商家を去った後、しばし雨に打たれながら歩いた。


「待ってください」


 臆病そうな声に呼び止められたのは、街の出口にたどり着く直前のことである。いつの間にか雨は止んでいた。振り向くと、裸足の少女が美しい虹を背負い、そこに立っていた。手には、一輪の芍薬の花を持っている。


「あたしが盗んだのに……ごめんなさい。なぜ、あたしなんかを助けてくれたの?」


 少女はポロポロと涙をこぼしている。見ず知らずの男が自分のせいで職を失ったことに責任を感じているのだろう。優しい子だ、と関羽は心の中で呟いた。


「そなたの眼が、助けてくれ、と言っていた。だから、助けた。それが私のみちなのだ。職を失ったことなど些末さまつなこと。私は、救いを求める者から顔を背けることのほうが辛いのだ」


 少女の頭を撫でてやると、関羽は「私にも親がいないんだ」と己の過去を語って聞かせた。




 ……関羽は、ある寺の前で捨てられていたところを和尚に拾われ、村の鍛冶職人の夫婦によって養育された。夫婦は関羽を大切にし、近所に住む和尚も学問や碁を教えてくれた。


 ――お前は南海龍王の生まれ変わりなのだよ。だから、多くの人を救う人間になりなさい。


 大人たちは、幼い関羽にそう語った。真っ直ぐな心根を持つ彼は、義理の両親や和尚の言葉を信じ、やがて正義感の強い若者に成長した。


 ある日のこと。

 幼友達の妹が、悪徳役人に連れさらわれた。

 義憤にかられた関羽は、役所に押し入り、悪徳役人を殺した。役所の兵が追捕ついぶに来る前に逃げようと思った関羽は、幼友達の妹を家に送り届けると、故郷を出奔した。狙われるのは自分一人だと考えていたのだ。


「……だが、役所の兵たちは、私を取り逃した腹いせに、私の養父母や幼馴染の兄妹を殺したのだ。私が逃げたせいで、罪の無い人々を……かけがえのない家族や友達を死なせてしまった。正義の剣で悪を斬ったと得意になっていたが、浅はかだった。私が逃げずに堂々と出頭し、悪徳役人の不正を糾弾していれば、首をねられたのは私だけであったろうに……。その事実を逃亡中に知った私は、血の涙を流した。血涙は我が顔を赤く染め、水で洗っても血は広がるだけで、落ちなかった。私の顔がなつめのように赤いのは、そのせいだ」


 そこまで語った関羽が小さく嘆息すると、少女は悲しげな眼で棗色の顔を見上げた。


「お前は南海龍王の生まれ変わりだ、と養父母や和尚が言っていたのは、きっと捨て子だった私を励まそうとしていたのだ。村を救った龍王様のように強く優しい子に育って欲しい、という彼らの願いだった。私はそれを勘違いしていたのだよ。どれだけ理想を胸に抱いても……己の正義を最後まで投げ出さぬ勇気を持たねば、人は何者も救うことはできぬ。だから、私は、救いを求めている人がいたら、我が身を顧みずに助けると決めたのだ」


「髭のお兄さん……」


「子供の生命を救うために、嘘をついて盗みの犯人になることぐらい、私にはたいしたことではないということだ。そういうわけだから、もう泣くな。可愛い顔が台無しだぞ」


「……あたし、別に可愛くなんかないよ」


 少女はちょっと顔を赤らめながら、恥ずかしそうに白い花を関羽に差し出した。関羽が微笑んで受け取ると、少女は「あたし、お兄さんみたいに強い人間になりたい」と言った。


「きっと、困っている誰かのために頑張れる大人になるから。それが、あたしの恩返し」


 初めて少女がにこりと笑った。


 関羽は、その笑顔がまぶしくて、目を細めるのであった。








(……そうだった。紅昌は、あの日、私に芍薬の花をくれた少女だったのだ)


 懐かしい夢から覚醒した関羽は、風にそよぐ芍薬の花々を眺めながら、心の中で呟いた。白い花たちは微笑んでいるようだ。花の精が、関羽の記憶を蘇らせてくれたのだろうか。


 うたた寝をしている間に、あたりは夜のとばりが下りていた。そろそろ貂蝉が現れてもおかしくない刻限だが……と思っていると、「雲長兄貴!」という張飛の怒鳴り声が聞こえてきた。


「大変だ。丞相府がある方角からたくさんの悲鳴が聞こえてくる。何らかの異変が起きているみたいだ」


「何だと……。まさか、貂蝉は玄徳兄者ではなく曹操を襲ったのか」


「ヘヘヘ。どうやらそうみたいだ。さあ、飼い犬に手を噛まれた曹操の顔を拝みに行こうぜ」

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