羽化

 たとえばそれは蝶のようなものだと僕は思う。

 蝶がさなぎを脱いで羽化し飛び立つように、それは船に入り船を翼を広げる。


 渡し守は、船に入って生まれる。


 玉骨石の巨船が、両舷にその影のような翼を伸ばすのを見た。

 不定形の煙にも近い影は、その曖昧な縁をやがて美しく渦巻かせ、船を作る玉骨石が影の翼を取り込んでいく。影の煙は死者の結晶たる石に覆われ、見る間に明瞭な輪郭を得てまるで色彩のない巨鳥。


 そしてばたく。

 風の塊が細長い谷の底を強く撃つ。

 玉骨石の林があっけなく砕け散っていく。無数の破片は谷底に降り積もり、また次の玉骨石に育つだろう。



 あの死鬼が、長い、長い時をかけて集めたむくろの量は、見上げるような大きな船を作って余りあるほどだった。

 森で過ごした長い時間は死鬼の姿を粉々に砕いていた。拾う手も喰らう唇も、谷へ降りてくる足も、影色のもやだった。それでも時折見える、木炭色の布靴、骸を抱いた手、船を見上げる目、そして曖昧模糊とした発音ながら喋ろうとする口と、その中に垣間見える小さく黒い牙の歯列。

 死鬼は毎日、魂を喰い死人の骸を抱いて通ってきては、少しずつ色んなことを知りたがった。

 答えてくれるだろうかと躊躇ためらいながらものを聞く様子は、どこか、を思い出させた。


 分かったことはあまり多くなく、結局、死鬼も僕も、いつからここにいてどうなるのか知らないまま、毎日毎日同じことを果てしなく繰り返していた。

 死鬼は魂を喰い骸を谷へ。

 船匠の僕はその骸から育つ玉骨石で船を作る。

 終わりの見通しはなかった。人は必ず死ぬのだから死人はいつまでも供給されるし、船は渡し守が来るまで決して完成しないからだ。


 渡し守がいつ来るか、僕は知らなかった。死鬼に答えたとおりだ。時が来たら、としか思っていなかった。

 だから、ひどく重そうに谷へ降りてきた死鬼が、一言発する間もなく煙のように巻き上がり僕の頬をかすめて船に吸い込まれていったとき、ただこう思った。

 のか、と。


 渡し守がどこかから来るのではない。

 死鬼が渡し守にのだ。


 谷底がどよめいた。

 船の中から信じられないくらい多種多様な人の声が上がった。

 無数の鐘を鳴らすようにそれは細い谷の中に反響し、見上げた僕の目の前で、玉骨石の巨船が両舷にその影のような翼を伸ばすのを見た。

 不定形の煙にも近い影は、その曖昧な縁をやがて美しく渦巻かせる。

 死鬼が、あの子が、いま広がり姿を変えていく。

 船を作る玉骨石が影の翼を取り込む。自ら投げ入れた骸の結晶に、影の煙は覆われていく。

 現れる明瞭な輪郭。

 巨大な双翼。


 木炭色の森で自分の中に貯め込んだ死人の魂を、この船に乗せる媒介としての死鬼。

 そして、船に魂を吐き出し、自らは無数の骸をまとって渡し守となるのだ。


 死鬼、お前こそはこの船のための、渡し守のさなぎだった。


 お別れだ。僕はこの船には乗らない。

 けれどもきっと、死鬼ではなくなったお前はもう、僕のことも覚えていないだろう。

 ただ天へばたくことしかその心にはないだろう。


 風の塊が細長い谷の底を強く撃つ。

 何度も。何度も。


 そして僕の役目も終わる。

 死鬼がそうだったように、僕も、たまたま船匠になっただけの死人だ。

 役割が終われば、あるべき姿に戻る。


 突然身体が動かなくなる。

 船の大翼が起こす突風に撃たれて吹き飛ばされ。

 全身が、玉骨石の林と一緒に砕け散っていく。


 その最後に、考えていた。


 僕の骸を含む無数の破片は谷底に降り積もり、また次の玉骨石に育つだろう。

 次の船匠が僕を船に作るだろう。


 そして僕は


 いつか船に



 乗り




 君に





 きっと、






 ――――………………、







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