谷の底に通ってしばらく経つ頃、わたしは音に気付いた。

 音など、私が歩く音以外に聞いたことはなかった。


 何かを打ち付けるような音。

 歩くような音。


 何かがそこにいる音。


 わたしは恐れ、戸惑ったが、残骸の塔たちがわたしの姿を隠してくれると考えて、音のする方へ近付いてみることにした。

 細長い谷の底を進む。

 なぜだか日陰を選んで、残骸を踏んで。


 日陰のわたしから、日向にいる人影が見えた。

 人間のようだった。大人のようだった。男のようだった。知らない顔だった。

 わたしに、知った顔などないけれど。

 だってわたしは自分の顔さえ見たことがない。

 だから分からない。

 わたしは人間?

 わたしは大人?

 わたしは男?

 どれも違うような気がする。


 わたしは急に、そして初めて考える。


 わたしは何?


 突然わたしの中が大きなうつろに襲われる。

 でもこれまでだって、わたしの中には何にも亡かったはずなのに。

 どうして。


 そう思っているうちに、人影がこちらを見ていることを知った。

 わたしを。

 見ている。

 わたしが見える。

 わたしに気付いた。


 はじめてのこと。


 わたしはいつも森を歩き、喰べ、残骸を拾い、眠る。

 何かをする。

 そうしたいわけではなく、決まっているから。

 いつからか知らないけれど、そういうものだから、する。

 でも今、わたしを見ている人影は――わたしの『いつも』に無い何かだ。

 人影のほうが、何かをしている。

 わたしを見て、このあとわたしに何かをするかもしれない。


 私以外の誰かは、わたしの予想できないことをするかもしれない。

 わたしが、何かされるかもしれない。


 わたしはそのことを知らなかったのだ。

 他人というものを。





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