【10】
第30話
その『楽園』での生活を、くどくどと話すのはやめておきましょう。なんだか口にした途端に、あの夢のように楽しかった日々が、ほんものの夢のように消えてなくなってしまうような気がして、不安なのです。
約束したとおり、ジョシュアはわたしの正体を、誰にも明かすことはありませんでした。彼はわたしの秘密を守り、そしてわたしは今度こそほんとうに、アレクサを封印しました。
ハリエット、ハリエット、ハリエット。
最初は不慣れなこの名前も、呼ばれているうちにだんだん愛着が湧いてきて、終いにはわたしは元からハリエットだったのではないかと、そう錯覚するようにまでなりました。季節が、ハリエットとなったわたしの上を通り過ぎていきました。赤道近くのこの地は常に生ぬるい風が吹いていましたが、そこに久我山基地のような轟音はありませんでした。
ジョシュアはもともと都会で働いていたエンジニアで、そこでの生活に嫌気がさして、この『楽園』へと流れ着いたと言っていました。彼はわたしに、機械仕掛けの義手を作ってくれました。集落のはずれに放置されていた廃車と壊れたラジオの残骸を使って、わたしの右手にぴったりの、三本爪の手を作ってくれたのです。
「ハリエット」
集落の片隅、古びたトタン屋根の工房で、彼はわたしに言いました。
「何?」
もうこのころには、わたしは完璧に『ハリエット』になれていたと思います。
今まで何十人という人びとが、わたしの名前を呼んできました。それが『アレクサ』であれ『ハリエット』であれ、こんな風に親しみを込めて呼んでくれたのは、後にも先にも彼ひとりだけです。
「もう、生活には慣れた?」
「うん」
わたしは相変わらず、ノーラの家の世話になっていました。一度はそこを出て自活をしようとしたのですが、ノーラはかたくなに引き留めてくれました。「お前はハリエットで、お前はもうわたしたちの娘なのだから、気兼ねすることはないんだよ」と、そう言ってくれたのです。
「手の調子は?」
「とてもいいわ」
この機械義手のおかげで、わたしにできることは増えました。細かいこと、たとえばカトラリーやペンを持つことは難しいですが、簡単な用事であれば十分用足りました。
「痛くはない?」
「うん、大丈夫」
わたしは三本の爪をカシャカシャ動かしながら、切り飛ばした自分の右腕について考えます。過去の自分にこんなことを言うのはなんですが、よくもまあ、あんなことができたなと感心してしまいます。
「ハリエット」
「うん」
「……一緒にならないか?」
一緒になる。その言葉の意味がすぐには分からなくて、わたしは、
「……え?」
目をパチパチさせると、微笑みながらもものすごく真剣な顔で、ジョシュアがこちらを見つめていました。
「……『一緒』って、その」
「一緒に、暮らさないか? その、ええと……。あー、だからつまり、その、『夫婦』として」
夫婦。
言葉は知っています。概念も知っています。家庭を構成する基本のユニット。最小単位。つがい。でもそれはわたしとは無関係の、どこか遠い世界の話なのだと思っていました。
だからその言葉の延長上に、自分の存在が浮上した時、わたしの頭は『考える』という行為をやめました。
「……嫌か?」
「ううん」
あの時、わたしは『バカ』になっていたのでしょう。わたしの短い生涯において、あの時ほど『バカ』になっていたことは、他にありませんでした。
胸の中、奥の方から何か熱いものが湧き上がってきて、たちまち空洞を満たしていきました。心臓がドキドキと脈打っていて、バイタルサインは明らかな異常を呈しているはずなのに、ちっとも不快ではありませんでした。わたしは自分の手を顔に当てました。自分の顔は自分では見えないのに、なぜか頬が赤くなっているのがよく分かりました。
そんなわたしを見てジョシュアは、大きな口の端っこを吊り上げて、目を細めていました。
笑顔。
わたしが一生涯の中で見た、何よりも深くて何よりも温かい感情が、そこにありました。
「ハリエット」
「うん」
「……結婚しよう」
「……うん」
そうしてわたしは『ハリエット』として、この地でジョシュアと『結婚』しました。
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