第29話

 ハリエットになってからというものの、わたしはほとんど抜け殻のように、毎日を過ごしました。午前中は左手だけでできるだけの家事を手伝って、午後はこうやって木陰の中から空を見上げる日々が続きました。


 わたしには『趣味』と呼べるようなものはほとんどなく、暇さえあれば空を見ています。この集落の空は静かでした。時おり牛や馬がいななく声や、それを忘れたころに誰かの大きな笑い声が、天の底を割るような響きを持って空へと抜けるのが聞こえるくらいでした。殺戮兵器や戦闘機の轟音はひとつもありませんでした。そんな空を、ハリエットになったわたしは、セキレイのパイロットからただの腑抜けになったわたしは、日が暮れるまで見上げ続けていたのです。


 足音は聞こえていました。以前のわたしだったなら、はじかれたようにそっちを向いたでしょう。草を踏み分ける、男性の足音。大きな体が空気の中を動く気配。視界の隅で、人影はわたしのとなりに立ちました。わたしはぼんやりと首を伸ばしたまま、ちらりと振り返りました。


「――となり、いいかな?」


 ジョシュアでした。


「……ええ」

「ありがとう」


 彼はそう言って、わたしのとなりに腰を下ろしました。


 そうやってふたり、何を話すわけでもなく空を見ました。一時間でも二時間でもそうしていたような気がしていましたが、たぶん、そんなことはなかったのでしょう。ジャングルの上を走り抜けてきた風が、緑の濃い匂いを漂わせて、丘の上へと舞い上がってきました。わたしはバサバサと揺れる髪を左手で抑えました。そしてようやく、ジョシュアがこちらをジッと見つめていることに気がついたのです。


 ほんの数分の沈黙の上を、生暖かい緑の風が通り抜けたのちに、不意に彼は言いました。


「……アレクサ」


 アレクサ‼︎


 ほとんど数ヶ月ぶりにその名前を聞いた時、果たしてわたしはどんな顔をしていたのでしょうか。わたし自身も見てみたいのです。きっとものすごい顔をしていたのだと思います。目を思いきり開けて、鼻がひくついて、口はわなわな震えていたに違いありません。


 でもジョシュアは、わたしの顔については何も言いませんでした。彼は右手をポケットに突っ込み、銀色の鎖を取り出しました。わたしが捨てた『アレクサ』が、なくしたと思っていたかけがえのない思い出のかけらが、その手のひらに乗っていました。


「……」


 ドッグタグ。ならびにグエン曹長の指輪。


 わたしは震える手で、それを受け取りました。握りしめると、冷たい金属の手触りが、生ぬるい気温の中でひどく心地よく感じられました。


 わたしのないはずの『心』は、揺れに揺れていました。ジョシュアはわたしの正体を知っていたのでした。たぶん今の反応を見て、わたしがまだ『アレクサ』としての記憶を、失っていないことも悟っていたことでしょう。わたしは手のひらを開きました。『Alexa』という名前も『JP07-99-3043』という認識番号も、一生わたしを逃がしてはくれないのだな、と思いました。


 ジョシュアはもう、わたしの方を見ていませんでした。彼は布袋からガサゴソ何かを取り出して、膝の上に置きました。弦楽器というものの存在は知っていましたが、現物を見るのは生まれてはじめてでした。

 風が青空を揺らしました。


「……恋人から?」

「え?」

「その、指輪」


 指輪。


 たぶん倒れた時に、泥だまりの中に落としたのでしょう。泥そのものはきれいに取り払われていましたが、透明な石の部分も、重厚な金属の台座も、以前のようなかがやきは失っていました。


「誰から贈られたんだ?」

「……グエン曹長」

「恋人なの?」

「違うわ」


 そんなこと、冗談でも言ったら、わたしはニコールに殺されてしまうでしょう。


「君、軍人なの?」

「うん」

「パイロット?」

「うん」

「撃墜されたの?」

「……うん」


 ジョシュアは弦楽器をいじりながら、いろいろ聞いてきました。彼の言葉の合間合間に、ぽろん、ぽろんと弦をはじく音が聞こえてきました。


 彼がわたしをよく思っていないことは知っていました。彼は『ハリエット』の婚約者だったのですから。『アレクサ』を失っていないのに『ハリエット』になりすましたわたしを、許してくれるはずはないのです。


 わたしは唇を噛みました。唇を噛んで、覚悟しました。この集落から追い出されたら、どうするか。


 イーサンの死が、背筋を這い上って記憶に手を触れました。軍には帰りたくない。されとていったいどうやって、この先、生きていけばいいのでしょうか。わたしには分かりません。分かりたくありませんでした。


「何があったのか、聞かせてくれないか?」

「……」

「俺しかいないよ。……誰にも言わない」

「ほんとうに?」

「ああ。約束するよ」


 彼の爪弾く弦楽器の音色の中で、わたしはすべてを語っていました。


 話は紆余曲折がはげしくて、肝心なことはうまく話せないのに、どうでもいいことばかりが次つぎに湧き上がってきて、収拾がつかなくなりました。


『心』のない兵器として生み出されたこと。フェンスの向こうにいた女の子のことがうらやましかったこと。みんながどんどん先に死んでいってしまったこと。そして他でもないこの手で、いちばんの戦友を撃墜しなければならなかったこと。


 鼻水が垂れてきて、何度もずびずびと吸い上げました。そんなわたしの背中をさするように、ジョシュアの手元から弦の音がぽろん、ぽろんとこぼれ落ちてきます。


 視界がにじんで、ジャングルの木々がただの緑に見えました。太陽の光でさえ、水の中に沈んだ発光体のように、ぼやけた輪郭しか見えません。パイロットにとって目は命なのに、あの時のわたしには、雲と青空の区別さえ、はっきりとは認識できませんでした。


「アレクサ」

「……ん」

「拭いたらどうだ?」

「何を?」

「……涙」


 涙。


 彼にそう言われるまで、わたし自身、『涙』を流しているだなんて、気がつきもしませんでした。


「涙……」

「泣いているじゃないか」


『泣く』という行為。ガブリエルが死んでもリーランド曹長が死んでも、何よりイーサンを殺しても『泣けなかった』のに。


 目元から泉の如く湧き出してきた雫は、頬と顎を小川のように通り抜け、手の中に落ちていきました。アレクサのドッグタグと、グエン曹長がくれた指輪の上に落ちたそれは、太陽の光の下で朝露のようにキラキラとかがやきました。


「アレクサ、君はどうしたい?」


 どうしたい?


 わたしはそのかがやきと似たものを、よく知っていました。イーサンの手首で踊っていた、ヒナタのお守りのブレスレット。殺戮兵器が飛び交う空を背景に、イーサンはわたしを見下ろして、そう聞きました。


 どうしたい?


「……」


 まばたきをすると、また大粒の雫が頬の上をすべっていきました。大粒の雫がこぼれた後の視界は晴れ渡っていて、イーサンの幻はいつの間にか消えていました。


 わたしはようやくまじまじと、ジョシュアの顔を見つめました。この人がわたしを助けてくれたから、瀕死のわたしを、泥沼の中から引き上げてくれたから、わたしはまだ、生きていられたのです。


 なんでこの人がわたしを助けてくれたのか、わたしには今でもまだ、分からないのです。


「……軍に戻りたい?」

「……いいえ」

「じゃあ、ここにいたい?」

「……うん」


 ジョシュアの指が、ふたたび旋律を奏ではじめます。わたしはその音を、優しい木陰の中で、膝を抱えて聞いていました。殺戮兵器の轟音も、バスケットボールがバウンドする音も、ここにはありませんでした。


「……ここで暮らそう」

「……うん」

「君はもう、ハリエットだ」

「……うん」

「……アレクサとしての日々は、もう忘れよう」

「……うん」


 それはあの時のわたしにとって、とても甘美な提案でした。冷たい地獄から、イーサンやガブリエルや、一個上のわたしとはべつのアレクサの声が聞こえてきました。


 わたしはそれを無視しました。わたしは軍を捨てたのです。わたしはわたし自身のために、『アレクサ』という名前すら、これから捨てるのです。


「ハリエット」

「うん」

「愛している」

「うん」

「一緒に生きよう」

「うん」


 もうわたしは『アレクサ』でも『JP07-99-3043』でもありませんでした。

 そうしてわたしは、『楽園』を手に入れたのです。


 兵器として生まれた身分にしては、不釣り合いなほど、そこでの生活は『幸せ』でした。

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