第3話 塵が昇る

 彼は十四になるころまで、ブラーという名で呼ばれていた。

 とある旅館の下働きとして朝から晩までせっせと働いていた。三日に一度くらいは朝から朝まで働いて、そこから一睡もすることなく次の仕事に取りかからなければならなかった。また、一日に何食かは食事を抜かれることもあり、それは決まって、彼が仕事でをしてしまったときだ。

 彼は奴隷であった。

 アトランティス帝国の田舎のほうでは魔法革新も遅れていたため、正規雇用の従業員だけでなく奴隷を働かせることは珍しくない。

 その奴隷に対する扱いは、地域性や経営者の性格によるところであり、人権を与えられたうえで雇用される場合も、家畜と同等かそれ以下の扱いを受ける場合もあった。彼のいた旅館は後者だったけれど、その旅館には、彼以外にも何人かの奴隷が、同じように働いていた。

 奴隷の中でも彼は最小年で、昔、ここで働いていた奴隷の娘が、当時宿泊していた客に無理矢理部屋へと連れこまれ、そのときにできてしまった子供だった。旅館の主人は問題にしたくはないと、奴隷の娘の訴えを取り合わず、むしろ客の肩を持つように、その娘を責めたてた。その娘、つまり彼の母親は、心と体を病ませて、彼が生まれて間もないころに死んでしまった。

 この世界では、そういう不運が、往々にして起こるらしい。たとえば、天と地とがあるように、朝と夜とがあるように、生と死があるように、人間も当然くっきりと分かれていて、生まれたときから恵まれるに決まっていることもあれば、とんだ外れくじを引いてしまうこともある。

 その線引きで分かたれた結果がなのだと、赤ん坊のころから奴隷という身分を押しつけられていた彼は知っていた。

 今日も雑巾で廊下の床を拭く。

 一階から二階までが吹き抜けになっている旅館で、二階には上等な客室、一階には安い客室と食堂がある。

 一階の中央では、あまりにも恥知らずな格好をした踊り子が音楽に合わせて踊っていて、そのすぐそばでは、これまた恥知らずな雰囲気の歌姫が妖艶な音色で歌っている。


「滅茶苦茶になってもいい

 悲しみが迎えにくるまで

 眠れない悪夢を見るまで

 私はここで待ってるから」


 彼は二階の廊下からそれを見下ろして、そして、床を拭く。冬の冷たい水に晒されてあかぎれになった両手が痛い。手が悴んでろくに動かせない。おまけにやたらとうるさい歌が耳に残って辟易とした。風呂場の黴のようにしつこい声だ。もしくは、爪の間に詰まった汚れのような。もしくは、奴隷をしつけるときの鞭のような。

 辟易としていたのに、あんまり耳に残るから、彼はいつの間にか、鼻唄を歌っていた。

 うるさくてはまた叱られてしまうので、歌姫の声に紛れるように、誰にも聞こえないように。

 それなのに、その男は気づいた。


「上手だね」


 その穏やかな声はまったく聞きなれないもので、客だろう、と彼は悟った。この旅館の主も、他の従業員も、奴隷の誰も、こんなに品のよい話しかたをする者はいないのだ。

 客と話すのを主人は嫌がる。けれど、客を無視するのはよろしくない。彼は面倒だと思いながらも声のしたほうへ振り返った。

——眩しかった。

 光を反射して閃いているように見えた。宝石のように鮮やかで淡い緑色の髪も、その身に纏った純白の外套マントも。

 齢は二十代後半から三十代前半ほどの、若々しい顔立ちをした美丈夫だ。たいそう優美な身のこなしをしていて、二階の廊下で会ったことからも、きっとこの男はいいご身分の人間なのだろうと悟った。

 どうしてこんなひとが自分に話しかけているのか、彼には理解できなかった。

 その男は生気できらめいた眼差しで彼を見つめ、「すごい、」と言葉を続ける。


「火が喜んでる」

「は?」

「ほら。もっと歌ってって」


 男は柱に掛けてある魔法仕掛けの燭台の火を指差した。

 魔法で何倍にも光を反射させた灯火は、橙色に燃えながら、ゆらゆらと揺れている。いつもどおりの姿かたちだ。どう足掻いてもなにかをしゃべっているようには見えない。

 見惚れてしまったことも忘れて、彼は「こいつ狂人か?」という目で男を見た。


「僕はサダルメリク・ハーメルン」男はにこやかに名乗った。「君は?」

「…………」

「おや、聞こえてない? あ、もしくは話せないのかな」

「……勝手に話すなってご主人に言われてる」

「そうなのかい。ごめんね。一階がうるさくて文句の一つでも言ってやろうかと思ったら、君の歌が聞こえたんだ。気になって話しかけちゃった。君はここの従業員?」


 ごめんね、と謝ったわりには、サダルメリクは彼に話しつづけた。

 彼は困った。努めて「うん」とか「はあ」としか答えなかったのに、不思議と会話がやむことはなくて、こんなところを主人に見つかりでもしたら面倒だな、と思った。

 いっそそれを狙った嫌がらせかもしれない。自分の右手首に嵌められた手枷を見つけたのだろう。客の中には奴隷をいびりたい者も少なくはない。どうにか自分の品位を落とさずに、しかし角を立たせられないかと、このように奴隷にかまうのだ。

 そのように彼が考えていたとき、サダルメリクの背後から「探しましたよ、メリクさま」という呼ぶ声がした。サダルメリクは振り向いて、「ケートス」とこぼす。

 ケートスと呼ばれた男もサダルメリクと同じように若かった。温かみのある胡桃色の髪をしていて、サダルメリクのそれとは形の違う、白衣のような外套ローブを羽織っていた。腰には指揮棒のような杖を佩いているのが見えて——彼は「あっ」と声を漏らした。


「メリクさま、行きましょう」

「はいはい。新薬の研究だっけね。僕と君との仲だから付き合うけど、正直、僕がどうこうして解決するようなことでもないと思うよ」

「そんな謙遜をなさいますな。とにかく、一度、村のほうへ」


 サダルメリクが踵を返すその去り際、彼のほうを見遣ってにこりと微笑んだ。ゆるやかな音で「“お大事に”」と告げられた直後、彼は両手の甲に違和感を覚える。

 ふと見下ろせば、自分の手の甲の皸がみるみるうちに閉じていく。みちみちと皮膚がその赤を侵食していくように蠢き、彼がぞっとして肩を震わせたら、もうその手はきれいなものになっていた。皸どころか傷一つない両手。彼は顔を上げる。

 自分を置き去りにする颯爽とした背中を、ただ見つめていた。

 白い外套マントが翻れば、その腰にはケートスという男と同じように、長物を佩いているのが見えた。きっとだ。

 魔法のありふれた世の中だが、彼にとってははじめての出会いだ。

 星と歌い、光を奏でる、異能の賢者。

 あれが、魔法使い。






 アトランティス大陸はほぼ正円をかたどる環状構造で、帝都のある中央島に輪をかけるようにして、運河と陸地が広がっている。そんな大陸の全土をアトランティス帝国が占めているものの、大陸統一以前からの文化や慣習などは各地に潜在しており、また、帝都から離れた沿岸部に近づくほど、人や物の行き来は少ない。

 彼の働いていた旅館とて、周囲が観光地というわけでもなく、もてなす相手は行商人や隊商がほとんどだ。つまり、こんな辺鄙なところに魔法使いが泊まりに来ることは、たいへん珍しいことだった。

 どうやら、サダルメリクとケートスという魔法使いは、近くにある村の流行り病をどうにかするために来たようで、そのあいだはこの旅館に滞在するらしい。

 従業員はひそひそと噂話をしていたし、主人は緊張と喜色で強張っていた。

 いつも悪い顔をした主人があんなににこにことして、露骨に手揉みするということは、よっぽど地位のある魔法使いなのだろう、とブラーは思った。

 滅多に見ないような立派な外套が靡く様は、旅館中で常に目を引き、自然と彼も目で追った。どうしても目で追ってしまった。人々が魔法使いに慣れてからも、彼だけは変わらずに追いつづけた。

 箒を掃く手が止まっていたので、主人は「サボるな」と彼に怒鳴った。けれど、しょうがないのだ。サダルメリクの周りはきらきらとしていて、目が離せない。目の前にいなくとも、瞼に焼きついて離れなくなった。

 あんまり熱心に見つめるものだから、サダルメリクとて気づかないわけがなかった。よっぽどのことがなければその瞳に微笑み返し、気が向かなければ無視した。そして、機嫌がよければ彼に話しかけた。


「僕の顔になにかついてる?」

「別に……」

「だったら、僕のことをそんなに見るのはどうして?」

「だめだった?」

「いや、単純に不思議で気になっただけさ。このあたりじゃ魔法使いなんて物珍しいから、見られることには慣れてるんだけど、君はいつまでも飽きずに見つめてくるだろう。すごく熱烈で、愛でも囁かれるのかと思ったよ」


 囁くべきだったのだろうかと、別れたあとでもブラーは思った。あんなふうになにかを望まれたのははじめてで、しかし、冗談で彼を笑わせるほどの素養なんて自分にはなく、きっと恥を掻いたり掻かせたりするだけだったはずだと落ち着いた。

 彼にとって、サダルメリクを目で追ってしまうことは、不思議でもなんでもなかった。彼がサダルメリクという人間を知ってから無視できたことは一度もない。たとえば、向日葵が太陽を追う原理と一緒だ。眩しくて目が潰れそうになりながら、爆発的な光源を追いかけた。


「知ってるかな? 向日葵が太陽を追う原理は、光刺激と体内時計によるものらしいよ。動機は光合成を円滑にして生長を促進するため。魔法使いが光を放つのは道理だし、それが世界をよりよくするならば、この現象も納得がいくけど、生憎と僕は太陽サンではなく、水瓶座の首星サダルメリクだ」


 他愛もない会話の中、たまにサダルメリクは彼の理解の範疇を超える話をすることがあった。先の言葉などは、彼が最も頭を悩ませた言葉だ。


「魔法を使うときは魔力を消費する。そしてそれを燃焼による熱エネルギーで補う。身近なところなら炎がそうだけど、空に浮かぶ星なんかは爆散しつづける最高の燃料だ。だから、魔法使いは、その力にあやかるため、星の名を冠するのさ。太陽を冠する魔法使いなんて長いあいだ生きてきて見たことがないよ。そんな魔法使いがいたら、それこそ神に等しい」


 その日に話された言葉の意味を、彼はじっと考えてみた。

 自分は太陽ではないから追いかけるな、と言いたいのだろうか。魔法使いではなく一介の奴隷にすぎない彼にはサダルメリクの言わんとすることがわからなかったけれど、少しでもその可能性があるなら、目で追うのはやめようと思った。あの純白の外套マントが視界の端をよぎれば、耐えるようにして目を瞑った。

 しかし、それは一日ともたなかった。なんせ、今度はサダルメリクのほうが彼を追いかけてくるのだ。

 目が合うたびにその目を瞑る彼を、「え、なんで?」という顔で見つめ、そういうことが二度三度続けば、これはいよいよどうしたことかと気になった。掃除をしている彼の顔を間近で覗きこみ、洗濯物を干している彼を手伝ったりもした。

 おかげで彼は気が気でなかった。この魔法使いは何故こんなにも自分にかまうのだ。自分が厭わしいわけではなかったのか。大海原のように大らかな瞳で見つめられて意味がわからなかった。

 その光景は当然のごとく周囲の目にも異様に映る。他の従業員が主人を呼んで、呼ばれた主人は「こいつがなんかしましたか?」と焦りだか怒りだかわからない顔で冷や汗を掻き、仕舞いには「この塵屑ごみくずが!」と彼の頭を殴った。

 サダルメリクは慌てて止めたけれど、主人は忌々しそうに彼を見ていたので、きっと自分が去ってからも彼は責められるのだろうと思った。

 彼が奴隷であることには、サダルメリクも気づいていた。育ち盛りの少年の体は女児のように細くて、重たい癖毛には艶がなくて、その瞳は生気を欠片も感じさせず、挙げ句の果てには右手首の手枷。なるほど扱き使われているのだろうと悟るのに、そう時間はかからなかった。

 サダルメリクはその日も、誰もいない長い廊下で、たった一人で塵を掃いている彼を見つけた。


「ねえ、君」

「…………」

「無視されたって旅館の主人に言いつけようか?」

「……なんだよ」


 脅しやがった、という悪態が聞こえてくるほどの仏頂面。何度話しかけてもこの無愛想。じっと見つめてくるくせに、絶対に自分からは手を伸ばさないのがちぐはぐで、サダルメリクは面白がった。


「あはは、そんな顔をしないでよ」サダルメリクはにこやかに返す。「もうすぐで、ケートスの仕事がひと段落つきそうなんだ。僕はあくまで彼の付き添いだから、そうなればこことはおさらばさ。あと少しの我慢と思って、僕に付き合ってくれよ」


 いびりたいわけでも、困らせたいわけでもない。ただ、彼が自分を見つめる理由を知りたかっただけだ。

 だって、特別に愛想をよくしたわけでも、なにかを与えたわけでもない。出合い頭に怪我を治してやったけれど、そんなのは些細なことだ。彼の手には新しい皸も鞭の痕もできている。サダルメリクが彼のためにしてやったことなんて、結局は無駄なのだ。

 にもかかわらず、いつまで経っても自分を見ることに飽きない、この向日葵のような少年に、サダルメリクはなにかしてやりたいと感じていた。


「そういえば、君の名前は?」

「……ブラー」

「変わった名前だね」

「目の前に塵やごみがあると、雲がかかったみたいに視界がぼやける。俺がいても一緒。だから、ぼやけブラー

「なにそれ。趣味が悪いね。人を塵屑ごみくずみたいに」

「塵屑なんで」


 あるべき悲愴さえ乗らない真っ平らな声で、彼はそう言った。

 この塵屑が、というのは主人の口癖だ。その口癖が周囲に伝播して、塵屑というのは彼を指す言葉となった。

 傷つくための情緒を覚えるよりも先にそのように呼ばれていたから、彼は傷つき損ねたまま、この歳まで生きてしまったのだ。

 サダルメリクは目を瞬かせて言う。


「君、素質ありそうだし、魔法使いになればいいのに」

「魔法使い」

「そう。魔法は便利だよ。世界の裏技みたいなものさ」そよいだ葉が頬を撫でるような声で、サダルメリクは言った。「絵を学びたいなら画家から、武術を学びたいなら武人から習うように、魔法を学びたいなら魔法使いから習うんだ。ちょうど手が空いてて寂しかったんだよね。それでケートスの手伝いとかしてたんだけど。僕のところで魔法を学んでみない? 君にその気があるなら弟子にしてもいいよ」


 ずいぶんと分不相応な話をされていると、彼は思った。

 ただ、彼にそのように告げるサダルメリクの瞳には塵屑を見下してやろうという魂胆はまるでなくて、まるで風にしなう草木のように、雨粒を受けて光る花のように穏やかなのだ。

 その瑞々しい肌さえもいっそ透明で、血管ではなく葉脈が透けて見えるのではないかと、本気で思いこみそうになる。


「……魔法を使えるようになったら、掃除も捗るし、洗濯も楽そうだな……」

「せっかく魔法使いになったのに、またそうやって働くの?」

「俺の仕事だから」

「仕事なら変えてもいいんだよ」

「だったら、俺のこれは仕事じゃなくて、」彼は言った。「人生だ」


 言いきったその姿を、サダルメリクは見下ろす。

 向日葵はこの地に強く根を張っていた。引っこ抜いてやるつもりだったのにそれを拒んだ。いつも彼は自分を目で追うことしかしないのだ。今も同じように、サダルメリクを見上げたまま、彼は絶対にその手を伸ばしはしない。

 サダルメリクが「悲しくはならない?」と尋ねると、彼は「別に」と答えた。それはまぎれもなく彼の本心であったけれど、サダルメリクは信じてくれなかった。


「親がいなくて、お腹がすいて、罵られながら他人の言いなりになるしかないことは、じゅうぶん悲しくて、つらいことだと思うよ」


 サダルメリクはそう言うけれど。

 元からいない誰かを恋しいとは思わない。空腹に慣れたのか、胃袋が小さくなったのか、彼が飢えで苦しむことは意外にも少なかった。主人の機嫌を損ねて、あるいは客の気まぐれで虐げられても、言われたとおりのことを淡々とこなす。皿を洗って、洗濯物を干して、客室の掃除とベッドメイキング、ネズミが出たらその始末、掃いて溜めたごみを捨てて、たまに自分がごみのように扱われて、ぶたれて、なにも言わずに眠りにつく。

 彼がこの世界に生まれてからずっとしてきたことだった。


「……俺は俺であることが苦しいだけだから、それ以外の全部はどうともない」


 なにかが特に悲しかったりつらかったりするのではない。

 ただ、常にそうなだけだ。

 毎日毎夜毎秒、胸を掻き毟りたくなるほどの感情に苛まれていて、この世界の重力に押し潰されそうな、脆弱な自分が厭らしかった。

 死ぬまでずっとこのままなのかと、思いを馳せて眠れない夜もあった。塵屑のように生まれた自分は、このまま塵屑のように呆気もなく死んでいくのでは——そのように考えると本当にきりがなくて、心を紛らわすように窓の外を見た。

 夜空を仰げば、燦然とした輝きが飛沫を上げている。その星々はあまりに遠く、しかし、魂が燃焼した姿なのだと彼は知っていた。

 誰かが言っていたのだ、人は死んだらお星さまになるんだよと。

 どうしようもないくらいみじめな自分にとって、その行く末だけが、絶望的に美しかった。

——こんな塵屑でも火をつければ夜を照らすくらいには燃えてくれるだろうか。


「死んで星になりたい」


 そんな言葉が口を滑ったので、なんだそれ、と彼は思った。

 案の定、サダルメリクの目も瞠った。

 別にこんなことを言うつもりではなかったのに。けれど、噛み締めて、飲み干して、そうすれば身に染みて、本心のような気がしてくるから不思議だった。

 ブラーが死んでからしかなれないものを、魔法使いは体現している。だから、こんなふうにサダルメリクを見上げてしまうのだ。

 でも、手は伸ばさない。どれだけ掃いて集めても、どんなに積もっても、所詮、塵は塵だから、空には届きやしないと知っている。

 世界にとって、彼はちっぽけな塵屑であり、ブラーだった。


「俺に火をつけて燃やして」


 譫言のように唱えた彼を見つめ、サダルメリクは目を細めた。

 サダルメリクが彼と初めて会ったとき、彼の歌声で揺れる炎を見た。その燈火は艶々としていて、まるで濡れているように光っていた。きっとあの火は彼の心を知っていたのだ。

 なにか言おうとして、しかし、「ブラー!」と彼を呼ぶ声が聞こえた。主人の声だった。

 二人のあいだで音が消える。

 彼はサダルメリクに一度頭を下げて、すぐに主人のもとへと走っていった。主人の目が叱責の色をしているのが見えたので、きっとまたいつものように塵屑がと怒鳴られるのだと彼にはわかった。

 それでも、彼は勤勉な奴隷だったので、「くそったれ」と思いながらも口には出さず、押しつけられた全てに従う。息をつくと、廊下に灯った燭台の火が揺れた。






 その日は、とても天気がよくて、風の心地好い日だった。夜になっても快晴で、磨かれたような月と星々が、夜の闇を飾りつけていた。

 旅館の主人の機嫌がよかったのは、その夜空が綺麗だったからではなく、名の知れた商会の一団が宿泊に来たためだった。

 一団は羽振りがよく、大量の金を主人に払った。どこぞで仕入れた貴重な酒を帝都まで運ぶ途中のようで、馬車には重い酒樽がいくつも乗っていた。


「なんでも、ニガヨモギとかの薬草からできる度数の高い酒らしくてね、幻覚作用を引き起こすおそれや中毒性があったことから、一時期は製造も流通も禁止されていたんだって。比較的安価だがいまじゃ珍しいってんで、目をつけたらしい」

「そんなのを運ぶお手伝いをするの? しないように気をつけなきゃね」


 従業員はこそこそと囁き合う。

 その酒樽を保管してもらえないかと、一団が主人に頼み、承諾した主人は従業員にその運び入れを手伝わせることにしたのだ。

 ブラーも人手として借りられていて、従業員の話をぼんやりと聞いていた。

 実際に運びだす酒樽は想像よりもずっと重く、とんでもない力仕事だった。二人がかりで一樽ずつ運ぶのだが、彼が樽の端を掴んだとき、これはまずい、という感覚があった。これまで運んだどんな荷物よりも重たい。従業員と二人で抱えて、階段にさしかかったあたりが最悪だった。従業員が先に階段を上ったのだが、おかげで、従業員よりも小柄な彼の腕に、酒樽のほとんどの重みが乗った。

 ずるりと、樽が彼の手を滑る。

 落ちた拍子に樽のたがが外れた。あたりで短い悲鳴が上がる。ごろごろと階段を転がり落ちていった酒樽が、中の酒を撒き散らしてゆく。

 をしたのだ。

 その惨状は彼が思ったよりもずっとひどくて、彼の後ろで酒樽を運んでいた従業員の足も濡らし、それに滑らせてさらに樽を割った。

 酒浸しになった廊下と階段を、彼は冷や汗を垂らしながら見つめた。


「こんの、塵屑が!」


 当然、主人は彼を怒鳴りつけた。

 彼は切羽詰まった声で何度も謝ったが、主人の耳にはそれさえも届いていないようだった。

 主人は、一団の者のご機嫌を伺いながら、頭を下げる彼の髪を掴みあげた。上擦った声で「こいつにはきつい仕置きをしておきますので」と主人が言ったので、もしかしたら久々に鞭を持ちだされるのかもな、と彼はぼんやり思った。

 彼は握り潰さんばかりに腕を取られ、引き摺られるようにその場を離れる。

 彼の履いていた靴も酒は浸かっていたようで、点々と足跡の染みを作っていった。

 酒浸しの廊下は他の従業員たちが拭いている。

 相変わらず、一階では歌姫が呪いのような歌を歌っていて、彼は最低の気分だった。


「よくもしでかしてくれたな!」


 顔を険しくした主人に連れてこられたのは地下で、住みこみで働く従業員や彼の部屋などがあり、その最奥には物置部屋がある。

 彼は知っていた。その物置部屋には、窓が一つもない代わりに、鎖や鞭があることを。主人が彼をしつけるときは、決まってその部屋へと連れてゆかれるからだ。

 主人は強引に彼を引っ張り、壁に繋がれた鎖を手に取った。彼がどこにも逃げだせないよう、彼の右手に嵌められた手枷へと、その鎖を繋ぐ。

 壁にはもう一本の鎖が垂れていて、そちらには枷がついていた。それも彼の左手に繋げば、彼は磔になった。

 服を剥がされた背中に振るわれる鞭の激痛は、皮膚が裂ける痛みに値した。

 彼は奥歯を噛み締めながらそれに耐える。

 お仕置きが終わっても仕事をきたさないようにと三回だけ振るわれた鞭は、血染めの痕を彼の背に刻んだ。生理的な涙で視界が滲む。主人の罵倒が聞こえないほど、頭はぼうっとしていた。

 散々罵られ、息を整え、どれだけ時間が経ったか。お仕置きを終えたことで、主人は彼の左手の手枷を外した。

 右手の枷も、というところで、従業員が主人を呼びに来た。

 焦ったような顔で「こぼした酒に蠟燭の火が」「いま水を汲んで消火しようと」と説明した。

 主人は慌てて物置部屋を出ていく。

 彼は右手を繋がれたまま、その背中を見送った。

 こぼした酒ということは、さきほど自分がこぼした酒のことだろう、と彼は思った。度数が高い酒ということだったから、そういうこともあるのかもしれない。そんな大事にはならないだろと高を括りながらも、また主人は機嫌を損ねるのだろうな、と彼は考えていた。

 大きな誤算である。

 この時点では誰も気がついていなかったし、誰もそこまで考えが及ばなかった。なにせ、非常に珍しい酒だ。その特性を微に入り細に入り理解している者は少なかった。それは商会の一団とてそうで、あの大量の酒がまさか悲劇を呼ぶなどとは予想だにしなかった。

 一つ目の不幸は、その酒の酒精を真実よりも低く見積もっていたこと。度数が高いと囁きながらも正しくは理解していなかったこと。

 二つ目の不幸は、そんな酒の樽をひっくり返してしまったこと。旅館の階段も廊下もずぶ濡れにした挙げ句、後処理として布巾で拭きしめた。その布巾は未だに旅館のあちこちに置かれている。

 三つ目の不幸は、旅館の至るところには燭台が置かれていて、火が灯っていたということ。揮発した酒の匂いに喜びながら燃えたこと。

 そして、四つ目の不幸は、これから起こる。

 樽にたっぷりと注がれた酒が、火事によって解放され、そこに大量の水を注がれる——薄まりきらずに波打たれた酒が押し寄せるように広がってゆき、それに乗って火炎も運ばれた。


 炎上。


 ただの小火ぼやが爆発に変わる。飛び火はまるで生き物のようにあちこちを跳ねた。瞬く間の阿鼻叫喚だ。もくもくと上がる煙、逃げ惑う命辛々の足音、地獄の窯の茹であがったような惨状。

 状況を把握できない彼にも嫌な予感がした。上階から運ばれてくるのは、狂乱の悲鳴に、不吉な煙と焦げた臭い。尋常でない気配から、なにかよくないことが起きているのは明白だった。

 そのとき、彼の濡れた足跡を伝って、火が地下室にまで侵入する。あっという間に煌々と点った靴を、彼は「ひっ」と蹴飛ばすように脱いだ。

 ここまでくると、上階の惨状を察せざるを得なかった。体温が上がったように感じたのは嘘ではない。

 彼は「誰か!」と叫ぶけれど、その声は上階にいる誰の耳にも届かなかった。

 それもそのはず、上階は地下よりもよっぽど惨憺たるありさまで、誰もが自分の命に精一杯だった。

 はじめは消火に努めていた従業員も、煙を吸ったことで意識を失い、無惨にも焼かれていった。命が惜しいならばとっくに旅館の外へ出ている。

 彼は炎の荒れ狂うこの建物に捨て置かれてしまった。


「くそ……っ」


 彼は右手首に嵌められた手枷と、そこに繋がる鎖を睨む。乱暴に引っ張っては意地の悪い金属音が鳴った。手枷から手を抜こうとするも、まるでだめだった。彼を縛るためだけにある拘束具は、なんとか逃げだそうとする彼を、縋りつくように捕らえて離さない。

 いよいよ地下室のあらゆる物に火が灯った。雪崩れこんだ煙も燻っている。彼の心臓はばくばくと忙しなく脈打っていた。


「くそ、くそっ」


 乱暴に引っ張る手首が赤くなる。手枷から手を抜くのは不可能だ。当たり前だ。そんなことができるなら、彼はこの旅館で奴隷などしていなかった。

 息を荒くしながら、彼は視線を滑らせる。溢れかえる物の中、薪割り用の斧を見つけた。鎖を限界まで伸ばして、斧へと手を伸ばす。左手でしかと掴み、大きく振りかぶって鎖へと振り下ろした。

——こんなにもみっともなくて、みじめで、矮小で、塵屑だ。

 炎に包まれて赫耀と照り輝く部屋の中、まるで剣を鍛造するかのような、硬い悲鳴が小刻みに上がる。

 彼は汗を掻きながら何度も何度も斧を振り下ろした。鎖は耳障りに喚きながらも決して毀れることはなかった。

 それでも彼は無我夢中で斧を振り下ろす。

 煙と熱さでやられた目にじわりと涙が浮かんだ。

 燃やしてしまえというのは、まるで本心ではなかった。


「は、っあ」


 こんなにみすぼらしい自分が嫌で、どん底に貶められてまで生きる意味がわからなくて、けれど、いざそのときになってみれば、生にしがみついている自分がいた。

 死ぬのが怖い。いやだ。喉も手も震える。涙は引火しそうなほどに熱かった。斧を振り下ろす腕は骨から痺れていて、全身は沸騰したように覚束ない。鞭で打たれた背中はこんなときまで激しく痛んだ。火は際限なく燃え盛る。世界はいつだって彼を苦しめる魂胆でいる。世界はいつだって。


「うっ、あっ、あああっ! いやだ、くそ、くそお!」


 悲しくてつらいから嘘をついた。

 生きるのなんてどうでもいいふり、ちっとも傷ついていないふり、世界なんて憎んでいないふり。

 だって、世界を憎むのはあまりに途方もないのだ。毎日毎日負けっぱなしで、絶対に勝てるわけがないのだから。いまだってむごたらしい負け戦。見るに堪えない黒星だ。

 振り下ろそうとした斧が手からすっぽ抜ける。斧は音を立てて彼の足元に落ちた。無理矢理に鎖を千切ろうとしたせいで刃毀れが起きていた。それなのに、鎖はじゃらじゃらと元気に音を立てている。その音さえ奪うほど炎が揺れる。彼の視界を埋めつくすのは絶望の光景だった。

 もう息も絶え絶えだ。薫る煙が彼から全てを奪おうとする。意識を失うのが先か、その身が焼かれるのが先か。

 ぞくぞくと這ったおぞましさを振り払い、彼は再び斧を掴む。火を反射するその刃に、いまにも死にそうな顔をした、無力な少年が映っていた。肩を大きく揺らして、唇を噛みしめている。

 魔法なら。

 この猛火よりも輝くような、魔法使いならば、世にも不思議な奇跡を起こして、こんな状況すらたった一振りでどうにかしてしまえるのだろう。あの魔法使いならば。

 建物の倒壊も始まっていた。階段の入り口を塞がれてしまえば、地下室にいる彼はもうここから出られない。鎖も手枷も炎に熱せられて、彼の手首はとっくに火傷していた。吸う息が渇いてしょうがないのに、吐く息は悲痛に濡れていた。

 眩みそうになる手で、斧を握りなおす。

 再び振り翳そうと見下ろして、気づいてしまう。

 鎖よりも、手枷よりも、もっと断ち切りやすいものが、自分の体から伸びていた。






 仕事を終わらせたケートスとサダルメリクは、村を出て、旅館へと戻ろうとしていた。

 いざ箒に乗って空を飛べば、旅館のほうが真昼のように明るくなっているのがわかった。なにかが焦げつくような匂い、上がる煙。あの旅館がごうごうと燃えているのに、二人は気づいた。

 箒を飛ばせば、炎上する旅館を見上げる人々が見えた。

 誰も彼もが呆然としていたし、旅館の主人は肩を落としていた。

 サダルメリクは目を細めてその光景を眺め、ケートスは助かった者たちから事情を聞いた。


「ひどい火事だね。全焼は免れない」

「旅館の客や従業員は早々に逃げだしていたようですね。消火が進まず、ここまで火が大きくなってしまったようですが、幸いにして死傷者は少ないとのことです」

「ここからさらに燃え広がっても困る。ケートス。防壁魔法は張れる?」

「いつまでも俺を子供扱いしないでいただきたい」


 サダルメリクは火消しの魔法をいくつか頭に思い浮かべて、しかし、ブラーの顔が見当たらないことに気づいた。介抱されている怪我人の中に紛れているかと思ったが、あの深い髪色は混ざっていなかった。

 嫌な予感がよぎる。

 サダルメリクは肩を落としたままの主人に尋ねた。


「あの子は?」


 サダルメリクが彼を気にかけていたことは、旅館で働く誰もがしることだった。だから、あの子と言われただけでも、誰を指すかは容易に察せた。主人は逡巡、力なく炎へと視線を遣った。

 サダルメリクは弾かれたように駆けだす。

 翻る外套マントと帽子に火除けの呪文を唱える。人々の引き止める声も無視して、燃え盛る旅館の中へと入っていった。

 灼熱の炎は飛沫を上げていた。なにもかもが煌々としている。飛んできた火の粉がサダルメリクの外套マントの上を滑って落ちる。

 サダルメリクは外套マントの裾で口元を覆った。あちこちを歩きながら彼の姿を探す。


「ブラー! どこだ!」


 サダルメリクは忙しなく頭を回す。いっそこの旅館を水で覆ってしまうか——いや、ずっとここで働いていた彼が泳げるだろうか。空気中の気体を薄めて消火すれば——それよりも先に彼が窒息死してしまうのではないか。

 火消しの魔法はいくつか思いついたけれど、荒っぽい魔法では彼は助からない。炎の熱さとは別に冷や汗を掻いた。サダルメリクは炎の海を掻き分け、網膜の奥まで火傷しそうなほどあたりを探して、

 黒点を見つけた。

 なにもかもが眩しい猛火の渦、うねりを上げる炎が生命を搾り取る、地獄にも似た世界の中で、あの宵闇のような髪が熱風に吹かれていた。

 サダルメリクは立ちつくす彼に駆け寄って、汗ばんだ小さな体を抱きしめる。外套マントの中に彼を閉じこめて、サダルメリクが一番得意とする魔法を奏でた——華やかなフルートの音色が水を呼ぶ。

 すると、まるで海が押し寄せてきたように、どこからともなく大量の水が降り注ぎ、瞬く間に、一面の火炎を根こそぎ消し去った。

 その水は、サダルメリクの周りを巧妙に避けながら、ケートスの張った防壁いっぱいにまで達した。水焼け木杭は透明の水槽の中でゆらゆらと浮かび、沈んでいく。

 旅館の外でその光景を見ていたケートスは、唖然とする人々と共にを見上げて、「派手にやりましたな」とだけこぼしていた。

 静かな水に覆われた空間で、サダルメリクは息をついた。抱きしめていた彼から身を放そうとして、自分の体が血にまみれているのに気づく。ぐったりとしたままの彼を見ろした。

——彼の右腕が、肘の下から切断されていた。

 無理矢理切り落としたように肉が潰れ、骨が露わになっていた。彼の頬は蒼褪めていたが、その目尻と唇だけは赤かった。歯で噛み千切っただろう唇から、血が流れている。

 炎に飲まれていて気づかなかった、あちこちを真っ赤にした彼に、サダルメリクは息を呑んだ。


「なんて、ことを」


 なんとか立っているものの、彼はいまにも気を失おうとしていた。自分を見下ろす魔法使い声が遠い。あれだけ熱かった体が冷えていく。なにもかもが心許ないなかで、サダルメリクの声を聞いた。


「すまない、もう少し早く来れていたら、こんなことには……!」


 サダルメリクが気に病むことなどこれっぽっちもない。生きるのに必死で、逃げだしたくて、泣き喚きながら腕を切り落としたのは彼自身だ。発狂しそうになるなかで、何度も斧を振り下ろした。躊躇したせいで下手に肉を嬲ってしまったけれど、を失う覚悟をして、あの手枷から抜けだせた。

 そういう方法しか、残されていなかった。

 生まれたときから外れくじを引いていて、出目も悪くて、いつだって世界が彼に用意するものは残酷だった。

 熱に浮かされた、譫言のような声で、彼は言葉を漏らす。


「俺であることが、苦しい」


 世界を憎むより、自分を恨むほうが簡単だった。だって、誰がどう見たって、自分はこんなにも情けがなくて、とっくにみじめなのだから。

 塵屑は積もったところでただの塵。燃えたって灰になるだけだ。死ぬのが怖くて愚かしく藻掻いた。でなければこんなふうにはならなかったはずだ。こんな苦しみも、憎しみも、怒りも。


「俺を、こんなふうにする世界なんて、消えてなくなればいいのに……」


 サダルメリクが打ちひしがれるよりももっと、ずっともっと、彼は打ちひしがれていた。

 粗熱の残る瞳から再び涙が落ちる。

 嗚咽で震えれば、それは滂沱たるものへと変わった。


「……お願いだ、俺を、俺を魔法使いにして。俺はブラーだから、なにもできない。どうしてこんな、こんな世界くそったれだ、燃やしてやりたいんだなにもかも、お願いだ、貴方には逆らわない、言うことはなんでも聞く、っだから、お願いだから。俺を貴方の弟子にして」


 彼はサダルメリクに縋りついて、お願いだから、と繰り返していたけれど、しばらくして、その声はやんだ。

 気を失ったのだ。

 サダルメリクは彼の体を抱きかかえた。彼が歩けば周りの水は割れ、道を用意した。旅館の裏側へと出たとき、夜風で外套マントがふんわりと揺れた。

 そこへ、旅館の表側からケートスが一人、「外にいる怪我人の応急処置は済みました」とサダルメリクのほうへと駆け寄ってくる。サダルメリクが誰かを抱えているのに気がついたケートスは、気絶した彼を一瞥した。


「その子は、」

「ケートス。この子を治せるかい?」


 ケートスの言葉を遮るように、サダルメリクは言った。

 その、どことなく硬い声に、ケートスは数瞬だけ呆けた。しかし、すぐにサダルメリクの腕の中にいる彼を見遣り、叡智を湛えた目を細める。


「治療はできます……腕を生やすことはできませんが、義手をつければ生活できるようにはなるかと」

「だったら、その義手を杖にしてやることはできる?」サダルメリクは続けた。「この子の利き腕は右手だった。義手での生活に慣れるまでは杖を握るのも困難だろうし、左腕で扱って、妙な癖がついても困る」


 今度こそ、ケートスは呆けた。灯りのない夜では、サダルメリクの表情は読み取れない。頭上ではきらきらと星が瞬くだけだ。ケートスは「……メリクさま。この子をどうするおつもりですか?」と尋ねた。


「どうせこのままこの子は死んだことにされるだろう。僕が引き取る。この子を弟子に迎えようと思うんだ」

「そんな、いきなりどうしたのですか」

「この子には魔法使いになれる素質があった。君も気づいていただろう?」

「たしかに彼には適度の魔力量は備わっていましたが」

「まずは魔法使いとしての名前をつけてあげなくちゃね。彼にぴったりの名前がいいと思うけど、どうしようか……」


 ケートスは彼の腕を止血しながら、「この方ってそういうところある」と苦笑いでいた。

 けれど、長い付き合いになるためケートスも慣れていて、二人は夜道を歩きながら、幾千幾億の星々に思いを馳せた。

 ややあって、サダルメリクが「あっ」と閃いた。ケートスは「思いつきましたか?」と尋ねる。


「うん。これ以上ないのがね。新たに生まれた魔法使いとして、きらめくような祝福を。決めたよ。彼の名前は——……」






「ネブラ」


 数回のノックのあと、サダルメリクが扉越しにその名を呼んだ。

 聞こえた師匠となる魔法使いの声に、ネブラはじろりと視線を遣った。

 その声はしっかりとしているから、酔いは醒めたのかもしれない。詩の蜜酒を飲み干されてカッとなってしまったけれど、ネブラにとってサダルメリクは敬愛なる魔法使いだ。

 正気を取り戻しているなら、と彼は「どうぞ」と返事をした。

 入室を許されたサダルメリクは、ネブラの部屋の扉を開ける。そして、ベッドに腰かけるネブラを見つけた。部屋に一歩二歩と入れば、独りでに扉が閉まった。ネブラが杖腕を向けていた。あの日、義手代わりにくっつけたその杖は、まさしくネブラの手足となっている。

 サダルメリクは適当な椅子を引いて座り、ネブラと目を合わせる。


「まだ怒ってる?」

「そりゃ怒るだろ。酒癖が悪すぎんぞ」

「ごめんね。でも、あんな高価な酒、本当に君に買えたの? 明日にでも郵便受けに僕宛ての請求書が届くんじゃないかって、僕は睨んでいるんだけど」


 サダルメリクの言葉に、ネブラは舌を打った。この魔法使いは自分のことなど全部お見通しなのだ。しかし、それを一寸も責めることはなく、サダルメリクはにこやかに尋ねる。


「アップルガースの店で魔法を使ったんだって?」

「そりゃ、見習いっつっても魔法使いなんだから、魔法は使うだろ」

「コメットが言うには、ずいぶん楽しそうに歌っていたそうじゃないか。見たかったなあ、君の魔法。僕にも聞かせて。僕も先生として伴奏するから」

「付属の修理魔法だし、そんなに珍しいもんでもねえぜ?」

「君の歌が聞きたいんだ」


 ネブラは「わっかんねえな」と言い、宵闇のような髪をがしがしと掻いた。音を立てた暖炉の火の、細やかな光を映す。

 四年前のあのころよりもよっぽど毛艶があって、体も丈夫で、生気の宿った瞳をしている。けれど、心はずっと燃えたままだ。焦げつくような炎が、熱が、その憎悪まで煮え滾らせてしまった。サダルメリクはあの日の彼を忘れられないのだ。

 ネブラはため息をついて立ちあがる。部屋を出て行こうとするその姿を、サダルメリクは目で追った。まだ怒っているのか、と思った矢先に、ネブラは「おい、」と振り向いた。


「行かねえの?」

「ん?」

「二階」

「なんで?」

「楽室。先生が伴奏してくれんだろ」

「歌ってくれるの?」

「そう言ってる」

「あはっ。言ってない」


 サダルメリクは気分がよくなって立ちあがった。彼のそばまで行って、癖毛に埋もれたつむじを見下ろす。わしゃりと一撫ですると「ドワッ」と頓痴気な声が聞こえた。うんうん、とさらに掻き混ぜると、さすがにネブラも反発した。不躾な手を払って「これ以上絡ますな」と睨んだ。サダルメリクの顔がだらしなかったので、ネブラは眉間の皺を深くする。


「明日の先生の朝飯はオートミールな」

「えっ、僕あんまり好きじゃないんだけど」

「知ってる」

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