第2話 大先生が酔っぱらった理由

 体が熱くて目を覚ます。ぱちぱちと目を瞬かせると、視界が白むほどの光が飛びこんできた。あまりの眩しさに「ウッ」と目を逸らす。ぼんやりした頭で、窓から差しこむ日差しに起こされたのだと、コメットは気がついた。

 視線を振ると、自分にと宛がわれた部屋の天井が見える。天文図の描かれた天井に、日に照らされた埃がちらちらと待っている。

 コメットがサダルメリク・ハーメルンの家に住みこんでから、三日が経った。

 初日こそ緊張したものの、一夜明ければ驚きまじりの感動でいっぱいになった。僕はこれから魔法を学べるんだ。ただ、その実際は、思い描いていたものと違ったけれど。

 ベッドから飛び起きて着替えを済ませる。部屋を出て、くすんだ若草色の扉を閉じた。

 コメットに与えられた部屋は三階にあり、隣の部屋にはネブラが寝起きしている。すぐそばの階段を上れば物置部屋である屋根裏に着き、下りると書斎や楽室、サダルメリクの部屋のある二階に着く。そのまま二階を通りすぎるようにして階段を下りれば、調理場や居間、風呂などの共同場のある一階まで出る。

 コメットが居間まで下りれば、テーブルについて朝食を摂っているサダルメリクを見つけた。

 サダルメリクはすっかり身支度を整えていて、ぱりっとした印象の装いでいた。象牙色のブラウスに、黒いクロスタイを締めている。背中の開いたベストは優しげなグレーだ。ペリドットのような髪色によく似合う。

 コメットが見惚れるように眺めていると、コーディアルを飲んだ拍子に、サダルメリクが目を合わせた。


「おはよう。コメット」

「おはようございます」

「ネブラが君の分の朝食も作ってくれているよ。君は先に顔を洗ってきなさい」


 コメットは「はい」と返事をして、暖炉のすぐそばの廊下を行き、突きあたりにある風呂場まで出た。奥には猫足の浴槽があるが、手前側には大きな楕円形の鏡と洗面台が備えつけられているのだ。

 コメットは蛇口を捻り、水を出す。

 目の前の鏡には、すっかり短くなった髪が映っていた。

 コメットの箒のような蓬髪は、「汚ねえ、切るぞ」と言ったネブラの手によって、初日の夜に切られていた。しかし、ネブラには杖腕こそあれど、理容の腕があるわけでもなく、ただ単に髪を短くすることに特化しただけの仕上がりとなった。鏡を覗いたコメットが目にしたのは、なんとも間抜けな自分の頭と、「ヒャーッ!」と珍奇な声で笑い転げるネブラの姿だった。

 うなじはすうすうとするのに、あちこち中途半端に長かったり短かったりする。ざっくばらんに切き揃えられた——否、揃ってはいない——髪を見て、哀れに思ったのか、二日目の夜、サダルメリクが「誤魔化し程度だけど」と髪飾りを用意してくれた。

 それは、落ち着いた金色をした、立体的な星の髪飾りで、しだり尾のように細身のチェーンが落ちている。まるで流れ星のようなそのデザインをコメットはいたく気に入った。

 顔を洗い終わったのち、左側の邪魔な髪を撫でつけ、髪飾りで留める。光を受けてきらめくのが美しかった。首を振ると耳をくすぐる感触も、悪くないと思えた。

 元々着ていた服はだめになっていたということで、サダルメリクは服と靴までコメットに用意してくれた。

 白い丸襟のブラウスに、革製の短めなズボン。揺れるフィッシュテールの外套ケープは、半透明な刺繍糸の繊細な真紅だ。折り返しのある靴下と、底がぺたんこのローファーを履けば、コメットの身支度は完成した。

 コメットが居間へと戻れば、深淵のような青紫の長い癖毛が目に入る。ネブラだった。

 彼は調理場から出てきたところで、杖腕を指揮棒のように振るい、魔法でテーブルに皿を並べていた。窓から差しこむ光を受けて、毛先がちりちりと輝いている。髪に宇宙を飼っているみたいだと、コメットは思った。

 コメットはネブラに近づき、「おはよう」と声をかける。


「遅い、馬鹿弟子!」

「君が早すぎるんだよ。いったい何時に起きてるの?」そう言いながら、コメットは残りの仕事を探した。「持ってくるお料理はまだある? 手伝おうか?」

「もう終わる。いいからとっとと座れ」

「でも、お皿持てる?」

「俺に逆らうな」

「あんまり気を遣わなくてもいいよ、コメット」テーブルに肘をついたサダルメリクが言う。「ネブラは慣れてるし、皿を運ぶくらいは平気だよ。さあさ、座って。ネブラの作ったスクランブルエッグは、豆もトマトもチーズも入ってて美味しいんだ」


 サダルメリクにそう言われたので、コメットは椅子を引き、席についた。

 目の前の具だくさんのスクランブルエッグと、四切のバケットが、それぞれ皿に乗って並んでいた。香ばしいチーズの生温かな香りが鼻腔を突く。カチカチと音が鳴ったのでそちらを見遣れば、サダルメリクが小さなナイフを使って、バケットに塗る苺のペーストを、丸い瓶からこそげ取っているところだった。

 コメットが鼠色に輝く食器を持ったとき、少し遅れてネブラがやってきた。コーディアルの入ったピッチャーとグラスを二つ、器用にも左手だけで持っていて、自分とコメットの手元へと順番に置いた。

 席についたネブラに、コメットはあることを思い、話しかける。


「ねえ、ネブラ」

「先生かサーをつけろ」

「ネブラさあ」

違いだそれは」


 コメットが弟子になってから、ネブラが真っ先に教えたことは、意外にも目上の者に対する言葉遣いである。

 元より「先生と呼べ」と礼儀には口うるさいネブラだったが、それよりもサダルメリクへの対応を強く指摘した。自分が師事している相手ということもあるだろう、サダルメリクに対しては敬語を使うようにと、ネブラはコメットに言いつけたのだ。

 それに関してはコメットも納得している。ネブラが先生なら、サダルメリクは大先生だ。言われるがままに敬語を使い、彼のことは「大先生」と呼ぶことにした。

 しかし、納得できない。


「サー・ネブラ先生は、いつになったら僕に魔法を教えてくれるの?」


 魔法使いの弟子の弟子というのだから、雑用も雑用じゃん、とコメットは思ったものだが、それでも魔法を身につけられるならばと受け入れた。

 しかし、初日にある程度の知識をつけられて以降、コメットはネブラの雑用を手伝わされている。まさしく、雑用の雑用である。

 隙間時間を見つけては「魔法を教えて」と訴えているが、ネブラにはいなされるだけだ。たまにぽろっとこぼしてはくれるけれど、きちんとした授業がおこなわれたことはない。

 しょうがないので、就寝間際に部屋に押しかけようとしたのだが、ネブラの部屋の扉を開けることは叶わなかった。鍵穴もないというのに、ドアノブがびくともしないのだ。

 後から聞いた話では施錠魔法がかけられていたらしく、魔法をかけた本人が解錠しないと開かないのだそうだ。


「僕、ほったらかしにされてる~!」


 扉の向こうの主に言うでもない痛烈な独り言をコメットは張り叫んだ。立て続けにネブラの扉を叩きながら「ね~え~!」と呼びかけたが、扉の向こうからは「家鳴りがうるせえ~」という声が返ってきただけだった。

 面と向かって抗議しても逃げて部屋に隠れられるだけ。なので、朝食の時間、前には大先生サダルメリク、という逃げも隠れもできぬ場面で追及してやろうと考えたのだ。

 それが先の「いつになったら僕に魔法を教えてくれるの?」である。


「お皿洗いも部屋の掃除も洗濯物も全部がんばってるよ。僕に魔法を教える時間も作れないほどネブラは忙しいの?」


 コメットが返事を求めたのはネブラに対してだったけれど、先に反応したのはサダルメリクだった。


「あれ、おかしいね。コメットに魔法を教えられるよう、君の仕事は減らしておいたはずだけど……ネブラ、どういうことかな?」


 余計なことを、という目でネブラがコメットを眇める。しかし、コメットも反発し、どういうことだと目を尖らせる。

 要するにサダルメリクからそのように配慮されていながら、ネブラはコメットをほったらかしにしようとしていたのだ。


「……言われた仕事はきちんとやるよ。でも、俺にだってやりたいことはあるんだ」

「まあね、空いた時間は君の好きに使ったらいいと思うけど。それは、君の大事な弟子をほったらかしにするほど、大切な用事なの?」

「先生はコメットの肩を持つのかよ」

「弟子の弟子なら、僕の孫みたいなものでしょ? かわいく思うのは当然だよね。でも、それ以上に、君が自分で取った弟子をかわいがらないことを、僕は叱らなくちゃいけない。僕は君の先生だから」


 舐るように見つめられ、ネブラは折れた。


「……今日は本当に無理」唸るように言う。「北方の国から、詩の蜜酒が渡ってきたらしい。昨日、買い物に出たときに、アップルガースの旦那が話してるのを聞いたんだよ。それを買いに行くつもりだから」


 詩の蜜酒——聞いたことのない言葉に、コメットは首を傾げたが、サダルメリクは「おやおや、それは珍しい」と少しだけ目を丸めた。気になったコメットは「なにそれ」とネブラに尋ねる。


「飲めば誰でも詩人や学者になれるっていう酒のことだよ。詩を歌い、師となる、楽と学の酒」ネブラは諳んじるように言った。「魔法使いが飲めばたちまち強い力を得られるんだと。有名だぞ。聞いたこともないのかよ」

「知らない。僕が本で読んだのには、マンドレイクとか賢者の石ラピス・フィロソフォルムとか、そういうのが載ってるだけだったもん」

「馬っ鹿。マンドレイクなんて、もうとっくに絶滅してるよ」

「そうなの!?」

「《大洪水》で沈んだ草だ。根腐れを起こして全滅したんだと。名前だけが口伝てに残って、後世で書物に記されたんだ」


 驚愕したコメットは言葉を失う。

 古い本に書いてあることだから、全部が全部正しく記されているとは思わなかったけれど、まさか絶滅したものだったとは思わなかった。何度も見たあの伝説的な植物が、本当に伝説だったなんて。


「《大洪水》については、田舎者のお前だってさすがに知ってんだろ。途方もない嵐による豪雨が地上を襲い、当時の文明のほとんどを水泡に帰したという、未曾有の大災害。選ばれた人類のみ舟で逃れたって神話と一緒に語り継がれてる。その神話についてはどうせ偽史だが、《大洪水》は誰もが知る史実だ」

「それならもちろん知ってるよ」コメットは答えた。「その《大洪水》のせいで、世界中の大陸まで形を変えたんでしょ? いまでも海底には当時の遺跡も少なからず残ってるみたいだし……でも、まさか、マンドレイクが、」そこでコメットはハッとなった。「じゃあ、じゃあ、賢者の石ラピス・フィロソフォルムは? 卑金属を黄金に変えたり、不老不死を叶えたりできるんだよね?」

「元からねえよ、そんなもん」声にならない悲鳴を上げるコメットを無視して、ネブラは言葉を続けた。「そもそも賢者の石ラピス・フィロソフォルムは、魔法っていうか錬金術のアイテムだけどな。似たような赤い宝石は実在するから、それと混ざって伝承されたんだろうって、先生が言ってたぜ」


 これまでの知識と幻想が覆された衝撃で、コメットは呆然とした。その様子を眺めていたサダルメリクは「君にはまず魔法使いとしての知識が必要だね」と苦笑した。


「コメット。君は、魔法の使いかたについて、どの程度知ってるかな?」

「えっと……魔法は音に乗って届く、とか」

「そのとおり。僕たち魔法使いは、その声一つ、歌一つで、魔法を扱える。ただし、よほど熟達していなければ完璧な制御はできない。安定と指揮のために、簡単な魔法以外はを用いる」

「魔法の杖!」

「そう。ネブラみたいなね」

「大先生の杖は? いつも腰に差してあるのですか?」

「うん」


 そう言って、サダルメリクは、腰に佩いていた革製のホルダーから抜き取る。

 杖だと言ってサダルメリクが見せたのはフルートだった。

 それは白金プラチナのようなきらめきを帯びていて、コメットの目には眩しく映った。


「楽器だ」コメットはサダルメリクを見上げる。「楽器が?」

「魔法を安定させるのがの役目だから、形はなんでもいいんだ。手に馴染みやすいからそのまま杖を使う魔法使いは多いけど、結局は自分で決めることさ。大事なのは魔法を正しく使うことだからね」サダルメリクがフルートを構える。「たとえば、そうだね、食器を棚に戻してみようか」


 サダルメリクがフルートに口づけると、軽やかで凛々しい音色が響く。

 使い終わった皿が独りでに浮いて、調理場のほうへと消えていく。カチャカチャと音が鳴っていたので、サダルメリクの言うとおり、食器棚に戻ったのだろうと、コメットは悟った。

 それがあまりに見すごせなかったので、コメットは「大先生、食べ終わったあとのお皿は、洗わなくちゃだめですよ」と告げた。サダルメリクは「あ、そうだった」とすっとぼけて笑った。


を使わずに、たとえば歌だけでも、魔法は使えるんですよね」

「ああ、そうだね。簡単な魔法や使い慣れた魔法なら、歌どころかごく短い言葉、つまり呪文だけで、発動させることができる。たとえば」サダルメリクはテーブルの上のピッチャーへと目を遣った。「"喉が渇いた"」


 すると、ピッチャーが独りでに動き、中のコーディアルがサダルメリクのグラスへと注がれた。サダルメリクが「“コメットもいかが?”」と尋ねれば、ピッチャーの挿し口がくるりとコメットへと向く。

 コメットは首を振った。ピッチャーはゆっくりとテーブルへ着地した。


「こんなふうにね」サダルメリクは続ける。「簡易魔法の発動方法には個人差があるから、人によって文言は違う。僕は家の鍵を開けるときは“ただいま”と唱えるけど、ネブラは“鍵よ”と唱える。最終的な事象は同じだけどね」

「扉が開く!」

「よくおわかりで。でも、こうしてお手軽に唱えられるのは、口にも生活にも馴染んだ魔法だからだ。大がかりな魔法とまではいかなくとも、大抵の魔法には杖が必要になってくるよ。杖を持つことは、魔法使いにとっての第一歩とも言える」

「ぼ、僕にも杖が欲しいです」

「うん。それがいいと思うよ。だから、まずは君の杖を見繕ってはどうかって、ネブラにも言いつけておいたんだけど……それもせずに詩の蜜酒なんて、いったいどういう了見かな?」


 そこでコメットは話が戻ってきたのに気がついた。新しい知識に夢中で、すっかりその話を忘れていた。

 しかし、さっきの話を聞いたあとならば、詩の蜜酒とやらの凄まじさもいっそう理解できた。

 詩を歌い、師となる、楽と学の酒。音に魔力を乗せ、歌で魔法を紡ぐ魔法使いにとって、それは、一飲みで魔法の上達するような、垂涎の代物なのだ。

 サダルメリクを見据えながら、ネブラは言った。


「俺だってもっと強い魔法を使えるようになりたい」

「君にはまだ早いよ」

「そう言って、魔法を教えてくれないのは先生だろ」ネブラは語気を強めた。「最近は全然仕事の手伝いもさせてくれない。先生の仕事が大変で忙しいのは知ってるよ。でも、俺は先生の弟子だろ」

「僕の仕事は見習いの君に務まるものではないよ。任せられるものも限られてる」

「だったら俺はどうしたらいい? 俺は、強い魔法使いになりたいんだ! だから、詩の蜜酒さえあれば、」

「そんなものに頼る必要はない」サダルメリクは断じる。「僕は君の課題を理解しているからね。結びフィーネが不得手なのを克服しなければ」


 コメットが「結びフィーネ?」とサダルメリクを見上げると、「魔法の終わりだよ」と返ってきた。ネブラは左拳をぎゅっと握りしめる。


「何事も、始まりがあれば終わりがある。終わりがあれば始まりがあるように。ネブラは魔法を終わらせるのが苦手でね……ほら、それが原因で、この家が水浸しになっただろう?」


 コメットはあの日のことを思い出す——水瓶の水が溢れて、あわや死にかけたときのことだ。あのときのネブラも「魔法を始められても、終わらせられない」と言っていたので、サダルメリクの言葉はそういう意味なのだろう、と思った。


「でも、ネブラ、家事をするときは普通に魔法を使えてますよね?」

「先生をつけろっつってんだろ」

「先生って言われるだけのことをしてよ」

「コメットの言うとおり、最初から定型のある一般的パブリックな魔法は申し分ないけど、一から自分で編成しなくちゃいけない創作的イマジナティブな魔法が苦手ってこと。そんなんじゃいつまで経っても見習いのままだよ」サダルメリクはネブラを見つめて言う。「詩の蜜酒になんて頼らずに、君は君の勉強をしなさい。楽室は自由に使っていいって言っただろう。行き詰まったなら僕が教えるし、気分転換をしたいなら、コメットに魔法を教えてやるといい。詩の蜜酒は努力をしつくしたその後に頼るものだよ。わかったね? ネブラ」


 そう言って、サダルメリクは席を立った。

 玄関のほうへと足を進め、植物の形をしたポールスタンドから、純白の外套マントを選び取った。ばさりと翻しながらそれを羽織れば、サダルメリクの細身な線が洒脱に隠れる。同じ色の三角帽子も頭に被せて、鍔を飾った螺鈿のチャームを揺らす。


「今日も日が沈むまでには帰ってくるよ。じゃ、行ってきます」


 がちゃん、と音を立てて、サダルメリクは家を出た。

 ややあって、舌を打つ音が聞こえる。

 コメットがネブラを見遣ったのと、ネブラがサダルメリクの座っていた椅子の足を蹴ったのは、同時のことだった。蹴られた椅子が音を立てて床を叩く。


「お行儀が悪いよ、ネブラ」

「先生か元気出してをつけろ」

「ネブラ先生」

「お前いまそっちを言う?」

「大先生に詩の蜜酒にかまうなって言われたの、そんなにイライラしてるの?」

「先生はいつまでも俺のことを無力なガキだと勘違いしてやがる。たしかに結びフィーネは苦手だけど、先生も忙しいみたいだから、詩の蜜酒に頼ろうとしてるってのに……」


 朝食を食べ終えた二人は、使った皿を調理場へと持って行った。

 ネブラはついで、サダルメリクが棚に仕舞った皿を取りだして、水に浸ける。そのまま洗ってしまおうとしていたので、コメットは「僕が洗おうか」と言ったが、「邪魔。洗ったやつ渡すから拭いとけ」とあしらわれた。

 コメットとて自身の身の回りの世話には慣れているつもりだ。孤児院では、掃除も洗濯も自分でおこなっていた。

 しかし、ネブラの働きぶりは、他人に尽くすことに長けた者のそれだった。その手際と効率のよさは、普段の振る舞いからは思いもよらないほどで、コメットが一つ一つ作業をしている間に、ネブラはそれらを同時進行でおこなっている。

 きっとサダルメリクのもとにいるのが長いのだろう。ネブラを気遣うのがどれだけ的外れなことかを、コメットはこの三日間で完璧に悟った。

 コメットは空拭き用のタオルを持ったまま、ネブラをじっと見つめた。

 ネブラは暗い色の外套ガウンを肩を晒すように浅く羽織っている。そのため、袖はずるずると手を覆っていて、右腕は杖先しか見えない。ただ、左腕の袖はいくつか折っているために自由が利いた。

 ネブラはこの左腕と魔法で、料理に掃除に洗濯に、ありとあらゆることを当然のようにこなすのだ。出会ったときだって、いとも容易く洗濯物を操り、竿に干そうとしていた。


「いまだってネブラは魔法使いじゃない。そんなに詩の蜜酒が欲しいの?」

「ちょっと便利くらいの魔法なんざ初歩も初歩だよ。俺はもっと強い魔法使いになりたいんだ」


 だから、ネブラにとって、こんなものではもちろん足りない。

 弟子として、家事を筆頭にしたサダルメリクの世話は怠らないけれど、師匠として、もっと強い魔法使いになれるように考えてほしいのだ。

 コメットだって魔法使いになりたいという気持ちがある。しかし、コメットの先生はサダルメリクではなく、ネブラなのだ。先生であるネブラが立派な魔法使いでなければ、当然、コメットだって魔法使いにはなれないはずだ。

 そういう打算もあり、コメットはネブラに言った。


「じゃあさ、家の掃除が終わったら、詩の蜜酒を買いに行こうよ」


 ネブラは手を止めて、コメットへと振り返った。言葉にはしなかったが、「お前、話のわかるやつじゃん」と顔に書いてあった。






 コメットがサダルメリクの家を出て、街に赴くのは、はじめてのことだった。

 煉瓦の道を辿って市街地まで行き、そのとおりを少し歩けばごった返しが見える。腐っても帝都であるブルースは、平日休日変わらずに人が賑わうのだ。

 着いたのは、金の柱がきらきらとしたアーケードの、近年改修工事もされた商店街だ。

 中央は吹き抜けになっていて、柔らかな芝生と小花が敷かれ、音楽隊が日夜演奏をしている。そこから十字に伸びた四つの通りに構えているのは全て商店で、北通りは家具や雑貨、西通りは服飾や化粧道具、東通りは機械や音楽器の工房、南通りはパブや食べ物の店が軒を連ねている。

 田舎から出てきたコメットにとって、この光景はあまりに鮮やかだった。見るものすべてに「うわあ」「すごい」「これは夢?」などとこぼす。それがあんまりやかましいので、ネブラはその足を蹴り、「痛いか?」「痛い。現実だ!」と諭してやった。

 目的地であるアップルガースの店は、南通りにある。国外の食品などを卸売りする店で、白地に赤い縁と文字の目立つ看板が特徴だ。

 ネブラが先導するようにして店の扉を開けると、甲高いベルの音が華やかに鳴った。

 店の奥から「いらっしゃい」と若い声が聞こえる。コメットもネブラの後に続き、店の中へ足を踏み入れると、背の高い少年と幼い少女が、こちらを見ていた。

 背の高い少年は、ギロ・アップルガースという、この店の息子だ。チェックのズボンをサスペンダーで吊っていて、わずかに朱みのある乾いたくるぶしが裾から覗いている。体が成長しているのに服が追いついていない感じだ。歳はネブラと同じように見えるのに、とコメットは思った。

 カウンターの近くの椅子に座っているのは、ギロの妹であるベルリラ・アップルガースだ。すとんと落ちる絹糸のような髪は、まるで一日中ずっと櫛を通していたかのよう。繊細な綿菓子みたいに柔らかな瞳は、涙を流すだけで溶けそうだ。ベルリラは丸々とした妖精猫ケット・シーを抱きしめていた。

 ギロはネブラを見るなり、紫丁香花ライラックの色合いの淡々とした目つきで、「ハーメルンさんのとこの……」とこぼした。それに「今日は私用の買い物だ。先生は関係ねえ」と返して、ネブラはギロへ近づく。


「お前と妹だけか? 旦那は」

「親父はいま出かけてる。俺たちは店番だ。なにか欲しいものでも?」

「昨日、この店に詩の蜜酒が入ったと聞いた」

「詩の蜜酒? ああ……あるよ」でも、とギロは続ける。「あれはもう決まった客がいるって、親父が言ってた。悪いけど、あんたには売れないよ」


 ネブラは「は?」と顔を顰め、コメットは「えーそんなあ……」とこぼした。ギロはコメットを一瞥し、ネブラに「この子は?」と尋ねた。


「俺にくっついてる埃だとでも思え」

「僕はコメット。ネブラの弟子なんだ」

「あんた、埃を弟子にしてるのか」

「黙れ。それとコメット、お前は先生か先生をつけろ」

「今回は妥協案なし?」


 目を瞬かせているギロを、コメットは「詩の蜜酒は売ってもらえないの?」と言って見上げた。ギロは「ああ、すまないな、」と言葉を返す。


「元々、そんなに多くは仕入れられなくて、一樽も入ってないんだよ。それを丸々買うって言ってきた魔法使いがいたらしい。親父が昨日のうちに口約束で取りつけちまったんだ」

「口約束で、しかも未売なんだろ。俺らは今買うっつってんだ」

「俺の一存ではなんとも」

「酒瓶一本分くらいはバレないだろ」

「さすがに言いつけられてるからなあ」


 ネブラはギロと交渉する。しかし、あくまでも店番を頼まれただけのギロでは、話は先に進まなかった。ネブラは徐々にイライラしてきて、爪先で小刻みに床を叩いている。

 一方のコメットは、椅子に座っていたベルリラに話しかけられていた。ベルリラはおずおずと言った様子で「はじめまして」とコメットに声をかけた。

 それがかわいらしくてコメットも「はじめまして」と返す。ベルリラの抱きしめている妖精猫ケット・シーに「君もはじめまして」と言えば、ベルリラは嬉しそうにして「この子はいま寝てるから、代わりにお返事するね。はじめまして、小さな魔法使いさん」と告げた。コメットはその数秒でベルリラを好きになった。

 そのあいだにも、ネブラとギロの話は進んでいく。


「ていうか、今日はハーメルン先生絡みじゃないってことは、詩の蜜酒はあんたが飲むのか? あんた俺の一つ上じゃなかったっけ? まだ未成年だろ」

「あと二年で二十なんだ。四捨五入すりゃ成年だろ」


 ギロは明らかに「なに言ってんだこいつ」という顔をしていたが、口には出さなかった。

 ベルリラが、コメットにこっそりと、自分は十二だと教えてくれる。

 十八歳のネブラに、十七歳のギロ、十五歳のコメットに、十二歳のベルリラ。この中で一番の年長が一番に幼稚なんだな、とコメットは思う。

 

「コメット。俺とお前の年齢を足したら三十三だぞ」

「足したらね」

「箒には乗れて酒は飲めないって道理はないだろ」

「あるから飲めないんでしょ」

「そもそも五年前まで成人年齢は十八だった。五年前の俺が詩の蜜酒を買いに来たと思えばいい」


 支離滅裂だ。そんな屁理屈だか暴論だかを述べるネブラを、ギロは「五年前のあんたは十三歳だろ」と冷静に論破する。目も当てられない。


「じゃあさ、こういうのはどう?」コメットは提案した。「詩の蜜酒をちょっとだけ買わせて。買ったものは成人してから開ける。珍しいものだし、次にいつ入ってくるかわからないんでしょ? 絶対にいまは飲まないって約束するから、どうしてもそれが欲しいんだ。だめかな?」


 ネブラはそんな約束をするなという目でコメットを睨んだが、ギロは、ネブラよりは話が通じそうだ、とコメットの提案を受けることにした。


「交換条件だ」ギロはカウンターの椅子を指差した。「この椅子、ちょうど壊れててさ、俺も親父もなんとか直そうとしたんだけど、ちっとも直らないんだ。魔法でなんとかしてくれないか? そしたら、あんたらに詩の蜜酒を売ってやってもいい」


 コメットはぱあっと顔を輝かせる。振り向いて「聞いた? ネブラ先生」と声をかければ、「よくやった馬鹿弟子! 椅子の修理なら任せろ!」とネブラが答える。


「でも、ネブラ先生。椅子を修理する魔法は使えるの? 前の水汲みのときみたいなことにならない?」

「鼻唄でいけるぜ。椅子の修理くらいならいつもやってるからな。先生が酔って帰ってきたとき、乱暴に椅子に座っちゃうせいでよく足とかが折れるんだよ」

「大先生ってそんなだらしないひとなの? 僕、そんな大先生見たことないけど」


 まだ会って三日目だけれど、コメットにとって、サダルメリクはシックでスマートな大人だった。ちょっと抜けているところはあるけれど、それが愛嬌に見えるような素敵な魔法使いだ。酔っぱらって物を壊すようなお人には見えない。

 コメットがそう言うと、ネブラは「そのうちわかる」とだけ返した。

 ギロがカウンターの外まで持ってきたのは、商店街の東通りで買ったという、機械仕掛けの椅子だった。足には車輪がついていて、体重移動による座椅子の傾きで、からころと自由に動き回れるのだ。壊れたからといって簡単には触れないような、テクニカルな品だ。

 さきほどまで強気だったネブラも、これには顔を顰めて、「鼻唄じゃ無理だな……」とこぼした。

 ネブラと同じように椅子と睨めっこしていたコメットが、ギロを見上げる。


「なんていうか、普通に修理に出したら?」

「保証期間外だから金を取られる。母さんの親戚が病気で倒れて、その仕送りのために節約しなきゃいけないんだ」

「わあ、なんて優しいの」

「え? ああ……どうも」

「暢気に会話してんな」ネブラが話の腰を折る。「こいつは東通りの店の製品だと言ったな。だったら、修理用の楽譜もついてるはずだ。それを持ってこい」


 ギロは「わかった」と言って奥に引っこんでいった。カウンター側には小さな通路があって、そこに階段があるのだ。二階上る足音が鳴る。

 コメットはネブラに「楽譜って?」と尋ねる。


「馬鹿弟子よ、ここで授業だ。魔法使いは音で魔法を使う、ってのはもう身に沁みてるな」

「はい、ネブラ先生」

「今朝、先生が……お前の大先生が言ってくれたように、簡単な魔法なら短い呪文でぱぱっと終わらせられるし、複雑になればなるほど奏でる音も複雑になる。こういう機械仕掛けの椅子をどうにかするならなおさらだ。ちょっとした魔法使い程度なら手も足も声も出せねえ。だから、大抵の店はそういうときのために、修理用の魔法を用意してあるのさ」

「この椅子を直すのに専用の魔法があって、それが楽譜になってるってこと?」

「ああ。魔法が音を帯びる以上、保管あるいは共有の方法が楽譜の形を取るのは、理に適っちゃいるわな。大抵の魔法は先達がとっくの昔に実現させてて、その再現のために楽譜に記してくれてる。帝都の中央にある国立グリモワ図書館には、これまでに編成された大量の魔法がパブリックドメインとして貯蔵されてんだぜ」

「へええ」

「東通りの工房の中には、魔法使いのために楽譜を専門で売る店もあるくらいだ。ちなみに、俺の部屋を閉ざす魔法も、その店で買ったもんだ。一度口遊めば十二時間は効果が持続する。なかなかいい買い物だった」

「あっ、あれ! 昨日の夜、僕がどれだけ開けてって言っても、全っ然開けてくれなかったよね?」

「知らん。家鳴りがうるさかったことしか覚えてねえ」

「ひどいよ、僕が君の部屋の前でどんどん冷たくなっていったっていうのに!」

「それ死んでるだろ」

「ひどい!」

「うわ、死体がしゃべった」

「本っ当ひどい!」


 コメットとネブラが言い合いになっていると、階段から下りてきたギロが「あったぞ」と言って楽譜を見せた。

 ネブラは楽譜を確認する。コメットには楽譜の読みかたはわからなかったので、どれだけ眺めても目が滑っていくだけだった。


「どう? ネブラ先生」

「単純拍子だな。三拍を意識すりゃお前でも歌えるぜ」

「えっ、本当?」

「実践演習だ、馬鹿弟子。俺が手本を見せやるから、お前も入れそうなら入れ」


 言うが早いか、ネブラはすうっと息を吸った。空気中の光も音も、なにもかもが、ネブラの喉へと吸いこまれ、力を宿す。

 その数瞬に、コメットもギロもベルリラも見惚れていた。たちまち、ネブラが魔法を歌う。

 ふわりと乾いた風の吹く晴々しい昼下がりのような声。普段はぶっきらぼうで粗野な口ぶりをしているけれど、コメットはネブラの歌声が好きだった。爽やかで優しくて、ちょっとだけくすぐったい。

 ネブラは途中の半音も難なく乗り越えて、伸びやかなビブラートを聞かせる。手拍子を打っていたコメットだったけれど、居ても立ってもいられなくなって、ついには旋律だけを大雑把になぞった。

 聞いてしまえば簡単に覚えられる旋律だった。ネブラが楽譜を持っていたので歌詞はわからなかったけれど、それでもコメットは楽しく歌った。

 そのうち、ああ、これはワルツなんだな、と気づいてしまったら、体まで動いていた。思うがままにステップを踏んでいたら、ぽかんとしたギロと目が合う。


「ギロもおいでよ!」

「歌って踊れってか? これだから魔法使いは……って、ベルリラ!?」


 コメットが手を伸ばせば、羨ましそうに見ていたベルリラが一歩踏みだしていた。妖精猫ケット・シーを床に寝そべらせてから、拙い足取りでダンスをする。

 コメットはベルリラの手を取って、腕の下でくるりと回してやった。ベルリラはバランスを崩したけれど、コメットが支えてやれば、嬉しそうにはにかんだ。

 歌いながら、ネブラは妙な気持ちに駆られた。機械仕掛けの椅子を修理するためだけの、なんの変哲もない歌だ。魔法だ。それなのに、柄にもなく高揚している自分がいるのだ。

 少し視線を移せば、真紅の外套ケープを靡かせて、滅茶苦茶に歌って踊っているコメットが見えた。それにつられてベルリラが、少し遅れてギロまでが、楽しそうに体を揺らしている。

 ネブラがこんなふうに魔法を使うことはなかった。洗濯物を干すときも、部屋に鍵をかけるときも、それなのに、どうして。

 歌が終わる。気づけば、コメットはへとへとになって息を切らしていた。ネブラは「なんでお前が疲れてんだ」とこぼした。コメットは「楽しくなっちゃって」と笑った。ネブラの口角もいまだに緩んでいた。

 椅子に視線を移す。ギロは確かめると「直ってる」と漏らした。コメットはへたれた眉をぱっと跳ねあげて喜んだ。


「……約束どおり、あんたらに詩の蜜酒を売ってやるよ。あんまり多いと親父にバレるから、ボトルに半分が限度だ」コメットとネブラが頷いたのを見計らって、ギロは尋ねる。「でも、詩の蜜酒はかなり高価な品だぞ。金はあるのか?」


 それはたしかに、とコメットは黙った。なんせコメットは正真正銘の無一文なのだ。この身一つでブルースまで来たくらいである。お金についてはネブラを頼るしかない。

 とはいえ、ネブラにそれほど手持ちがあるとは思えなかった。詩の蜜酒とやらがどれだけ値を張るかはコメットには検討もつかなかったが、物珍しく価値があるの足れば、その値段はきっと驚くほどなのだろうと推測できる。

 しかし、そんな不安げなコメットの顔を鼻で笑って、ネブラは言いきった。


「俺らはお前の言う大先生の弟子だぞ? 魔法の言葉がある。先生からのありがたい特別授業だ。お前も覚えとけ、コメット。困ったときは一番役に立つ呪文だぜ」


 どんなすごい呪文なのだろうと、コメットは胸をときめかせた。対照に、ギロは慣れているのか、白けたような顔をした。


「サダルメリク・ハーメルンにつけといて」






 ともあれ詩の蜜酒は手に入った。花の一輪差しにちょうどいいような細身のボトルをギロは用意し、そのボトルのきっかり半分まで、詩の蜜酒を注いでくれた。

 透明なボトルには蜂蜜のような色のきらきらとした液体が入っていて、家に戻る道すがら、日の光を受けて揺れるのをコメットはうっとりしながら眺めた。

 家について早々、サダルメリクが帰ってきていないことを確認したにもかかわらず、コメットは妙にそわそわと、ネブラにしか聞こえないように声を寄せた。


「それで、ネブラ先生、詩の蜜酒をどこに隠しておく? 飲むのは二年後だから大事に保管しなくちゃいけないけど、大先生にバレたらだめだもんね。調理場に隠しておくのはよくないから、やっぱりこれは先生の部屋にでも、」

「さすがは馬鹿だな、馬鹿弟子!」ネブラは会心の笑みを浮かべた。「ギロとの約束を馬鹿正直に守るわけねえだろ! 詩の蜜酒はいますぐ開封する! 法律なんざ知るか、お前がバラさなきゃ真相は永遠に俺の胃袋の中だ!」


 さすがのコメットもこれには絶句した。

 薄々気づいてはいたけれど、自分はとんだ人格破綻者のもとへ弟子入りしてしまったのではないかと思った。

 コメットが呆然とするあいだも、ネブラは「ヒァッハハハー!」と発狂したような高笑いを上げていた。コメットは何度目かの見ていられないという感想を抱く。悪夢のような奇っ怪な笑い声をどうにかしたくて、そろそろと彼の口元へ手を遣ろうとした。

 そのとき、扉越し一枚で「“ただいま”」という声が聞こえる。

 瞬く間に扉が開いて、妙に血色のいいサダルメリクが帰ってきた。

 純白の外套マントをポールスタンドに引っかけたサダルメリクは、ネブラとコメットの顔を見て、再び「ただいま」と言った。サダルメリクの解錠魔法の性質上、その言葉は二回言うことになるので。

 サダルメリクの足はどこか覚束なかった。体幹も不安定で、まるで海を漂う藻のようにふわふわとしている。

 コメットが驚いていると、ネブラがため息をついた。


「先生……また酔っぱらってんのか」

「あはははは、仕事終わりにね、ライラと飲んできたんだ。また恋人に振られたんだって荒れてたよ。可哀想に、面白いよね」


 可哀想なのに面白いってどういうことだろう、とコメットは思っていたけれど、サダルメリクの足元があんまり不安だったので駆け寄った。ちょうどバランスを崩したところだったので、サダルメリクを抱きとめる形になる。コメットの小さな体は潰れることなく、ちょうどいい衝立ついたてのようにサダルメリクを守った。

 そこでコメットは、おや、と目を丸める。思ったよりも酒の匂いはしないのだ。もしかしたらサダルメリクは酒に弱いのかもと、コメットは思った。そのとき、肩口で、「あっ」と無邪気な声。


「それ、詩の蜜酒?」


 バレた、と思った。ネブラもコメットも、突然帰ってきたサダルメリクにびっくりして、隠すのを忘れていたのだ。

 サダルメリクは酔っていることもあって、判断が鈍っているのか、叱るような雰囲気はまったく見せなかったが、コメットは居心地が悪くなった。ちらりとネブラを振り返ると、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

 サダルメリクはおもむろにコメットから離れ、あまりにも自然で、自然すぎて見すごしてしまうような動作で、詩の蜜酒のボトルを掴んだ。ネブラが「えっ」と声を漏らしているあいだに、栓を開け、ボトルを仰ぐ。

 ごきゅ、ごきゅ、ごきゅ。

 コメットとネブラが石のように固まっている隙に、サダルメリクは喉を鳴らす。蜂蜜色に輝く蜜酒は、小さく波打ちながら、徐々にその水位を低くしていった。一滴も残らなくなるのは存外に早く、サダルメリクは「ぷはっ」とボトルから唇を離して、まろやかに笑んだ。


「未成年がお酒なんて飲んじゃだめでしょ」


 飲み干した。

 ネブラは嗄れ嗄れとした喉で息を吸いこみ、獣の鳴き声のような悲鳴を上げる。

 コメットも正気を取り戻して「嘘嘘嘘」とサダルメリクの持つボトルを奪い取った。どれだけ傾けても光に翳しても、中の蜜酒は空になっていた。ない。詩の蜜酒が。あんなに高い買い物だったのに。そもそも大先生へのだけど。

 サダルメリクは二人の反応が面白かったのかへらへらと笑って椅子に座った。そのときものすごく大きな音が鳴ったので、ネブラの言っていた「そのうちわかる」ってこういうことね、とコメットは悟った。

 ネブラの悲鳴は息を吸いきったところで止んだ。そこからは貝のようにじっと押し黙り、動かなくなる。それが逆に怖くなって、コメットははらはらとしていた。次の瞬間、ネブラはサダルメリクの座っている椅子を蹴って、「この野郎!」と叫んだ。

 どんな形相でネブラが怒鳴っても、サダルメリクは笑っていた。酔っぱらいになにを言っても無駄だと悟ったネブラは、どすどすと荒っぽい音で踏み荒らしながら、階段を上っていく。自室に戻ることにしたのだ。

 コメットはどうしようかとおろおろして、しかし、ネブラを追いかけるより、目の前の大先生に訴えることを優先した。


「酷いですよ、大先生!」サダルメリクの緩くなった目を見て言う。「いくら大先生でも、ネブラが可哀想です。きっと詩の蜜酒を楽しみにしてたんですよ、歌ってるときはあんなに笑っていたのに」

「おや、笑っていたのか、あの子が! 珍しいね! どんな様子だった? 幸せそうだった?」

「大先生のせいで怒ってしまいました!」

「ふふ、ごめんごめん、話を逸らすつもりはないんだけど。でもね、ふふふ、そうか、ネブラが笑っていたか。ふは、見たかったなあ、あの子の笑顔なんて滅多に見られないんだ。悪どい笑いならしょっちゅうなんだけどね、誰に似たんだか、ははは」


 サダルメリクは酔ったら笑い上戸になる性質たちらしい。なにがおかしいのか細やかに、けれどネブラよりは品よく笑って、コメットは困り果ててしまった。

 サダルメリクには悪気はないようで、それだけが救いだった。いや、救いではないのかもしれないとも思った。だから、ネブラは怒るに怒れず、部屋に戻っていたのだ。

 これではネブラが可哀想だ。なのに、サダルメリクは心底愛おしそうにネブラのことを話す。

 さきほどの言葉が気になって、コメットはサダルメリクに問いかけた。


「大先生は、ネブラ先生の笑顔が見たいんですか?」

「もちろん。弟子の笑顔はかわいいものだよ」

「それなのに、詩の蜜酒を飲み干しちゃったんですか?」

「それとこれとは話が別でね」うーん、とサダルメリクは首を傾げた。「ネブラには黙っておけるって約束できるなら、コメットには話してあげてもいいけど……どうする?」


 コメットはどちらかと言えば、素直で真面目な性格で、大人の言いつけを守る子供だった。孤児院にいたころも、大人にこうしなさいと言われたことはちゃんとやりとげたし、生まれてこのかた約束したことを破ろうなどと考えたこともない。

 だから、頷いた。それは実に簡単なことだったからだ。次に続くサダルメリクの言葉を、ちっとも想像なんてしないで。


「僕はね、ネブラに、魔法を教えたくないんだよ」






 一階から三階までの階段を一気に上りつめたネブラは、自分の部屋に続く廊下をすたすたと歩いていた。

 急な上下運動に息が上がる。そもそもネブラは運動が得意なほうではない。細身な体には贅肉もなければ筋肉もない。まず胃袋があまり食事を受けつけないのだ。長年の習慣がゆえの後遺症である。

 詩の蜜酒を飲み干されたことには腹が立っていたし、あの酔っぱらいにもうんざりしていた。けれど、そういうことは本当はどうでもよくて、自分の中で持て余した感情をわかっているくせに、たまにどうしようない方法で握り潰してくるようなサダルメリクの態度に、どうして、という恨み言が脈打つのだ。

 貴方だけは知っているはずなのに、わかってくれているはずなのに、どうしてそんなことを言うのだ、あんなことをするのだ、俺を救いようもない塵屑ごみくずみたいな気持ちにさせるのだ。

 ネブラは部屋の扉を開けた。暗い色の物が多く、しかし余計な家具や雑貨はないような、質素でこじんまりとした部屋だ。

 ネブラは外套ガウンを脱ぎ散らかして、ベッドへと座りこむ。顔をあげれば真正面に暖炉があった。ばちばちと火が音を立てていた。

 ネブラは、あの日からずっと、こんな世界なんて火の海に変えてやろうと思っている。

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